第2話 時間の層

 持ち帰るつもりだった。会社に戻り、報告書をまとめなければならない。

 だが気づけば、雪華はその場に座り込み、鞄からハンカチを取り出してランプを磨き始めていた。


 布を当て、力を込める。

 こびりついた汚れが落ち、酸化した被膜が薄れるにつれ、鈍い黄金色が顔を出し始める。

 蔦の模様、小さな花、そして台座の裏に刻まれた職人の銘。一つ一つが、気の遠くなるような手作業で刻まれている。今の工場生産品にはない、執念にも似たこだわり。


「誰が作ったんだろう」

 呟きが、静かな部屋に吸い込まれる。


 明治の職人。名前も知らない誰か。

 そして、このランプを壁に隠した誰か。

 彼らは、未来の誰か――もしかしたら私のような人間に、これを見つけてほしかったのではないか。


 一通り磨き終えると、雪華は立ち上がり、ランプを提げて家の中を歩き直した。

 さっきまでの「解体前の確認作業」ではない。

 この家が積み重ねてきた時間を読むための、対話の時間だ。


 改めて見ると、家は雄弁に語りかけてきた。

 階段の手すり。特定の場所だけ塗装が薄れ、艶が出ている。そこは、上り下りする人が必ず手を置く場所だ。子供が滑り降りて遊んだのかもしれない。

 廊下の床板。一部だけ、木の種類が違う。色が浅い。

 雪華はしゃがみ込み、その継ぎ目を指でなぞる。

 ――リペアの跡だ。

 雑な補修ではない。元の床板の木目を読み、違和感がないように丁寧に埋め木がされている。この家を大切に思う誰かが、手間を惜しまずに直したのだ。


 居間の天井を見上げる。太い松の梁。

 その一角に、炭化したような黒い染みがある。その周辺を、新しい補強材が支えている。

「……焼夷弾」

 雪華は息を呑んだ。

 この街は空襲を受けた。この家も火を浴びたのだ。

 普通なら取り壊してもおかしくない傷。だが、当時の住人は諦めなかった。焦げた梁を残し、補強して、住み続けた。

 壁の隅に残る、子供の落書き。「昭和三十五年 春、タカシ、6さい」。

 窓枠についた、無数の小さな傷。猫が爪を研いだ跡か、それとも何かを打ち付けた跡か。


 何層もの時間。何世代もの人々。

 喜びも、悲しみも、戦争の恐怖も、戦後の貧しさも、高度成長の熱気も。

 この家は、すべてをその身に刻んで、黙って立っていた。


 雪華は、自分の仕事の意味を問い直していた。

 私は、これらを「ゴミ」として捨てようとしていた。

 効率という名の下に、百年分の記憶を消去しようとしていた。


 ランプを握る手に力が入る。

 この家はずっと、誰かに愛されてきた。

 そして今、その愛の記憶ごと消えようとしている。


 窓の外では、雪が激しさを増していた。

 まるで、この家を隠そうとするかのように。あるいは、最後の時間を清めるかのように。

 雪華の目頭が熱くなった。建築家としてではなく、一人の人間として、この空間の喪失が痛かった。

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