【暴力】暴力とは相手を人として扱わないという『宣言』である
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
暴力という行為が壊すものは何か
人は言葉によって傷つく。これは誰もが経験的に知っていることだ。侮辱されたり、見下されたり、存在を否定するような言葉を投げつけられると、心の奥に小さくない傷が残る。言葉は目に見えないが、意味を持つ。意味は人の内側に入り込み、その人が自分をどう捉えるか、世界をどう理解するかに影響を与える。だから言葉の暴力は確かに存在するし、時に深刻な後遺症を残す。
しかし、殴られるという行為は、言葉による攻撃とは質が違う。単に強度が違うとか、怖いとか、そういう話ではない。構造そのものが異なる。殴られるとき、人は二重に傷つく。ひとつは身体的な痛みとしての傷。もうひとつは、「殴ってもいい存在だと判断された」という評価そのものによる精神的な傷である。この二つが同時に、しかも切り離せない形で押し寄せるところに、身体的暴力の本質がある。
たとえば、タンスの角に頭をぶつけた場合を考えてみる。痛い。場合によっては激痛だし、血が出ることもある。しかしそこに意味はない。タンスは判断しない。選ばない。評価もしない。ただそこに物体があり、偶然ぶつかったという物理的な事故が起きただけだ。その痛みは身体に限定されており、人格や尊厳の位置づけにまで侵入してこない。痛みは残っても、「自分はどう扱われたのか」という問いは発生しない。
殴られる場合は違う。そこには必ず意図がある。行為者が存在し、その人が判断し、対象を選び、力を行使する。その瞬間、身体への衝撃と同時に、ひとつのメッセージが送り込まれる。それは「この人間には、通常守るべき制限を適用しなくてよい」という宣告であり、「対話や配慮の対象ではない」という位置づけの変更である。殴るという行為は、単に痛みを与える動作ではなく、人間関係のルールを意図的に破壊する行為なのだ。
殴られた人が感じるのは、「痛い」という感覚だけではない。「自分は殴られてもいい存在なのだ」「こいつは殴っても問題ないと判断されたのだ」という評価が、暴力と同時に流れ込んでくる。この評価は言語として明示されなくても、行為そのものが雄弁に語る。だから殴られるという経験は、身体への攻撃であると同時に、尊厳への攻撃になる。
人間にとって本当に深刻なのは、痛覚そのものよりも、自分が社会の中でどの位置に置かれたかという情報である。人は、痛みにある程度耐えることができる。しかし、「人として扱われなかった」という経験は、存在そのものを揺るがす。安全圏から排除されたという感覚、通常適用されるはずの配慮や制約が外されたという事実は、心に長く残る傷になる。
だから、殴られる痛みは身体と精神の倍の傷になる。これは誇張ではない。構造的にそうなっている。身体的損傷と、社会的評価の破壊が同時に起こるからだ。しかもこの二つは分離できない。後から「身体だけの問題だった」と切り分けることが難しいのは、最初から評価が混入しているからである。
この点で、殴るという行為は差別と構造的に非常によく似ている。差別の本質は、理由の正当性にあるのではない。扱いの基準を意図的に変えることにある。通常なら守られるルールを、この人にだけ適用しない。その選別行為そのものが差別だ。殴るという行為は、「他の人にはしてはいけない扱いを、この人にはしてよい」と判断する点で、ミクロな差別行為と言える。人種や属性に限らず、力関係や立場、無力さを根拠にした差別が、暴力という形で露出している。
ここで非常に重要なのは、殴られたという事実が、殴られた側の価値を示しているわけではないという点だ。殴る行為が伝えようとしている評価は、「お前は殴られるに値する存在だ」という主張かもしれない。しかしそれは事実の評価ではない。示されているのは、殴った側が人を人として扱う能力を失っているという事実だけである。暴力は評価ではなく、評価能力の崩壊なのだ。
にもかかわらず、多くの人は殴られた経験を、自分の価値の証拠のように内面化してしまう。「自分が弱いから」「自分がくだらないから殴られたのだ」と考えてしまう。しかしそれは、行為の構造を取り違えている。殴られたことは、被害者の位置づけを示すものではない。加害者の倫理的破綻を示しているにすぎない。
言葉の暴力も、身体的暴力も、共通しているのは「相手を人として扱うルールを外す」という点だ。違いは、その外し方の深さと即時性にある。殴る行為は、身体を媒介にしてその否定を一気に叩きつける。そのため、回復には時間がかかりやすいし、理解が追いつかないまま傷だけが残ることも多い。
しかし、この構造を言語化できたとき、状況は変わる。暴力を「自分が悪かった証拠」ではなく、「相手が人を人として扱えなかった証拠」として捉え直すことができるようになる。これは痛みを消す魔法ではないが、傷の意味を反転させる力を持っている。
暴力とは、痛みを与える行為ではない。人間扱いを拒否する行為である。この理解に立つとき、殴られた経験は、自己否定の材料ではなく、暴力という現象の本質を知った証になる。構造を見抜くことは、再び同じ評価を内面化しないための、静かな防御になる。
【暴力】暴力とは相手を人として扱わないという『宣言』である 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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