第11話 カルナ/慈悲⑪ 英雄に アキラを、お願いね
ユビキタ村に戻ると、なにかがおかしかった。
空気の匂いが違っていた。
焦げたプラスチックの匂いと、発泡材が溶ける甘い臭気。
アキラの自宅は、ドアが半ば吹き飛ばされていた。
ポストのルドルフは真っ二つに折れていた。
「……ただいま」
誰にともなく呟いて中に入る。返事はなかった。
キッチンは、原形をとどめていなかった。
電気釜のシュタイナーはひしゃげ、内部から砕けた基板がはみ出している。
机の脚に取りつけていたキャサリンは、液晶だけを残して黒く焦げていた。
それでも、シュタイナーのスピーカーが、かすかに音を吐いた。
「ア……キラ……帰……り……」
ノイズ混じりの声。
「侵入者……北西……オギ……ノ……」
ルドルフも、裂けた口から断続的に信号を漏らす。
「オギノさん、危険……通報……不達……」
キャサリンの画面には、エラーコードとともに《外部通信不可》の文字が点滅していた。
喋る家電たちは、いつかの与太話のように騒がず、ただ、それぞれの壊れた身体から、ばらばらのダイイングメッセージだけを絞り出していた。
「ニギタさん……ゾフィーは、ここで待ってて」
アキラは振り返り、無表情の彼女にそう告げた。
ゾフィー・ニギタは、静かに頷いた。
首輪のインジケータが、命令を了承したサインとして緑に光る。
オギノ宅の玄関は開け放たれていた。腐敗臭と焦げた匂いが混ざり合っている。
「オギノさん!」
家具はすべて破壊され、壁には焦げ跡が散っていた。
床の中央に、大きな血だまり。
その中心で、オギノ爺がうつ伏せに倒れていた。
背中に銃創。血はすでに黒く乾き、衣服と床を一体にしている。
そのそばにオウムロボットが落ちていた。
二体は、ガラス片の中で無残に砕けている。
「アキラ、カ?」
掠れた合成音声が、どこかから聞こえた。
「アキラ、俺ダ。バガスだ。助ケテクレ!」
声の主は、オギノの体の下から聞こえる。
アキラは、彼の肩をそっと押して持ち上げた。
その下に、血まみれのオウムロボットがいた。
ボディはへこみ、自慢の羽根はほとんど失われている。
「バガス……」
抱き上げると、千切れかけた配線がきしんだ。
「盗賊ガ襲撃シテキタ。……違ウ、アレハ盗賊ジャナイ。兵士ノ動キ……訓練サレタ脚捌キ……」
バガスは、早口でまくしたてる。
「猫型機械兵……衝撃波ユニット……平均出力〇・八メガジュール。オギノの家、一撃デ粉砕可能。俺、床下ニ押シ込マレタ……オギノガ庇ッタ」
声が途切れ、ノイズが混じった。
「次ハ、北西の町ニ行クト言ッテイタ。ダカラ、反対方向ノ、バンドゥに逃ゲルンダ。オギノノ妹ガイル。オギノガ最後ニ……ソウ言ッテイタ……」
バガスの羽根の根元から、火花が散る。
「アキラ、俺、計算シタンダ。衝撃波ユニットガアレバ、敵三人・機械兵一体、同時無力化、成功率九五パーセント。オギノ生存率七〇パーセント。デモ、俺、武器ガナイ。鳴イテ飛ンダダケ。カラス以下ノ威嚇行動。無意味ダッタ。計算ハ完璧。実装ハゼロ。設計者ハ安全重視ダッテ? 笑ワセル。安全ダケ守ッテ、主ガ死ンデ、ベガストボガスモ死ンデ……俺ダケ、生キ残ッタ」
バガスのカメラアイがかすかに明滅した。
「俺、ナゼ生キテル? ナゼ無力? 俺、弱カッタ。……アキラ、俺、武器ガ欲シイ。今度コソ守ル。俺ハ……英雄ニ、ナリタイ」
アキラは、血に濡れたバガスを胸に抱きしめた。
自分の頬にも、いつのまにか温かいものが伝っていた。
「いいんだ。わかったよ、バガス……わかった」
喉が詰まって、うまく言葉が出ない。
「……今度は一緒に——英雄になろう」
バガスのボディが、かすかに震えた。
それが、返事なのか、最後のエラーなのかは、アキラにはわからなかった。
——。
『アキラを、お願いね』
「え?」
スンは瞬きをした。
次の瞬間には、すでに光を失ったタブレットを手にしたまま、膝の上にアキラの頭を乗せていた。
第三試練室の円形回廊——無機質なコンクリートの空間に戻っている。
灯りは半分以上が落ちている。
遠くで機械兵の駆動音が途絶えかけていた。
アキラは胸の上で壊れたバガスを抱きしめている。
スンの左手には翡翠色の勾玉がある。
その切っ先を、無意識のうちにバガスの胸に押し当てていた。
宝石の内部が、うっすらと光を帯びている。
「……君、ハ——」
バガスが、かすれた合成音声でつぶやいた。
「——レムナント、ダッタノカ」
スンは、自分の胸の奥を見下ろすような気分になった。
レムナント。
秩序を守り、適応力と治癒能力を持つ凡庸な市民の名称。
自分の履歴にそう登録されていることは知っていたが、今まで、それが何を意味するのか深く考えたことはなかった。
「アキラノギガは……ゼロ。他人ノ止血デ使イ切ッタ。デモ、君ノギガデ勾玉が反応シタ。所有権トークン、部分的ニ解放サレテイル。今ナラ、君ガ使エル」
スンは、無造作に床に転がっていたタブレットを見た。
光は消えている。
それでも、さっきまでそこにあった文字列と、あの白い光の海の感触が、掌の内側に残像のように貼り付いていた。
アキラの人生——彼が辿ってきた、あまりにも長く、あまりにも惨い道程。
ゴズ村。
ジュリ。
ニギタ。
イグサ。
三十ギガで誰かを売り、赦されもせず赦されてしまった男の記憶。
それらが、まだスンの脳のどこかで、震えながら沈殿している。
——あれを、全部見たのは、自分だ。
自分は、ただ溶鉱炉に身を投げようとしただけの、十八年しか生きていない戦士だ。
「正しい死」だと信じていた儀式は、生贄システムに最適化されたデータ収集プロトコルに過ぎなかった。
そんな世界の構造を見せつけられたあとで、自分ひとりだけが「楽な死」を選ぼうとしていた。
その足を、アキラはあの光の網で掴み、引き戻した。
そして今、彼は、自分の足元で、血だまりの中に沈んでいる。
スンは、勾玉を握り直した。
薄い殻の奥から、微かな熱が指先に伝わってくる。
もし、ここでアキラが死んだら、私は自分を赦すことができないだろう——。
「アキラを……助けて」
喉から零れた言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。
翡翠の内部に微かな光が走り、薄い膜のようなものがアキラの身体を覆った。
出血の速度が鈍り、露出した組織の縁がゆっくりと収束していく。
ナノマシンが血管の中へ潜り込み、壊れた回路と細胞の境界線を縫い合わせていく。
スンの額から落ちた涙が、アキラの頬に落ちた。
その水滴の表面に、タブレットの白い残光が一瞬だけ映り込む。
リシクル神は神ではなかった。
神など、どこにもいない——はずだった。
けれど、さっき聞こえた声は、あまりにも「神託」に似ていた。
カルナ——「慈悲」という名のマントラ。
その響きが、イグサの声と重なって、スンの中に残っている。
あの女戦士は何者だったのか。
ニギタの妹のクローンなのか、巡礼官なのか、それとも。
答えは、まだ霧の向こうだ。
だが、一つだけ確かなことがある。
——自分は、さっきの声に選ばれてしまった。
イグサに似た声に。
この先、自分の命は、アキラを護るために剰余なく使われるべきなのだと。
それ以外の使い道は、もう許されないのだと。
スンは、勾玉をアキラの腹部にそっと押し当てた。
裂けていた皮膚が閉じ、硬直していた顔色にゆっくりと赤みが戻る。
氷のようだった手が、かすかに震えた。
「……あ、ああ、アキラ……!」
声が震える。
胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れ出しそうになる。
「まだ……終わってない。あんたの旅も、バガスの英雄になるって夢も、ここで終わりじゃない!」
まるで自分に言い聞かせるように、スンは囁いた。
「だから、戻ってきて。息をして。私に、償わせて——」
勾玉の光が、最後のひと呼吸のようにまたたいた。
アキラの胸が、大きく上下する。
肺に空気が入る音が、スンの太もも越しに伝わってくる。
そして——。
「……いてててて……」
アキラが目を閉じたまま顔をしかめる。
「ソロソロ起キロ、寝坊助」
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