第3話 記憶の灯り
翌朝、雪華は再び洋館を訪れた。
解体業者のトラックが到着する前日。最後にもう一度、あのランプがあった場所の空気を吸っておきたかった。
雪は止んでいた。雲の切れ間から射す朝日が、雪化粧した洋館を神々しく照らしている。
その門の前に、一人の老女が佇んでいた。
八十代半ばだろうか。仕立ての良い黒いコートを着て、杖をついている。その視線は、じっと二階の窓――ランプが見つかった部屋の窓に向けられていた。
「あの……」
雪華は声をかける。老女はゆっくりと振り返った。深く刻まれた皺の中に、理知的な瞳がある。
「関係者の方ですか?」
老女の声は、冬の空気のように澄んでいた。
「はい。建築士の雪華といいます。明日には、ここが……」
「ええ、知っています。壊されるのでしょう」
老女は寂しげに微笑んだ。
「最後にお別れを言いに来たんです。ここは、私の生家ですから」
雪華はハッとした。
「中へ、入られますか? まだ業者は来ません」
「……よろしいのですか? もう人手に渡ったものですのに」
「私が責任を持ちます。どうぞ」
雪華は鍵を開け、老女を招き入れた。
老女は玄関の式台に上がると、手袋を外し、柱を愛おしそうに撫でた。
「ああ、この匂い。変わらない。……ただいま」
二人はゆっくりと家の中を歩いた。老女の足取りは、記憶を確かめるように慎重だった。
居間に入ると、老女は窓際を指差した。
「ここに、大きな丸いテーブルがあったんです。父と母と、祖父母と。五人で夕飯を食べました」
老女の語る言葉によって、空っぽの部屋に色彩が戻っていくようだった。
「父は戦争で亡くなりました。私が五歳の時。その知らせが届いた夜、母はここで泣き崩れました。私も、わけもわからず一緒に泣いて……」
老女は焦げた梁を見上げた。
「空襲の夜、焼夷弾が屋根を突き破って落ちてきたんです。祖父が必死で消し止めました。『この家だけは守る』って。火傷だらけになって」
雪華は胸が詰まった。あの梁の傷は、命がけで家を守った証だったのだ。
「でも、この家は私たちを包んでくれました。戦後の何もない時代も、この太い柱や梁を見ると、守られている気がしたんです」
二階へ上がる。ランプがあった部屋へ。
雪華は、鞄から磨き上げたランプを取り出し、窓辺に置いた。
それを見た瞬間、老女が息を呑んだ。
「これ……」
震える手が、ランプに触れる。
「おじい様のランプ……。なくなってしまったと思っていたのに」
老女の目から、涙が溢れ出した。
「このランプの下で、祖母が毎晩、絵本を読んでくれました。停電の多い時代でしたから」
老女はランプを胸に抱きしめた。
「私が嫁に行く日の朝、母がこのランプを灯して言ったんです。『あなたの行く先が、いつも明るくありますように』って」
光の記憶。温かさの記憶。家族の願い。
それらが全て、この小さな真鍮の器に詰まっている。
「この家は、いつも私たちの願いを包んでくれていたんですね」
老女は雪華を見た。
「見つけてくださって、ありがとうございます。最後に会えて、本当によかった」
その時、老女がふと呟いた。
「孫娘がね、今度家を建てるんです。本当はこの家を残してやりたかったけれど、維持費も改修費も莫大で……手放すしかなかった」
その言葉に、雪華の中で何かが激しく反応した。
「お孫さんが?」
「ええ。隣の市に。小さな家ですけれど、来月から着工だと言っていました」
雪華の脳裏に、図面が走る。
壊される家。新しく建つ家。
断絶させてはいけない。ここで終わらせてはいけない。
「そのお孫さんに、今すぐ連絡を取ることはできますか?」
雪華の声は、自分でも驚くほど熱を帯びていた。
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