第8話 カルナ/慈悲⑧ イグサ                        記憶はない。でも、それが私のすべて。私の存在理由。

 アキラはベッドに腰を下ろした。

 ニギタは首から下げていた認証タグを外し、アキラに差し出す。


「このデバイスを操作してみてください。……勾玉が使えるなら、これも動かせる可能性があります」

「え?」

「持って、念じるだけでいいはずです」


 アキラは、震える指でタグを受け取った。

 冷たい金属の感触。


 意識を集中すると、タグの縁がわずかに温かくなった。

 ぼうっと白い光が立ちのぼり、目の前に半透明の立体表示が浮かぶ。等高線とマーカーを持つ、簡略化された地図のようだった。


「成功です」


 ニギタの声が、ほんの少しだけ嬉しそうに揺れた。


「あの、これは?」


「〈千里鏡〉。レムナント専用の探索デバイスです。遭難者や負傷者の位置を検出するためのもの」


 彼女は短く説明し、タグの脇に織珠を並べて見せた。


「織珠にプリインストールされているマントラのひとつが、さきほどの〈マーヤー〉。センサーと低位AIの『注意』だけをずらす幻影コードです。人間には数十秒程度しか効きませんし、二度目以降は急速に耐性がつきます。じきに通用しなくなり、異常値としてゴズ神に報告されます。だから乱用はできない」


 ニギタは、タグの浮かぶ地図を指で拡大縮小しながら続けた。


「でも、あなたと私が、いまこの瞬間だけ真実を共有するには、十分です」


 織珠の内部から、かすかな駆動音が聞こえる。


 千里鏡の地図上に、光る点がいくつも現れた。

 居住区、神殿、労働地区――それぞれの場所に、人影を示すマーカーが瞬いている。


「……昨夜、監視カメラに映っていた女がいます」


 ニギタの声が低くなった。


「ゴズ神は、その女を襲撃犯と認定しました。その姿は――火葬されたはずの私の妹と、よく似ていた」


 光の点のひとつが、山中の暗いエリアに滲むように浮かんでいた。

通常なら誰も踏み込まないはずの雑木林の座標だ。


「この色は?」


「赤。ケイオグノムでもレムナントでもない。ディゼクタです」


 ニギタは、アキラを真っ直ぐ見た。


「村長とゴズ神は、彼女を巡礼官の手先に仕立て上げようとしています。もし逃げられれば、次はあなたが『オムネシス教のスパイ』ということにされる」


 アキラは、ごくりと唾を飲み込んだ。

 千里鏡の赤い点は、かすかに震えながらも、まだ消えずにそこにある。


「……どうするつもりですか」

 自分の声が、思った以上にかすれているのに気づいた。


「まず、彼女を見つけること。村長より先に」


 ニギタはそう言って、織珠を握り直した。


「妹かもしれない女と、ディゼクタである襲撃犯と、ゴズ神が隠している何か。その三つを、少なくとも私たちの目で確かめる必要があります」


 カメラの赤いランプが、ふたたび弱く明滅し始めた。


「織珠のマーヤーは、数回が限界です。千里鏡はあなたにしか扱えない。――協力してくれますか、アキラ・ユダ」


 アキラは、掌に吸いつくように張り付いた千里鏡タグを見下ろした。

 その重みは、金属の質量以上に、のしかかってくる。


 ジュリの顔、オギノ爺の背中、ゴズ神の黒い姿、昨夜の白すぎる月が、頭の中で渦を巻く。


「……わかりました」


 短く答えると、タグの表示が一段と明るくなった。


 遠く雑木林の中で光る赤い点は、相変わらずそこにいて、ただじっと、誰かを待っているようだった。




 イグサは、すぐに見つかった。


 千里鏡の地図上で、山林の中にぽつりと浮かぶ赤い点。

 通常なら誰も立ち入らないはずの雑木林だ。

 

 夜の気配が濃くなりつつある山道を外れて藪をかき分けると、湿った土の匂いと鉄の匂いが混じった。


「……いた」

 ニギタが息を呑む。

 

 藪の中で、ひとりの女が木に背を預けて崩れ落ちていた。

 軍用か野盗用の黒い戦闘服。腹部から流れた血で布が濡れ、地面には黒い水たまりができている。


 くせ毛まじりのウルフカットの黒髪。

 猫を思わせる鋭い大きな目。

 長いまつげと整った鼻梁。

 顔立ちは、たしかにニギタを若く鋭くしたような、美貌だった。


 だが、その目には理性的な光と、手負いの獣のようなぎらつきが同居していた。


「イグサ……なの?」

 ニギタの声が震える。

 

 女は眉をひそめ、苦しげに息を吐いた。

「……イグサ? そう呼ばれているのか、私は」


 額には、古代文字のような赤い紋章が刻まれている。

 千里鏡の赤い表示——ディゼクタだ。


 考えるより先に、体が動いた。

 アキラはポシェットから勾玉を取り出し、女の腹にそっと当てる。翡翠色の光が灯り、傷口の周囲に柔らかな熱が広がる。

 

 女の強張っていた表情が、そこから少しずつほどけていく。

 

 ニギタはじっとその顔を見つめていた。目の奥に、会いたかった者を見るような渇きと、会ってはいけない者を見るような怯えが、同時に宿っている。


「覚えていないのよ」

 女——イグサは言った。

「奴隷を助けるためにここへ来たことと、〈カルナ〉のこと以外は」


「カルナ……?」

 ニギタが反射的に問い返す。


 イグサは、血で汚れた手で胸元から黒いタブレットを引き出した。両手で抱くように握りしめている。


「〈神託のタブレット〉。ここに入ってるマントラの名前がカルナ。敵を足止めして、味方を救う——慈悲の奇跡」


 言葉に呼応するように、タブレットの縁が淡く白く光った。


「発動させるには、ただ唱えるだけじゃ駄目。所有者が、他者を救済する行動を繰り返していることを、タブレットが学習しなきゃならないの」


 イグサの声は弱々しいのに、説明そのものは驚くほど淀みがなかった。


「行動パターンを解析して、『この主体は慈悲に基づいて世界を書き換える』と認められたとき、初めてフルシーケンスが走る。高位マントラは、悟りと救済の実践ツールでもあるの」


「……実践ツール、ね」


 動揺しているニギタの代わりに、アキラが訊いた。

「じゃあ、あなたは、それを使ってゴズ神を止めに?」


「奴隷を逃がすために、セキュリティを落とす。そのついでに、神を止められるなら止める。優先順位はそうね」

 イグサはあっさりと言った。


 レムナントらしい慎重な逡巡も、ケイオグノムらしい抽象的な思索もない。

 ただ一直線の意志だけがある。


 勾玉の光が、やがて静かに収まった。

 腹部の出血は止まり、彼女の顔色も幾分かマシになっている。


 ニギタは、水筒と携帯用のチューブゼリーを取り出して差し出した。

 イグサはそれを受け取ると、貪るように水を飲み、ゼリーを吸い込んだ。


「……美味しい。げほっ」


「ゆっくり飲んだほうがいい」

 思わず、アキラの声が出た。


 過去のないディゼクタの女と、謎のマントラデバイス。

 アキラの頭は、追いつかない情報でいっぱいになりつつあった。


「ニギタさん、どうしますか」


 問われて、ニギタはしばらく沈黙した。

 イグサの顔を見つめ、千里鏡の赤い点を見つめ、そのたびに視線が揺れる。


「彼女が妹でないのなら、私は――」

 ニギタはそこまで言って口をつぐんだ。


 その先の言葉は、アキラにもわかっていた。


 助ける理由がない。


 村役人としては、襲撃犯をゴズ神に引き渡し、自分は「内部スパイ」の疑いから逃れる。それが最善手だ。


「私は、これから奴隷を助ける」


 イグサが唐突に言った。


「ゴズ神を止めて、首輪の爆弾を無効化する。今度こそ、奴隷と一緒にここから脱出する」


 その口調には、一片の迷いもなかった。


「記憶はない。でも、それが私のすべて。私の存在理由。じゃまをするなら――」


 ぎらり、とイグサの目が光る。

 体力を取り戻しつつあるディゼクタは、腰の短剣に指をかけた。


「あなたたちを殺してでも進む」


 ニギタの肩が、わずかに震えた。

 ポーチの中で、織珠を握りしめているのがわかる。

 

 そのとき、車のエンジン音が山の向こうから聞こえた。

 

 三人は息をひそめる。


 千里鏡に視線を落とすと、舗装道路を移動する白い点の列が見えた。


「移民用のバス……先週署名した分だな」


 アキラは、ジュリの顔を思い出す。

 彼女もじきに運ばれてくるだろう。


 ——さみしくなるね。

 彼女の言葉が頭のなかで反響する。


 彼女のボーイフレンドの町が紛争で消えたとき、泣きじゃくるジュリをみんなで慰めた日のことを思い出す。

 仲間はみな散り散りになり、どこでどうしているかわからない。

 ユビキタ村で偶然再会したジュリは、アキラの最後の「昔からの友人」だった。


「ニギタさん」

 アキラは言った。

「彼女——イグサに協力しませんか」


 自分の声が、意外なほど落ち着いて聞こえた。

「こんなやり方、間違ってます。今度こそ、妹さんの悲願を――奴隷を解放して、これから奴隷にされる人たちを救うべきです」


 ニギタは、長いこと動かなかった。

 イグサを見て、千里鏡を見て、遠くで回頭する監視ドローンの音を聞きながら、静止した像のように固まっている。


 やがて、彼女はポーチから抜いた手を見せた。

 そこには、織珠は握られていなかった。


「そうね……」


 湖畔で吐き出したのと同じような、長い息をついた。


「これも、私が願ったことなのかもしれない。この好機を、ずっと待っていたのかも」

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