第15話 ナタラージャ/舞踏の王④ 活動写真館 住人は幸福な夢に閉じ込められている
大きな開き窓の外に、町の中心の時計塔が見える。
もう昼をとうに過ぎ、夕方が近い。
——そうだ、アキラと合流するんだった。
スンは起き上がると、壁に立てかけていた槍を手に取った。
いつ、なにが起こるかわからない以上、武器は手放せない。
だが、警官に怪しまれないだろうかという不安もあった。
すると、槍がぼうっと光り、水色のフリルの付きの日傘へと変わった。
ハードライトの効果だ。
「はは、これはいいな」
スンはごつい鍵を大きな鍵穴に刺しこみ、ごりっと回して錠をかけた。
女中の「いってらっしゃいませ」の声を背に宿を出た。馬車はすでにいなかった。
スンは困った。ここから駐車場までの道のりがわからないのだ。
とりあえず、賑やかなほうへ歩けばいつか通りに出られるだろう。
日傘を差すと、とたんに自分がこの町の一部になった気がして、高揚感がこみ上げた。
細い路地を抜け、年季の入った石段を下る。
やがて人の声や足音が大きくなっていき、石段を下りきって生垣の間を抜けると、突然、賑やかな界隈に出た。
焼き芋屋、飴細工師、金魚売りが露店を出している。
薬局ではカフェインの錠剤や電気膏が瓶に入れて売られ、骨董屋ではショウウインドウの向こうにオルゴール、錦絵、万年筆が並んでいる。
パン屋ではラムネパンやジャム入りロールパンが一斤単位で量り売りされている。鼻をつく香ばしく甘酸っぱい匂い。
向かいの喫茶店ではオープンエアのテーブルで貴婦人たちがプリン・ド・アラモードをつついている。
しゃがれ声で新聞を売る少年はつばの短いキャップを被り、サスペンダーの付いた半ズボンを履いている。
懐から小銭を出して新聞を買う髭の男性は上等そうな山高帽に丸眼鏡。
懐中時計をちらりと見る。
二人は顔立ちがよく似ているが、身分は服装の違いに露骨に表れていた。
馬車が通り過ぎ、大道芸人のアコーディオンが陽気に鳴る。
飴細工のような滑らかな車体の路面電車がゆっくりと人々の間を縫っていく。
通りのガス灯には「花言葉」と銘打たれたランプカバーがかかっており、通りにはそれぞれ花の名前がついている。
スンは胸が躍った。
これまで感じたことのない好奇心と、なにかが起こりそうな予感にざわついた。
この町は、AI神がマントラで過去の幸福な時間を再現したものだという。
たしかに、町は華やかで活気に溢れている。
身分や貧富の差はあるのだろうが、それぞれが役割を果たそうとしていて、町は健やかに繁栄しているように見えた。
引っかかるのは、ケハラの言葉だ。
——住人は、幸福な夢に閉じ込められている——。
これは夢なのだろうか。
だとすれば、今は醒めてほしくない——そう思ってしまう自分がいる。
目抜き通りを抜けると、緑地が増え、人はまばらになった。
運河沿いの遊歩道を歩いていると、煉瓦造りの小さな歩道橋があり、その下にトンネルが口を開けていた。
トンネルの手前には橋の上に出られる石段がある。
その橋の上を、ひときわ目を引く女性が歩いていた。
落ち着いた薄藤色のパラソル。
桃色の袈裟に朱色の袴。
切りそろえられた前髪、橙色のリボンのついた白い帽子。
人形のように端正な顔立ち。
まっすぐに何かを見通すような大きな瞳。
唇は知的に結ばれ、それでいてあどけなさを残す少女の面影。
年齢はスンとさほど変わらないだろう。
服装はスンと似ているのに、着こなしの完成度が段違いだった。
刺繍や細部の装飾、色の組み合わせの趣味の良さに思わず見とれてしまう。
背筋をピンと伸ばした姿勢も、凛とした表情も、輝くような気品を帯びていた。
——ハナモンの令嬢だ。
スンは直感した。
女性は優雅な足取りで橋を渡り、公園の生垣に沿って湾曲する歩道を歩いていく。
スンは石段を駆け上がり、上段の歩道に出て、その後姿を追う。
夕暮れ近い泡色の空の下、彼女のパラソルが揺れる光景はまるで一幅の絵画のようで、一瞬、現実感が薄れた。
そのとき、汽笛が鳴った。
音のほうを振り向くと、煙を吐く蒸気機関車が通りに並行した線路を走ってくる。
いくつもの車両を連ねた小型の旅客列車が通り過ぎ、湾曲した通りに沿うように走り去っていった。
汽車に気を取られた一瞬の間に、スンはパラソル美人の姿を見失っていた。
速足で通りを進むと、そこは人通りの多い繁華街だった。
商店が並び、馬車がひっきりなしに行き交っている。
おそらく、この先に駅があるのだ。
商店の中に、異質な店があるのが目についた。
大きさはほかの店と変わらないが、どう見ても劇場だ。
パラソルを持った女性の姿が描かれた手書きのポスターが表に貼られている。
その女性は、さっきのパラソル美人に似ている気がした。
開き戸の片方が開いていて、中の薄闇が蠱惑的に覗いている。
まるで、こちらを招き入れようとしているようだ。
近づくと、突然、ベストを着た小柄な老人が中からひょっこり顔を出した。
薄い頭髪に銀色の丸眼鏡。つぶらな目を細め、微笑んだ。
「活動写真館です、ご興味がおありでしたら、どうぞ中へ」
言われるままにスンは入館した。
奥の扉を抜けると、そこは暗い小部屋だった。
二十人ばかりが座れる客席が段々に並び、正面には小さなステージとスクリーン。
神学校の視聴覚室に似ているが、つくりはとても古風で、時代を感じた。
客はほかにいなかった。
活動写真とは動画のことだろうか——そう思いながら、がらがらの客席の真ん中に座り、スクリーンを見つめた。
「それでは上映いたします」
頭上の幻灯機から飛び出た筒が光り、スクリーンに映像が浮かぶ。
映っていたのは、袴姿の丸眼鏡の青年と着物姿の若い女性。
女性はさっきのポスターの絵のとおりだった。
荒い画質のモノクロ動画。
カクカクした動き。
音声はなく、字幕で台詞と状況が説明される。
物語はこうだ。
小説家を目指すシュウジャのマナブと、ハナモンの令嬢トキコ。
二人は文学サロンの朗読会で出会い、身分違いの恋に落ちる。
親や兄弟は交際に猛反対し、トキコはハナモンの子息との婚約を強要される。
マナブとトキコは外国への駆け落ちを計画する。
いつもの散歩と見せかけて家を出たトキコは、約束の駅でマナブを待つ。
しかし、マナブは現れない。
絶望したトキコは入水自殺する——。
話はそこで唐突に終わった。
幸福な時代を再現しているはずの都市で、身分社会の悲劇を再現している。
——創作だから許されたのか。
スンはさっき見かけたパラソル美人を思い出していた。
服装や歩き方、横顔の輪郭も、トキコの印象と重なった。
この活動写真は、後に作家になったマナブが脚本を書いたのではないか——そんな気がした。
「いかがでしたかな」
気づくと、老人が通路に立っていた。
「あ、ああ。面白かったよ」
「どのあたりが?」
「……いや、正直、よくわからないところがあった。なんでマナブが現れなかったのか、とか」
「そうですか、そうですか。貴重なご意見、ありがとうございます」
老人の目が丸眼鏡の奥で一瞬、鋭く光った気がした。
「それではお代金、五〇〇〇セン頂戴いたします」
スンは懐からプリペイド・チップを取り出した。
「なんですか、それは? こんなものは使えませんが」
——しまった。
スンは町で男たちが新聞を買うときに小銭を払っていたのを思い出す。
「ああ、両替が必要なのか。今、持ち合わせがないんだけど、あとで払いにくるよ」
老人の顔がみるみる険しくなっていく。
「それはなりません。今すぐお支払いいただけないのなら、警察を呼びます」
老人が指を鳴らすと、わきの扉が開き、制服姿の警官が二人現れた。
「無銭鑑賞罪で告発します」
「え、ちょ、ちょっと!」
警官がじりじりと近づいてくる。
状況の不自然さに戸惑いつつも、スンは立ち上がり、日傘を槍のように構える。
怪しまれていて、罠にはめられた?
いずれにしても、捕まるわけにはいかない。なんとかして逃げなければ。
警棒を構える警官たち。
老人は灯りの消えた幻灯機の影に隠れている。
スンは座席の上に立ち、背もたれを足場にして跳躍した。
一気に座席を飛び越え、出口を目指す。
警官が反応して追ってくる。
観客室の扉を抜け、館の扉を抜け、通りに飛び出す。
背後から警棒で殴りかかってきたのをかわし、パラソルで反撃する。
警官は警棒でそれをいなし、蹴りを見舞ってくる。
手でガードしてなんとか直撃を避ける。
もう一人の警官がきええと叫んで飛びかかってくる。
身をひるがえして警棒の一撃をかわす。
通行人が集まってきた。
余興だと思ったのか、拍手する者もいる。
二人の警官の警棒による波状攻撃をパラソルでしのぐも、スンは徐々に背後の石塀にまで追いつめられていく。
——こいつら、強い。本気を出さなければ。
そう思ったとき、パラソルの先端が青く光り、幻影が火花とともにはじけてプラズマ槍に戻った。
ひるんで動きを止める警官たち。
観衆がどよめく。
一瞬の隙をついたスンの突きが、警棒を振り上げた警官の右肩を貫く。
違和感があった。
槍は肩に刺さっているが、まるで水を貫いたかのように手ごたえがない。
警官はぎらりとした目つきでスンを睨み、警棒を振り下ろそうとする。
そのとき、一台の屋根のない小型馬車がすごい勢いで走ってきた。
「どいた、どいたあ!」
運転していたのはマントを羽織ったアキラだった。
新聞売りの少年が被っていたようなつばの浅いキャップを被っている。
馬車の直撃を避け、飛び退く警官たち。
馬車はスンと警官の間に割って入るように停車した。
「スン、乗れ!」
スンは馬車に飛び乗る。
止めようとする警官に向かって、アキラの肩に乗っていたバガスが衝撃波を放つ。
ぱしゅっ。
後ろに吹き飛ぶ警官。ざわめく通行人たち。
線路沿いの湾曲した通りを道なりに走った。
「追ッテクルゾ!」
警官二人が人間離れした脚力で追いすがってくる。
槍で肩を貫いたはずなのに、負傷している様子はない。
「あいつら、機械兵か? 槍が効かなかった」
「あれもハードライトだ。都市の記憶が作り出した幻影だよ」
馬車はさっきスンが歩いてきた方向に向かって戻っている。
パラソルの女性とすれ違う。
馬車が起こす風に耐えるように帽子を押さえる美人。
さっきと同じルートを、さっきと同じ足取りで歩いていく女性。
やっぱりトキコだ。
服装も、しぐさも、表情も。
活動写真は彼女の気品と美しさを見事に再現していた。
少し間を置いて汽笛が鳴り、汽車がやってくる。
駅に向かって走っている。
同じタイミングだ。
「時間がループしている――?」
スンの脳裏に、またケハラの言葉がよみがえる。
——住人は幸福な夢に閉じ込められている——。
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