第9話 黄金の盾、家に帰る
神殿の重厚な石門をくぐり抜けると、そこにはまだ、先ほどまでと変わらない夕暮れの街並みが広がっていた。
西日に照らされた家々は鮮やかなオレンジ色に染まり、家路を急ぐ人々の足音や、平和を享受する子供たちの笑い声が遠くから響いている。
エルフレッドにとっては命を賭して守り抜くべき日常の光景だが、今のエレンには、それがガラス細工のように脆く、あるいは剥製のように空虚なものに見えていた。
エルフレッドは、感覚を完全に失い、ただ肩から重くぶら下がっているだけの右腕を、残った左手で少しだけ持ち上げて位置を直した。
痛みすら感じない。その『無』の感覚こそが、隣を歩くエレンの心を鋭利な刃物で削り続けていることに、彼は全く気づかない。
「…………先輩」
背後から、消え入りそうな、震える声がした。
振り返ると、エレンが今にも夕闇に溶けて消えてしまいそうな、幽霊のような足取りでついてきていた。
市場で彼に選んでもらったばかりの、藍色の髪飾りを両手で壊れそうなほど強く握りしめ、俯いたまま立ち止まっている。
「どうした、エレン。急に止まって……やはり腹でも減ったか?」
エルフレッドの、あまりにも『いつも通り』な問いかけ。それが、エレンの中で張り詰めていた糸を切った。
「…………どうして、そんなことが言えるんですか。……あんな、あんな絶望的なことを言われたのに、どうしてそんなに普通でいられるんですか……っ!」
エレンが顔を上げた。その瞳からは大粒の涙が溢れ出し、落ちていく夕日に照らされて不吉なほどキラキラと輝いている。
「右腕が死んだんですよ!? もう二度と動かないって、聖女に、神の代弁者に宣告されたんですよ!? なのに……どうして、そんなに平気な顔をして、私のことなんて気遣えるんですか……。自分の心配をしてくださいよ! 叫んでくださいよ! 泣いてくださいよ! お願いですから……っ!」
エレンの声は、最後の方は悲鳴に近い嗚咽に変わっていた。
彼女は、彼に絶望してほしかった。英雄という重荷を投げ出し、弱音を吐いて、もう戦場には行けないと膝をついてほしかった。
そうすれば、彼がこれ以上傷つくことはない。
もっと一緒にいられる。もう彼が突然いなくなる恐怖に怯えることもない。
だが、エルフレッドはゆっくりと歩み寄り、立ち尽くすエレンの前に静かに立った。
そして、戦場での返り血を何度も浴びてきた、ごつごつとした左手で、彼女の頭をそっと包み込むように撫でた。
「泣き虫だな、エレンは。……俺は、大丈夫だ」
「大丈夫なわけないじゃないですか……っ! 嘘だ、強がらないでください!」
「いいや、本当に大丈夫なんだ。……右腕が動かなくなったくらいで、俺という人間が終わるわけじゃない。むしろ、少し体が軽くなったくらいだ。盾を重く構える手間が一つ減ったと思えば、大したことじゃないだろう?」
少し冗談めかしたように、エルフレッドは口角を上げた。
彼の魂は、肉体の欠損程度では決して揺らぐことのない、あまりにも強固で、歪なまでの『健全さ』でできていた。
それが、エレンには何よりもたまらなく恐ろしかった。
「エレン。……お前がそんなに泣く必要はない。お前は、この王国で最も有望な冒険者の一人だ。こんなところで立ち止まって、俺のような男のことで涙を流し続けていい人間じゃない」
「何、言ってるんですか……。先輩は、私にとって……」
「俺は、お前が笑って、明日を楽しみにしている姿を見るのが好きだ。……あの日、馬車の中で震えていた少女が、今ではこんなに立派に、自分の足で街を歩いている。それを見れただけで、俺がこの右腕を差し出した価値は、十分にあったのかもな」
エルフレッドは、エレンの頬に伝う涙を不器用な指先で拭った。
その指先は驚くほど温かい。あの日、彼に救い出された時に感じた、絶対的な『守護者』の体温。
「だから、自分を責めるな。俺に同情もしなくていい。……お前が幸せでいてくれることが、笑っていることが、俺にとっての何よりの報酬なんだ。……わかるか?」
「……っ、そんなの……そんなの、あんまりです……」
エレンは、彼の胸に顔を埋めて、声を押し殺して泣いた。
彼は『助けてくれ』とは言わなかった。代わりに『お前は幸せになれ』と、自分を切り離すような、あまりにも高潔で残酷な『慈悲』を与えたのだ。
(……この人は。どこまでいっても、自分という人間を勘定に入れていない)
エルフレッドは、泣きじゃくるエレンの背中を、左手でゆっくりと叩き続けた。
彼は本気で信じている。自分が『健在』であることを示し、エレンを突き放すような優しさを与えることが、彼女を救う最善の道なのだと。
だが、エレンは震える声で、彼の胸元に問いを投げた。
「先輩は……幸せになりたいと……思わないんですか」
エルフレッドは少し意外そうに目を瞬かせた。
「そんなわけないだろう。俺だって人間だ。幸せになりたいさ」
「……じゃあ、先輩にとっての幸せって、なんですか、」
「うーむ。そう言われるとな……俺にとっての幸せとは、なんなのだろうな。平和な街を見ることか、それとも依頼を完遂することか……」
エルフレッドは真剣に考え込んだが、その答えはどこまでも『他者』や『役目』に依存していた。
エレンは確信した。
(この人は、自分自身のための幸せが、もう分からないんだ……)
「……じゃあ、私が幸せにしてあげます」
エレンが顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
その声には、先ほどまでの震えはなかった。
「お、そうか。それは楽しみにしてるぞ?」
エルフレッドはいつものように、後輩の意気込みを頼もしく思うような、軽い冗談として受け流した。
だが、エレンの瞳の奥には、どろりとした熱が、暗い光となって宿っていた。
(……先輩。あなたは、私がいつか時が来て、笑ってあなたの隣を離れると思っているんですか?)
英雄は、自分が守った少女が、いつか自分を追い越し、誰かと幸せになることを疑っていない。
だが、エレンの決意は真逆だった。
あなたが自分を大切にしないなら、私があなたを大切にする。絶対に死なせはしない。
あなたが戦場を辞めないなら、私がその横に絶対にいる。どこにだってお供する。
「よし、もう泣き止んだな。……さあ、帰ろう。今日は遅いし、俺の家に飯食いに来るか?迷惑もかけたしな。」
「え、わ、私が先輩の家に!?」
「あぁ、嫌だったか?」
「けっっっして!そんなことはありません!
着替えもっていきますね!」
「え、泊まるのか?」
「はい!泊まります!おはようからおやすみまで!」
「どっちかといえばおやすみからおはようまでだがな、今日は少し贅沢な夕飯でも作ってやる。お前の好きな肉料理でいいか?」
「はい!先輩。お肉、楽しみにしてますね」
「任せろ」
「いいお肉買っていきましょうね!」
エレンは顔を上げ、花が綻ぶような、完璧な『笑顔』を作って見せた。
かつて彼が見た、あの無垢な少女の笑顔をなぞるように。
沈みゆく太陽が、二人の長い影を石畳に伸ばす。
前を向いて歩く英雄の影。
そして、その真横ぴったりと寄り添いながら、決して逃がさないと誓う、暗い情念を秘めた少女の影。
夕闇が街を飲み込んでいく。
それは、世界の英雄に対する執着とも違う、もっと身近で、もっと深い、執愛の夜の始まりだったのかもしれない。
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