保存されるもの
庁舎の一角に、展示室のような廊下がある。
壁一面に、過去の法改正と判例が並んでいる。
誰のための展示かは、誰も知らない。
通る人も少ない。
俺は、そこを通る。
用がなくても。
ガラスケースの中に、古い新聞記事がある。
アンドロイド社会が発足した年のものだ。
《共存への第一歩》
見出しは、今も色褪せていない。
当時の写真には、人が映っている。
研究者、政治家、市民。
皆、笑っている。
アンドロイドも写っている。
笑ってはいない。
そういう設計ではなかったからだ。
その下に、法律の条文が刻まれている。
――人間性保存法。
目的条項。
人間の尊厳と人間性を未来に保存するため、
本法は必要な定義と区分を定める。
保存。
冷凍庫に入れるみたいな言葉だ。
人間性は、腐るものだとでも思われていたのだろうか。
次の条文。
生体脳を有する存在を、人間と定義する。
短い。
だが、これで多くのものが切り落とされた。
脳だけを残して生きている俺は、
この一文に、かろうじて引っかかっている。
首の皮一枚だ。
「便利な法律だろ」
背後から声がした。
行政官だ。
この法律の運用に関わっている。
「揉めない」
そう言って、肩をすくめる。
「心なんて曖昧なものを基準にしたら、社会がもたない。
だから、測れるものだけを残した」
正しい。
社会の論理としては。
「人間を守るためです」
彼はそう言う。
本気で。
「守られているのは、定義だ」
そう言いかけて、やめた。
議論する気はない。
勝ち目もない。
会議室に戻ると、アンドロイドが待っていた。
処分までの待機だ。
「あなたは、この法律をどう思いますか」
また、答えにくいことを聞く。
「秩序は必要だ」
「秩序のために、私は廃棄されますか」
一拍、間が空く。
「規定上は」
彼は、納得したように頷く。
「では、問題ありません」
その言葉が、引っかかる。
問題がないはずがない。
だが、何が問題なのか、
俺は言葉にできない。
窓の外で、子供たちが歩いている。
信号を守り、横断歩道を渡る。
守られている。
規則によって。
だが、規則がなかったら、
誰が、彼らを守るのだろう。
俺は、保存されている。
人間として。
アンドロイドは、保存されない。
部品として。
その差が、
本当に人間性なのか、
もう、わからなくなっていた。
法律が出来た当初、
人々はこの言葉を何度も口にした。
「区別であって、差別ではない」
便利な言い回しだ。
免罪符みたいに、よく効く。
人間とアンドロイドは違う。
違うから、扱いも違う。
それだけの話だ、と。
だが、その「違い」は、
誰が決めたのだろう。
生身の身体か。
脳か。
それとも、出生の履歴か。
もし、心があるなら人間だとするなら、
心があることを、どう証明する。
心拍数か。
涙か。
叫び声か。
全部、模倣できる。
だから人は、
測れるものだけを信じることにした。
脳。
電気信号。
ニューロン。
それ以外は、
「無かったこと」にした。
人間性保存法は、
人間性を守るための法律だと説明される。
だが実際には、
人間性を定義の中に閉じ込める法律だ。
保存とは、
変化を許さないという意味でもある。
それ以上、人間が揺らがないように。
それ以上、人間という言葉が拡張しないように。
「人間であり続けるために、線を引いた」
誰かが、そう言っていた。
線のこちら側に、人がいて。
線の向こう側に、彼らがいる。
その線を踏み越えた瞬間、
どちらでもなくなる存在が、
確かに、ここにいる。
俺だ。
生身を失い、
だが脳だけは残した。
生きている。
考えている。
後悔も、痛みも、罪悪感もある。
それでも時々、
自分が「保存されている標本」みたいに感じる。
ガラスケースの中で、
かろうじて人間と呼ばれている。
アンドロイドを見るたび、
思う。
彼らと、
俺と、
どこが違う。
彼らは、
守ろうとして、壊される。
俺は、
壊れた結果、守られる。
その差は、
人間性と呼ぶには、
あまりにも薄く、
あまりにも都合がいい。
アンドロイドが言った。
「問題ありません」
あの言葉は、
納得じゃない。
諦めだ。
諦めを、
理解と呼ぶ社会。
理解を、
共存と呼ぶ社会。
それを、
進歩と呼んでしまった社会。
俺には、
この都市が、
とても静かな地獄に見えた。
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