第5話 出ちゃうみたい
大きな足音を立てながら洗面所に向かった。蛇口を全開にし、乱暴に顔を洗う。
(なんだよ、あのしっぽ……。耳だって、あんなにはっきりと……!)
バシャバシャと水を跳ね飛ばし、顔を上げる。鏡越しに後ろに立っている宵と目が合った。
銀色の髪から突き出した三角形の耳。
腰元でゆらりと揺れる、大きな尻尾。
それは、たしかにそこに存在していた。
「……何してんの」
「なおや、きゅうにいなくなるから」
宵は、耳をペコっと倒し、少しだけ寂しそうに俺を見つめる。
その仕草が、あまりにも動物じみていて、俺は言葉を失った。
「朝からにぎやかねぇ」
そこへ、おばあちゃんがひょっこりと顔を出した。
ぜ ん ぜ ん 動揺していない。
「お、おばあちゃん! しっぽ! これ、見えてる?」
「ええ、見えてるわよ?」
「なんでそんなに平気なの?」
おばあちゃんはクスッと楽しげに笑った。
「たまに、出るわよ」
「たまに!?」
「昨日もしっぽが出てて、かわいかったわぁ。ふわふわで」
「なんもかわいくなんてない! 普通もっと驚かない?」
必死に詰め寄る俺をいなすように、おばあちゃんは肩をすくめて言った。
「いずれ毎日見ることになるんだから、慣れときなさい」
「いずれ毎日!? それ決定事項? なんで――」
問い詰めようとした俺の袖を、宵がピコピコと耳を動かしながら引っ張った。
「なおや、いや……?」
「いやとかじゃなくて! まず説明して!」
「なおやが、ぼくをみつけたから」
「拾ったのはおばあちゃん!」
おばあちゃんはくすくす笑うだけ。
宵は耳を倒して俺を見上げる。
もう、ほんとに無理……。
俺の常識が、朝から音を立てて崩れていく。
**
朝のやり取りで大幅に時間をロスした。
支度をして家を飛び出した瞬間、冷たい冬の風が顔に刺さった。
朝陽がまぶしいとか、通学路が静かだとか、そんな些細な日常の細かいことは、いまは全部吹っ飛んでいる。
頭の中でずっと回ってるのはただ一つ。
尻尾。
あれ絶対幻覚じゃない。
たしかに触った。モフった。そして巻きつかれた。
それから、耳。
鏡の中の宵には、獣のような耳がくっきりと生えていた。
犬か、狐か。いや、あの立ち姿はもう、狐そのものだ。
「……いや、無理」
思わず声が漏れた。
完全にキャパオーバー。
独り言をこぼしながら歩く俺を、通りすがりのサラリーマンが不審者を見るような目で避けていく。
いや、分かってる。今の俺は完全に不審者だから仕方ない。
大学までの道のりも、電車に揺られている時間も、講義の教授の声も。
すべてが空っぽのまま通り過ぎていく。
ノート開けばペンが動いた跡はあるが、何を書いたかさっぱり記憶がない。
たぶん身体は物理的には授業受けてたんだろうけど、俺の脳は家に置いてきてしまったようだ。
宵って、狐なの?
いや狐って言葉軽くない?
耳と尻尾生えてる男。そんなの、妖怪かファンタジーの世界の住人じゃん。
外国人どころか、人間じゃない説!?
でも、宵は喋るし、ご飯も食べるし、人間サイズだし……。
なのに、なぜ当たり前のように俺の布団にいたの?
というか、俺のそばにいると尻尾出るって何?
(何、性感帯?)
「ちがうわ!!」
声出ちゃった。
一番後ろの席でよかった。
講義終わる頃には、さらに謎が増えていた。
不安、疑問、そして――。
なにより、胸がじんわり痛むのが、一番の恐怖だった。
**
一日中考え事をして、ふらふらになりながら帰宅した。
玄関を開けた瞬間、ふわりといい匂いがした。
味噌汁に、これは……しょうが焼きだろうか。
あまりにも『普通』の、家庭的な匂い。
「ただいま……」
「おかえりなさーい」
台所へ向かうと、おばあちゃんが振り返って笑顔をくれた。
その見慣れた顔を見て、ようやくほっとできた気がした。
「なおや、おかえり!」
宵も小走りで寄ってくる。その姿を見てすぐに思い出した。
今朝見た、耳と尻尾の存在を。
「おばあちゃん!」
「なに?」
「今日の朝の……あれ……ちゃんと説明してくれない?」
おばあちゃんは味噌汁の味見をしながら、落ち着いた声で返してきた。
「何を説明してほしいの?」
「何って!!」
思わず声が大きくなる。
「宵の尻尾! 耳! あれ何!? 何者なのあの人!
というか、そもそも人……じゃないよね?」
おばあちゃんは鍋の蓋を軽く閉じて、ゆっくりと俺を見た。
「尚弥」
「……うん」
「変じゃなかったでしょ?」
「めちゃくちゃ変だよ?」
「そうかしら?」
おばあちゃんは、いたずらっぽく笑った。
「宵くんが、宵くんであるだけよ」
「全然求めてる答えと違うんだけど」
「いいのよ、今はそれで」
「よくないから聞いてんのに!」
そのやり取りを黙って聞いてた宵が、おずおずと声を出す。
「なおや……」
「……なんだよ」
宵は少しだけ困ったように、だけどまっすぐ俺だけを見つめた。
「……ぼくね」
「うん」
「なおやに、くっついてると」
「……」
「しっぽ、でちゃうみたい」
「情報量少なっ!」
耐えかねたように、おばあちゃんが吹き出した。
「ほら、簡単でしょ?」
「簡単? じゃない! 全然納得できない」
宵は自分の耳の後ろを指先で触りながら、照れたように視線を落とした。
「ぼく、へんかな?」
「……変とかの問題じゃなくて。っていうか、自分の意思で出てるわけじゃないの?」
宵の表情が、急に真剣なものになる。
「なおや、さわると、あんしんする。だから、出る」
そのあまりにも純粋な言葉を聞いて、全然意味がわからないのに、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
おばあちゃんが、包み込むような柔らかい声で続ける。
「宵くんね、尚弥の近くにいると落ち着くのよね。身体が覚えてるんだと思うわ」
「身体って何? 遺伝子? 記憶? 俺と宵、なんかあったの?」
おばあちゃんは「ふふっ」と笑って流す。
「尚弥、答えはね」
――おばあちゃんの声が、ゆっくり低く下がってく。
「そのうち、宵くん自身が教えてくれるわよ」
意味深。
めちゃくちゃ全部意味深だ。
答えゼロに近いじゃん。
宵は俺の袖をちょんと掴んで、不安げに覗き込んできた。
「なおや、こわい……?」
「……それは、こわいよ」
「だいじょうぶ。ぼく、ここにいるから」
優しい声でそう言いながら、その指先が俺の頬に触れた瞬間――
(……うわ)
宵の耳がふわっと揺れた。
そして宵の背後に、またあの白銀の尻尾が現れるのが見えた。
俺の日常はもう完全に壊れてしまっている。
壊れてるのに――
胸の疼きだけが、いつも通りで。
それがなんだか逆に落ち着いた気がした。
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