第2話「助手席」

第2話「助手席」


 事故の前のことは、今でも細切れに思い出す。

 意識して掬い上げようとすると、かえって指の間から零れ落ちていくような、そんな記憶だ。

 夜だった。

 空気はひんやりとしていて、窓を少しだけ開けて走っていた。エアコンの風よりも、外の空気のほうが、サキは好きだった。

「ねえ、ジン」

 助手席から声がする。

 名前を呼ばれるたび、ハンドルを握る指先に、少しだけ力が入った。

「今度はさ、どこ行く?」

 サキは軽い調子で言った。

「今度?」

 俺はハンドルを握ったまま、少しだけ首を傾けた。

「うん。次の休みとか」

 サキはシートに背中を預けたまま、天井を見上げるようにして言った。

 考えごとをするときの癖だった。

「海はこの前行ったし……山も寒いしな」

 思い浮かべながら言うと、自然と選択肢が絞られていく。

「じゃあ、あったかくなったらでいいよ。急ぎじゃないし」

 サキはあっさりそう言った。

 急ぎじゃない。

 その言葉が、妙に心に残った。

「じゃあ、夢でもいいからさ」

 冗談みたいな口調だったけれど、どこか本気にも聞こえた。

「は?」

 俺が聞き返すと、サキはくすっと笑った。

「最近ね、ジンの夢見るんだ」

 照れを隠すみたいに、サキは少しだけ視線を逸らした。

「俺の?」

 思わず聞き返しながら、胸の奥がくすぐったくなる。

「そう。内容はよく覚えてないんだけど、一緒にどっか行ってるの」

 サキは楽しそうに続ける。

「こんなに一緒にいるのに、夢でも会えるなんて、ちょっと嬉しくなっちゃって」

 サキは自分でも照れたのか、小さく笑った。

「……なんだよ、それ」

 もうサキとは長く一緒にいるのに、ちょっと照れくさしかった。

「急にそんなこと言うなよ」

 照れを誤魔化すように、俺はぶっきらぼうに返した。

「照れてる?」

 楽しそうに、サキは俺のほうを覗き込む。

「照れてない」

 即座に否定して、視線は前から外さなかった。

「うーん、怪しいなあ」

 サキはそう言って、助手席で身じろぎした。

「ねえ、ジンは? 私の夢、見たりしないの?」

「どうだろな」

 ちょっと曖昧な返事になった。

「どうだろ、って何。それ、見てないやつの答えじゃん」

 少しだけ拗ねたような声が返ってくる。

「覚えてないだけかもしれないだろ」

 ちょっとからかうように言う

「何それ。どっちなの」

 サキの不満そうな声。

 でも、すぐにそれは笑いに変わった。

 何でもない会話だった。

 いつもと変わらないやり取りだった。

 だからこそ、俺は前を見ていた。

 ハンドルを握り、流れていく夜道を、ただ当たり前のように。

 対向車のライトが、遠くに点々と見えていた。

 街灯が一定の間隔で、視界を照らしていく。

 次の瞬間だった。

 対向車線のライトが、不自然な動きをした。

 横に揺れた、ように見えた。

 ――近い。

 そう思ったときには、もう遅かった。

 クラクションの音。

 ブレーキを踏み込む感触。

 ハンドルを強く握り直す。

 金属が潰れる音が、世界を叩き割った。

 身体が前に投げ出され、視界が激しく揺れる。

 何かがぶつかり、何かが壊れる。

 次に意識が浮かび上がったとき、車は止まっていた。

 エンジン音はしていなかった。

 代わりに、どこかで液体が滴る音がしていた。

「……サキ?」

 声は、出た。

 自分でも驚くくらい、はっきりと。

 返事はなかった。

 首を動かそうとして、痛みに息が詰まる。

 視界の端に、異様な光景が映った。

 助手席側が、潰れていた。

 ドアの形は、もうドアとは呼べないものになっていた。

 ガラスは粉々で、金属が内側にめり込んでいる。

「サキ……!」

 名前を呼んだ瞬間、胸の奥が一気に冷えた。

 手を伸ばそうとして、距離が分からないことに気づく。

 近いはずなのに、

 触れられない。

 そのとき、強烈な耳鳴りがして、視界が滲んだ。

 世界の輪郭が、急速に崩れていく。

 誰かの声が聞こえた気がした。

 遠くで、俺を呼ぶ声。

 それが現実だったのか、ただの幻だったのかは分からない。

 次の瞬間、暗闇が、すべてを覆った。

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