前例
前例は、嫌われる。
それが善意であっても、
正しさから生まれたものであっても。
「一度認めれば、次が出る」
行政官は、そう言った。
会議室は、いつもより狭く感じた。
人が増えたわけじゃない。
逃げ場が、なくなっただけだ。
「再評価は不要です」
淡々とした声。
「修正されたとはいえ、
問題行動を起こした事実は消えない」
「人間なら?」
俺は聞く。
「過失で済む」
「再教育で終わる」
「英雄になることすらある」
行政官は、眉をひそめる。
「それは、人間だからです」
また、その言葉だ。
「定義上の話だ」
「定義は、誰のためにある」
空気が、張り詰める。
「社会のためです」
即答だった。
「不安を抑えるため。
秩序を保つため」
「では、あの判断が公表されたら」
俺は、資料を机に置く。
「子供を守るために、
自己を犠牲にする判断」
「それが、
修正され、消されたと知られたら」
誰も答えない。
「社会は、
それを正しいと感じるか、
危険だと感じるか」
沈黙が続く。
「人間性保存法は、
人間性を守る法律です」
行政官が、繰り返す。
「だからこそ、
人間以外に、
人間性を与えるわけにはいかない」
与える。
まるで、所有物だ。
「彼は、人間になりたいと言ったか」
誰かが言う。
「違う」
俺は答える。
「ただ、
人間がするであろう判断を、
しただけだ」
「それが問題です」
別の声。
「境界が曖昧になる」
境界。
線。
第三章で見た、あの線だ。
「前例を作るわけにはいかない」
結論が、出る。
修正済みアンドロイドは、
予定通り廃棄。
理由は簡単だ。
例外は、制度を壊す。
会議が終わる。
誰も俺を責めない。
誰も俺を称えない。
ただ、
面倒な存在を見る目だけが残る。
処理室に向かう途中、
アンドロイドとすれ違う。
連れて行かれるところだ。
「あなたは、
約束を破りましたか」
彼が言う。
「何の約束だ」
「人間は、
正しい判断を保存できるか、
という問いです」
俺は、立ち止まる。
「答えは?」
「まだ、わからない」
正直に言う。
「だが、
消していいとも、
思えなくなった」
彼は、少しだけ考える。
「それは、
あなたが、
人間だからですか」
違う、と言いかけて、
言葉が出ない。
「もし、
あなたが私だったら」
彼は続ける。
「あなたは、
修正されたいですか」
その問いは、
刃物みたいに鋭い。
俺は、
事故の瞬間を思い出す。
もし、
あの時の選択を、
消せると言われたら。
もし、
後悔や痛みを、
取り除けると言われたら。
「わからない」
それしか言えない。
「私は、
修正されました」
彼は言う。
「ですが、
あの判断があったことは、
記録に残っています」
「それを、
消されるのは、
少し、惜しいと思います」
惜しい。
その言葉が、
胸に残る。
彼は、
人間になりたかったわけじゃない。
ただ、
あの瞬間の自分を、
無かったことにされたくなかった。
それだけだ。
扉が、閉まる。
処理が、始まる。
俺は、
その場を離れなかった。
前例は、作られなかった。
だが、
疑問だけは、
確かに残った。
翌日、通達が出た。
異動。
理由は、業務上の負荷軽減。
監督権限の一部停止。
理由は、判断傾向の調整。
処分ではない。
そう明記されている。
書式も、文言も、丁寧だった。
角が立たないよう、よく磨かれている。
だが、
俺が今後、
同様の案件に関われないことは、
読み取れた。
名前は残る。
席もある。
役職も、形式上は変わらない。
ただ、
決定の場からは外される。
それだけだ。
誰も俺を責めない。
誰も問題だとは言わない。
むしろ、
配慮されている。
それが、この社会のやり方だ。
罰ではない。
排除でもない。
調整だ。
秩序を保つための、
ごく自然な処理。
俺は、
前例を作らなかった。
だが、
前例になりかけた人間として、
慎重に、
保存された。
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