「夢で逢いましょう」

なかごころひつき

第1話「生き残った理由」

第1話「生き残った理由」


 目を覚ましたとき、最初に見えたのは白だった。

 白い天井。白い蛍光灯。白いカーテン。

 音はあったはずなのに、しばらくは何も聞こえなかった。

 体が痛い、と認識したのは少し経ってからだ。鈍い痛みが、骨の奥に沈んでいる。どこがどう痛いのかは分からない。ただ、生きていることだけは、嫌でも伝わってきた。

 ――サキ。

 名前を呼ぼうとして、喉がひりついた。声にならない息だけが漏れる。

 視線を動かすと、ベッドの横に立つ人影がいくつかあった。医師。看護師。それから、警察官。誰もが落ち着いた声で、同じことを繰り返した。

「命に別状はありません」

「あなたは助かりました」

「事故の原因は、対向車線を走っていたワゴンの居眠り運転です」

「あなたに過失はありません」

 過失はありません。

 その言葉を聞くたびに、胸の奥が少しずつ冷えていくのが分かった。

「……助手席は?」

 やっと絞り出した声は、思っていたよりもかすれていた。

 一瞬だけ、空気が止まった。誰かが視線を伏せ、誰かが言葉を探す。

「同乗者の方は……残念ですが」

 それ以上は聞けなかった。

 いや、聞かなかったのかもしれない。耳が拒んだのか、頭が理解を放棄したのか、今でも分からない。

 ただ、はっきり覚えていることがある。

 その瞬間、頭の中に浮かんだのは、事故の衝撃でも、痛みでもなく――助手席の、潰れたドアだった。

 あれから一年が経った。

 仕事には復帰した。食事も取っている。夜も眠っている。

 表面上は、何一つ問題のない生活だ。

 それでも、時間が進むたびに、何かが置き去りにされていく感覚だけは消えなかった。

 誰も、俺を責めなかった。

 警察も、医師も、サキの家族でさえも。

「あなたが無事でよかった」

「仕方なかった」

「事故だったんだから」

 その優しさが、かえって苦しかった。

 ハンドルを握っていたのは、俺だった。

 サキを助手席に乗せたのも、俺だった。

 眠くなったら言えよ、と言ったのも俺で、前を見て走っていたのも、俺だった。

 それなのに、俺だけが残った。

 その理由が欲しかった。

 ちゃんと納得できる説明が欲しかった。

 でも、一年経っても、それはどこにも見つからなかった。

 だから今夜、ここに来た。

 街灯の数は少なく、夜道は思った以上に暗い。

 郊外に伸びる旧道。昼間でも人通りは多くないが、深夜ともなれば、ほとんど車も通らない。

 ガードレールの向こうから、風に混じって草の匂いがした。

 アスファルトはひび割れ、白線はところどころ消えかけている。

 このカーブだった。

 何度も写真で見た。

 何度も夢に出てきた。

 腕時計を確認する。

 サキが亡くなったとされている時刻まで、まだ少しあった。

 花束を地面に置く。

 鮮やかなピンクの花。ネリネ。

 花言葉は「また会う日を楽しみに」

 静かだった。

 遠くで犬が鳴く声がした気がしたが、すぐに消えた。

 聞こえるのは、自分の呼吸と、風がガードレールを撫でる音だけ。

 一年前の同じ時間。

 同じ夜。

 同じ場所。

 ここで、すべてが終わった。

 そして、ここで――終わらせるつもりで、俺は来た。

「……サキ」

 名前を呼ぶと、胸の奥がひりりと痛んだ。

 返事がないことは、分かっている。それでも、呼ばずにはいられなかった。

 時計の針が、ゆっくりと進んでいく。

 もうすぐだ。

 俺は深く息を吸い、夜の冷たい空気を肺に送り込んだ。

 そして、心の中で、静かに言った。

「サキ、やっと会えるね」

 その言葉が、本当に届くかどうかは――

 まだ、分からなかった。

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