時を継ぐ魔法のランプ

木工槍鉋

第1話 雪の中の建築家

 雪が、音を奪っていた。


 取り壊し予定の洋館の前で、雪華(ゆきか)は立ち尽くしていた。

 大正末期に建てられた木造二階建て。かつてはモダンな洋館として近隣の目を引いたであろうその建物も、今は主を失い、庭木の影に沈んでいる。漆喰の壁は剥落し、露わになった木摺(きずり)が肋骨のように見えた。

 今週中には重機が入る。巨大な爪がこの屋根を砕き、柱をへし折る。百年という時間は、たった数日の作業で瓦礫の山へと変わる。


「雪華さん、最終確認お願いします。現地確認だけでいいので。」


 上司の声が電話越しに響く。事務的で、乾いている。

 彼にとって、これはただの「除去すべき障害物」でしかない。新しいマンションを建てるための、更地にするための前段階。


「はい。今から中を見ます。……何か、残すべきものがあるかどうかも含めて」

「ないない。鑑定は済んでる。金になるような骨董品はもう引き上げられた後だよ。あとは産業廃棄物だ」


 電話が切れる。雪華は深く息を吐いた。白い息が、鉛色の空に溶けていく。


 鍵を開け、重い扉を押す。蝶番が悲鳴のような音を立てた。

 一歩踏み込むと、冷気が肌にまとわりつく。だが、それは外の寒さとは違う。静謐で、どこか厳かな冷たさだった。


 かつて、私は古い建築を愛していた。雪華は思う。

 時間が積み重なった壁、人々の記憶が染み込んだ床。新築の建材には絶対に出せない、艶と深み。そういうものを活かす「再生建築」がしたくて、建築家になったはずだった。

 だが、現実は違った。求められるのは効率、利益、そしてスピード。「古いものは断熱性が悪い」「耐震補強に金がかかる」「壊して新しく建てた方が早い」。

 その論理は正しい。建築士として、否定はできない。

 いつの間にか、私も施主に同じ説明を繰り返すようになっていた。「壊しましょう」と。


 懐中電灯の光を頼りに、雪華は家の中を歩く。

 玄関ホールの寄せ木細工の床。階段の手すりの優美なカーブ。職人がカンナで削り出した、手仕事の痕跡。埃と黴の匂いの奥に、微かに古い木の香りが残っている。

 誰もいなくなって十年。家は、静かに死を待っていた。


 二階の部屋を一つずつ確認していく。写真を撮り、タブレットにメモを取る。機械的な作業。感情を挟む余地はない。そう自分に言い聞かせる。


 一番奥、かつて書斎だったと思われる部屋。

 作り付けの本棚が外され、壁紙が破れている。ふと、壁の隅に違和感を覚えた。羽目板の一部が浮いている。

 構造的な歪みか? 雪華は職業的な目で近づき、隙間を覗き込んだ。


 何かが、光を反射した。


 雪華は指をかけ、浮いた板を慎重に剥がす。壁の胎内のような暗闇の中に、それは隠されていた。


 古い真鍮のランプだった。


 埃にまみれ、表面は黒ずんで酸化している。だが、そのフォルムは息を呑むほど美しい。台座にはアール・ヌーヴォー様式の植物の彫刻が施され、ガラスのホヤは煤けているものの、割れずに残っていた。

 なぜ、こんな壁の中に?

 隠したのか。それとも、戦時中の供出を逃れるために埋め込んだのか。


 そっと手を伸ばし、引き出す。ずっしりとした重みが手に伝わる。

 ランプの底に、変色した和紙が張り付いていた。慎重に剥がすと、それは一通の手紙だった。

 墨で書かれた、流麗な筆致。


『この家が、住む人の願いを叶える場所になりますように。光が、永くこの家を照らしますように』


 日付は明治四十二年。この家を設計した建築家の署名がある。

 雪華の胸が、ドクリと跳ねた。

 これは、ただの照明器具ではない。この家の「魂」だ。建築家が込めた祈りそのものだ。


 願いを叶える場所。

 まるで魔法のランプみたいだ、と雪華は思った。

 冷え切っていた雪華の指先に、ランプの金属を通した微かな熱が伝わった気がした。

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