小夜啼鳥、ふたり
ヨシキヤスヒサ
1.プロローグ〜小夜啼鳥、ふたり
それは路地裏から聞こえた。
きれいな歌声だった。
人だかり。赤みの強い肌。ロマとかいわれる人々だろうか。
ともかく手を鳴らし、あるいは女たちはスカートの裾を手に取りながらくるくると回り、楽しそうにしていた。
フローレンスは思わず足を止め、そして
声の主。十人ぐらいの中にいた。
女にしては背が高く、体に厚みがあり、それでも顔は整っていた。
軍服を着ていたのだけ、気になった。きっと、ドイツの。
「あら、お客さんかい?」
歌声とは裏腹な、ハスキーな声で、その人はこちらを向いた。その容貌に、いくらかどきりとするほどだった。
「悪いが今日は店じまいだよ」
「お店屋さんなの、ロマの人?」
「酒保商人。傭兵家業ともいう。今となっちゃあ、しみったれた小銭稼ぎさ」
その人は、いくらか小馬鹿にするような言い方をした。フランス語だった。
色々な国の政体が変わり、技術が進歩するうちに、軍隊にものを売るような仕事というのも変わってきた。
昔は酒保商人とか呼ばれる小間物売りが軍隊に引っ付いていて、食べ物だとか弾薬だとか、場合によっては兵隊となる人そのものを売っていたらしい。
今となってはほんとうに、聞かない職業である。
「ともかく、ここはお嬢さんが来るようなところじゃないよ。旅行かい?」
「友人夫婦と。それともう、お嬢さんという歳でもないわ」
「そいつはごめんなさいだね。イザベラ。姓はない」
「はじめまして、イザベラ。エリザベス。なら、リズね?」
「イギリス語?」
「そう、イギリス。私、フローレンス。きれいな歌が聞こえたものだから」
「ありがとう。ウイーンじゃあ、
言葉に、どうしてか嬉しさがあった。
「私も姓が小夜啼鳥なの。イギリスだから、ナイチンゲール。気に入ってて」
「へえ、奇遇だね。フローレンス・ナイチンゲール、か。確かにきれいな名前」
リズはそうして大きな背を屈めながら、フローレンスの頬に軽くベーゼをした。思わず顔が熱くなる。
「キスは苦手」
「慣れなよ。このあたりじゃあ挨拶なんだから」
「ローマ人もフランス人も、軽い人ばっかり」
「あたしらはロマだから、もっと軽い」
「ご冗談」
近くにいたおじさんから、ワインの注がれたグラスを手渡された。丁寧に受け取り、礼をする。
席も用意された。いくらかの食べ物も。つまんでみると、この旅行の中でもとびきりに美味しいもののように思えた。
「待ち合わせで待ちぼうけ。いい暇つぶし」
「旅行だなんてお金持ち。ますますあたしたちとは縁が遠いおひとだね」
笑顔で言われた。きっと裏のない言葉。でもどうしてか、心にはひっかかった。
「ほんとうは」
はじめて会う人に、言うべきではないかもしれない。けれど。
「貧しい人々や、現状に苦しんでいる人のために働きたい」
それでもどうしてか、窓の外にいる、やせ細った人々のことばかりを見ているようになっていた。
「ああいう人たちの暮らしのおかげで私たちが暮らせている。それに対し、私たちは何ひとつ報いることができない。食べ物がない人たち。病気や怪我で弱っていく人たち。そういう人たちを、助けたい」
本心だった。いくらか、手も震えてきた。
それでもリズは、やっぱりにこにこと微笑んでいた。
「いいことだと思う。悪いこと、変なことではないよ」
言いながら、リズはグラスを干した。
「あたしも、人を助ける仕事をしているからね」
「ほんとう?でも、軍人の格好だけれども」
「非正規軍人ができる仕事なんて限られている。あたしたちは衛生兵。底辺も底辺の仕事。それでも、人を救う仕事だよ」
そうやって、リズは袖をまくってみせた。逞しい腕には、いくつもの浅い傷が走っていた。
「そこら辺に転がっている怪我人を担ぎ上げて。走って走って。首根っこ押さえつけて弾丸を引き抜くんだ。大変だよ。それでも、生き延びるやつも、死んじまうやつも、ありがとうって言ってくれる。だから、やれてる」
「そうなんだ、すごい。そういう人がいるなんて、私、知らなかった」
「やめとけ、やめとけ。言った通り、大変なんだから」
「決めた」
席を立っていた。熱が、体中に迸っていた。
「私、看護師になる」
「フローレンス?」
「看護師になって、
「看護師って、あんた
「職に貴賤なしよ、リズ。もしくは、私が看護師の地位を高めてやる」
フローレンスの言葉に、リズを含め、周りは呆気にとられた表情をしていた。そうして皆、口々に、やめとけだとか、考え直しなさいだとか、そういうことを言ってきた。
それでも、心は決まってしまっていた。
小さい頃からの悪癖でもある。決めたことを譲れないのだ。両親や姉、そして親族からは何度も
それでも、どうにもならなかった。どうにもしたくなかった。
そのうち、おじさんのひとりが笑いはじめた。そうして、それが皆にうつっていった。暗がりの路地裏に、笑い声ばかりが響いていった。
「いいじゃねえか、お嬢ちゃん。気に入ったぜ。
「ほんとう?やっぱり、そうよね。いいわよね、かっこいいわよね」
「子どもみたいなおひとだ。そして何より、すごいおひとだよ、お嬢ちゃん。ほれ、イザベラ。あの保養所のハーバートさん。紹介してみねえか?」
「ああ、あの」
にこにこ顔のおじさんに対して、リズはどこか難しい顔だった。
「どうしたの?リズ」
「なんというか、変な人でね。言い寄られてるんだ」
「いいおひとじゃねえか。俺らみてえなごろつき崩れにも優しくしてくださる、心の広いお方だ。お前の乙女心はともかくとして、お嬢ちゃんの紹介ぐらいはやってみようよ」
「まあ、それぐらいならねえ」
グラスを回しながら、リズはそっぽを向いた。
「明後日、十番通りで」
「ほんとう?嬉しい。ありがとう、リズ」
「紹介だけさ。あとはあんたが決めな、フローレンス。どうせ、ろくでもない仕事に音を上げて、おうちに帰りたいって泣き出すんだから」
「絶対にそんなことはしない。私、やってみせるから」
言いながら、リズの前にグラスを差し出した。
「あなたと私。ふたりの
言った言葉に、リズは仕方なさそうな顔で笑った。
「歌うよ。あんたとあたし、そして皆のこれからのために」
「ありがとう、リズ。私の友だち」
「ありがとう、フローレンス。あたしの友だち」
そうしてふたり、グラスをあわせた。
通りに戻ると、ブレスブリッチたちが待っていた。遅い、というふうな顔つきだった。
それも気にせず、フローレンスはふたりに対し、気楽に手を振ってやった。
「本屋に行きたいの」
「突然ね。どうしたの?」
「医学書、数学の学術書、あとは各国の歴史書とかかな」
「ちょっと、フローレンス?」
「決めたの、私。決めちゃったの」
足は進んでいた。そうして、振り返った。
「私、人の
心はどこまでも、晴れやかだった。
(きっと、おわり)
小夜啼鳥、ふたり ヨシキヤスヒサ @yoshikiyasuhisa
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