第3話 祖母の秘密と布団の中の侵入者


 朝食を囲むテーブルで、俺は黙々と箸を動かしていた。

 ……のだが、どうしても正面が気になる。

 

 宵のお箸の扱いが怪しい。全く使い方がわかっていないようだ。

 話し方も幼いし、狐原宵なんて名前も珍しすぎる。

(もしかして、外国人説とかある?)


 見かねた俺は、箸を持つ手を少し掲げて見せた。

「宵、箸の持ち方はこうだよ」

「こう?」

 宵は俺の手元をじっと観察しながら、不器用に箸を動かす。

「ちがう、こっち。 指をこう添えるのが正解」

「なおや、やさしいね」

 宵はふにゃりと、花が綻ぶような笑みを浮かべた。

 

「優しいわよねぇ、尚弥」

「……どこが?」

 おばあちゃんの茶化すような声に、俺はあえてぶっきらぼうに返した。


 朝食を終えたあと、おばあちゃんいわく「午前中は宵くんが家に慣れる時間にする」とのことで、俺は一人で大学に行く準備を整える。玄関へ向かう俺の背中を、宵の視線がずっと追いかけてくるのがわかった。


「大学、行ってくる」

 俺が告げると、宵の顔が目に見えて曇った。

「いく。ぼくも、いく」

「いや来ないで。家でおとなしくしてて」

「いく」

「ダメに決まってんじゃん。遊びに行くわけじゃないんだから」


 宵はしゅんとうつむいて、捨てられた子犬のような顔をする。それを見ると、まるで俺が悪いことをしているような罪悪感に襲われた。


「はぁ……。帰ってから話そう。……ちゃんと。な?」

 宥めるように言うと、宵の瞳がぱあっと明るく揺れた。

「うん、やくそく」


 **

 

 大学へ向かう道すがら、いつもの景色を眺めながら、昨夜からの出来事を反芻する。

 突然現れた銀髪の男。整いすぎた顔立ちで、中身は子供のように無垢で、正体は一切不明。

 それに、昨日聞いたあの名前のことが耳の奥にこびり付いて、離れない。


『――灯弥とうや


 誰の名前だ?

 いや、もしかして俺? 俺かも。

 なぜかそう感じてしまう自分が、たまらなく不気味だった。


「はぁ……気持ちわりぃ」


 胃が重いし、胸も痛い。

 考えすぎだな。ただの疲れだ。そう自分に言い聞かせても、講義の内容は全く頭に入ってこなかった。

 友人の坂下に声をかけられても、曖昧な生返事を返すのが精一杯だ。


「大丈夫? なんか寝不足?」

「まあ、ちょっといろいろあってさ……」


 寝不足の理由が「美貌の男が俺の布団にいたから」なんて、絶対言えないでしょ。

 きっと理解されないし。

 

 だって、俺も理解してないもん。


 ノートの端に目をやると無意識にペンを動かしていたのか、歪んだ文字が並んでいた。

綾空あやそら

 何の字だろうな?

 今まで見たことも聞いたこともないはずの漢字。


 ……もう、考えるのはやめよう。

 深呼吸しようとして窓を見たとき、遠くに銀髪が揺れるような錯覚を覚えて、ぎょっとした。


 ……もちろん、そこには誰もいない。

(俺、やばいな。本当になんか病気かも……)


 **


 授業を終えて、まっすぐ帰宅した。玄関の扉を開けた瞬間――

 凄まじい勢いで、銀髪が飛びついてきた。


「なおや! かえってきたね!」

「わ、わかったから! やっぱ距離感おっかしい……」


 腕の中に、ふわりと銀髪が広がる。

「なおや、きょう……いなくて、さみしかった」

「いや毎日大学あるんだけど?」


 おばあちゃんがニコニコしながら口を開いた。

「尚弥、良かったわねぇ」

「よくないっての」


 宵は俺の腕に頬を寄せ、嬉しそうに囁く。

「なおや、あいたかった」

 はぁぁぁ。

 なぜか、その声が嘘じゃないことだけは分かる。

 釈然としない思いはあるのに、もう面倒になって、この異常な状況に流され始めていた。


 **


 居間の隅でちょこんと座り、宵は改めて俺を見つめてくる。琥珀色の瞳が優しくて、見つめられるたびに胸が騒ぐ。


「ここ、すき」

「家は物じゃないから……『ここ』じゃなくて『この家』な」

「なおや、すき」

「物じゃないし! 昨日初めて会ったのに、懐き方のスピード早すぎじゃない?」

 呆れてつい吹き出してしまうと、宵もつられて楽しそうに笑った。

 

 その日、初めて心がほぐれた気がした。

『なおや、すき』という言葉が、あまりにも自然に染み込んできて、身体の芯に心地よい温かさが残った。


 **

 

 夜に、風呂の湯気の中で、俺は昨日からの出来事を頭でまとめようとした。


 見知らぬ男が家にいて。

 おばあちゃんが拾ってきて。

 名前呼ばれて。

 同居が決まって。

 抱きつかれて。

 胸が変に痛んで。


 ――意味わかんない。まとまるわけないな。


 天井を見上げると、湯気でぼやける視界の奥に、また銀色の残像を見た……気がした。

「……疲れてるだけだよな、俺」

 自分に言い聞かせる声が、湿った空気に紛れ込んだ。


 風呂から上がって脱衣所に出ると、宵が扉の前に直立不動で立っていた。

「うわっ、びっくりしたぁ!」

 宵は裸足のまま、タオルも持たず、ただ俺の出てくるのを待っていたみたいだ。

「えっと……、なに?」


 宵は少しうつむいて、俺のパジャマの袖をぎゅっと掴んだ。

「ごめん。なおや、きょう、いなかったから」

「えっ? いや、だから俺大学行ってただけ……」

「なおや、いないと、さみしい、こわい」


 その言葉が、嘘とは思えないくらい切実に響いた。

 またズン、と胸が重くなる。

 宵は俺をじっと見つめ、ふわっと弱々しく笑った。

「でも、いまは、いる」

 

 俺は何も言い返せなかった。


 宵と入れ替わりで居間の方に向かうと、おばあちゃんが鏡台の前で髪をとかしていた。

 鏡越しに俺を見ると、彼女は穏やかに、けれど重みのある声で言った。

「尚弥」

「うん、なに?」

「宵くんのこと、よろしくね」

「いやまだ信用してないんだけど」


 おばあちゃんは櫛を止め、鏡の中の俺をまっすぐ見据えた。

「大丈夫よ。あの子、悪い子じゃないから」

「会ったばっかりでよく言えるなあ」

 

 おばあちゃんは、鏡越しにまた笑みを浮かべる。

「――会う前から、知ってるのよ」


 ゾクッとした。

「えっ?」

「宵くんが来たとき、すぐ分かったの。ああ、やっと帰ってきたって思ったわ」

「帰って……きた? 誰が?」

 おばあちゃんは優しく頷くだけだ。

「そのうち分かるわよ、尚弥。宵くんが、あなたを探していた意味がね」


 どういうこと? なにそれ、まじで意味わかんない。

 おばあちゃん、何を言ってるの? 何を知ってるの?

 怖いけど、怖いだけじゃない。身体の中でなにかが疼く。

 これはなに?


 それ以上は聞けず、答えも出ないまま自室に戻ると、宵が先に俺の布団を被って待っていた。

 もう、「何で一緒の布団でねるの?」とか聞く気力も残ってない。

「なおや、おやすみ」

「……おやすみ」

 俺も同じ布団に潜りこむ。宵は布団の端で小さくなり、ギリギリ俺には当たらないが、でも温度は感じる距離で横たわった。


 目を閉じると、俺はすぐに意識を手放した。


 ◇◇


 夢を見た。

 

 湖のせせらぎと冷たい夜風。銀色の尾が揺れる。

 誰かが俺を抱いていた。

 

 あったかいなぁ。すごく安心する。

 

 そして、声がした。


「とうや」


 低くて優しく、今にも泣き出しそうな声だ。


「……また会えた」


 その瞬間、呼吸が震えた。

 

 名前を呼ばれただけなのに、涙が溢れ出す。

 理解なんてしていないのに、俺の中にある『何か』は、すべてを知っていた。


 ――この声を、失いたくない。


 ◇◇


 目を覚ますと、宵が俺の手をぎゅっと握ってた。

 指先からぬくもりが伝わってくる。


 離したくない、と思った。

 違う……こんなこと俺が思うわけない。


 静かな部屋の中で、知らないはずの記憶がかすめる。

 どこかで誰かと、こうして手を繋いでいた気がする。

 でも全然思い出せない。そもそもそんな覚えはないはずなのに。


 でもなんか落ち着くなぁ。

 なんで落ち着くって思うんだろう。


 どこから来てるの? この気持ち。

 まるで別の俺が動いてるみたい。


 この、何かが始まってしまったような予感は、一体なんなんだ?

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