第4話 カルナ/慈悲④ 生贄              生きようとしてくれ

慈悲カルナ!』


 アキラの声が、まるで頭蓋の内側に直接打ち込まれるように響いた。耳元で渦巻く灼けた暴風を飛び越え、スンの体そのものを音の振動に包み込んだ。


 なぜか、その聞きなれない音節が「慈悲」という意味だと理解できた。


 頭上に、青白い光線が立体回路のような幾何学模様を描き出しす。それが溶鉱炉上のリシクル神の立体映像に向かって、まるで投網のように飛んでいく。


 同時に、どこからともなく降ってきた輝く文字列——白く発光する記号の束が、スンの周囲を渦巻いた。熱風はすっと遠ざかり、代わりに、適温に調整された空気の層のようなものが皮膚のすぐ外側に張り付く。


 慈悲深い誰かの掌で包まれるような感覚が、スンの身体をふわりと持ち上げ、溶鉱炉の縁からゆっくりと引き離していく。光の文字列は繭のようにスンの身体を幾重にも取り巻き、温度と衝撃を遮断するシールドに変わった。


 視界の端で、リシクル神の像が青白い文字列の網に絡め取られていく。


 スンは部屋の入口近くまで引き戻され、そのまま床に落ちた。衝撃は、何層もの膜を挟んだように鈍い。


 文字列の隙間から、タブレットを掲げるアキラと、その肩に乗ったバガスの姿が見えた。


「イイ決断ダ。アキラニシチャ上出来ダ」


「発動はしたけど、完了しない。やっぱり、チャージが不十分だったか」


「チャージハ、ギリ足リテイタ。防御効果は出テル。室温ガ一三・八度下ガッタ」


 床に仰向けのまま、スンは焦点の合わない目でその光景を眺めた。


 アキラの周囲が青白い光で満たされている。光源は額だ。


 彼の額に刻まれた古代文字めいた紋章が、タブレットの発する文字列と同調するように青く輝き、場全体のパラメータを書き換えているのが感覚として伝わってくる。


 その青い光は、試練の槍が放つプラズマ光とはまったく違う。とてもきれいで、優しくて、いつまでも見ていたくなる。


 いつかリナやキムと野外訓練の合間に見上げた、高地の澄み切った青空を思い出した。


「アキラ、機械兵ガ来テルゾ」


「……くそっ、防衛プロトコルか。なんでリシクル神はフリーズしない」


 扉の向こうから機械兵たちがなだれ込んでくる。アキラはスタンガン銃で応戦し、バガスも空中を飛び回って、口から衝撃波のようなものを撃ちこみ、援護する。


 足止めにはなるが、決定打にならない。


 バガスは多勢に無勢な中、アキラの防御を優先していた。さっき、熊型機械兵の動きを止めたのも彼だったのだとスンは気づく。


 スンは自身の試練の不完全さを恥じた。本当はあそこで殺されるはずだったのだ。


「まだ完了しない!」


「生贄ダ。生贄ガ死ニタガッテルカラ、リシクル神ガ攻撃者認定サレナインダ。ダカラ次ノシークエンスニ移行シナインダ!」


 バガスはそう叫んだ直後、機械兵の剣の一撃を受けて床に叩き落とされる。銀色の羽根が散る。


「頼む、お願いだ!」


 腹からこぼれる血を抑えながら、アキラが叫ぶ。


 光の文字列の織り成す膜の向こうから、スンに向かって。


「生きようとしてくれ!」


「生き……る?」


 なんだこの状況は。


 ——私は、リシクル神の生贄として、ここで終わるはずだった。主神の炉に還り、戦士としての人生を完結させるはずだった。


 なのに今、私を包みこんでいるこの「慈悲」のシールドは、あまりにも心地よい。


 捨てると決めた自分の命を、誰かが必死で守ろうとしている。


 もう、瞼を開けていることはできなかった。しかし目を閉じても、白くまばゆい光が内側いっぱいに広がっている。


 ——まだ、この光を手放したくない。


 スンは、どこかにある誰かの手を探して、指を伸ばした。何かが触れ、握り返されたような感触があった。


 声も聞こえた気がするが、何を言っているのかはもう聞き取れなかった


 気づけば、薄暗い部屋だった。灼けた鉄と血の匂い。


 第三試練の円形回廊だ。


 まだ生きている。身体中が痛むが、火傷もなく、出血も止まっているようだ。


「気がついたかい」


 声のほうを向くと、壁に背を預けて座るアキラの姿があった。膝の上には動かないバガスがいた。


 アキラは翡翠色の宝石のようなものをバガスに当てている。充電器か、あるいは再起動キーだろう。しかし、オウムはぴくりともしない。


 ほかにも壁際で倒れている者がいた。リナとキリカだ。布切れを包帯替わりに応急処置が施されている。二人とも顔は白い仮面で覆われておらず、近づいてみると、かすかに息があるのがわかった。気を失っているだけだ。


「君を入れて、三人がやっとだった——」


 アキラが枯れた声で言った。


「顔が石灰化したようになっていた人たちは手遅れだったけど」


「もしかして、ほかの部屋の試練者も……」


「君らが仲間同士で戦っているう間、息がある人には出来る限り止血したよ。……私にしちゃ上出来だ」


 試練の途中で負傷し生きて帰った試練者たちは、自死か、死ぬまでの奴隷労働を選ばされる。これまでの試練者は一人の例外もなく、名誉ある殉教を選んできたと聞いていた。


 しかし、真実は違った。奴隷を選んだ者は機械兵になったのだろう。


「北の三角岩のふもとに……私のバイクが停めてある」


 アキラが言う。


 スンは半身を起こした。感覚の戻りきらない腕で床を掻きながら、アキラへとにじり寄る。


 前髪の隙間からのぞく鳶色の瞳には、身を支えるだけの光も残っていない。顔色は悪く、呼吸も浅い。機械兵に受けた腹の傷は深く、床には濃く乾いた血だまりが広がっている。


「どうにかしてここを出たら、北にまっすぐ行って、バンドゥという町の診療所を訪ねるんだ。きっとかくまってくれる。君らみたいな難民が、すでにいる。私の……アキラ・ユダの名前を出せば、通じるよ」


 スンはアキラの言っていることがよくわからなかった。


 野外訓練でトゥクバの外に出たことはあっても、ほかの町や村を訪ねたことなどないし、外の世界で暮らすなんて考えたこともない。自分の人生は十八年目のこの年に、ここで終わるはずだったのだから。


「あんたは、どうするの」


 愚問なのはわかっていたが、自分の考えをあとまわしにするようにスンは訊いた。


 アキラは苦しそうな顔のまま、かすかに口元をゆがめて微笑むと、黒いタブレットを持ち上げた。


「この神託のタブレットを持っていってくれ。さっきリシクル神を封じるのに使ったマントラ——スクリプトがここに入っている。リシクル神がマールと呼ばれていたころの、旧時代の技術だ」


 見たところ、何の変哲もない携帯端末だ。

だが、スンの額のデバイスバンドは、その表面を認識した途端、短くノイズを走らせた。自分とは異なる階層のプロトコルが、そこに載っている。


「可能なら、君がこいつを引き継いでくれ」


「私が——引き継ぐ?」


「うぅっ」


 アキラは短くうめくと、横向きに、抵抗もせず床に崩れ落ちた。


 彼の手から落ちた涙の形をした翡翠色の飾り物が、床を転がり、スンの指先に触れた。


 スンはそれを拾い上げた。


「私は……生きていいのか?」


 自分の声色が、どこか遠くから響く。


「あたりまえのことを……訊くな」


 掠れた声は、笑いとも溜息ともつかない揺らぎを含んでいた。


 スンの眼に熱いものが溢れ、床に一滴落ちる。


 スンは目をぬぐい、アキラの後頭部に手を差し入れた。彼の頭を膝に乗せ、息絶えようとする彼の最期の言葉を聞こうとする。


 しかし、それ以上彼は口を開けたまま、声を発さなかった。前髪の下の瞼は閉じられたままだった。額の紋章の淡い水色が、みるみる色褪せていく。


「アキラ……?」


 返答のない名を呼びながら。スンは彼が抱えていたタブレットに手を伸ばした。

驚くほど軽く、不思議な磁力のようなもので手に吸い付いてくる。


 画面に指で触れると、ぶん、と起動音がして、息を吹き返すように、タッチパネルにほのかな光が灯った。


 その直後だった。

 

 白く輝くいくつもの文字列が画面から飛び出してきた。


 それはアキラとスンを包み、スンの意識を、真っ白な、遠いどこかへ運んでいく。

 

 その中で、映像が見えた。誰かの視点だ。自分のものではない息遣いが聞こえ、足元の土の感触と、頬をなでる風と、淡い春の日差しの甘い匂いが重なってくる。

 

 ——誰かの記憶だ。

 

 直感がそう告げる。


 これはタブレットに保存されていた誰か——おそらくアキラの記憶だ。


 神託のタブレットが、慈悲カルナの残り香が、それを私に見せようとしている。


 そう言語化した思考もすぐに溶けた。


 睡魔の渦に呑み込まれるときのように、スンの意識はほろほろとほどけ、アキラの記憶と混ざり合いながら、過去の一点に向かって落ちていった。

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