第8話 黄金の盾、診断をうける

市場の喧騒と、焼きたてのパンの香りが遠ざかっていく。


 王国の象徴として天を突くようにそびえ立つ神殿の門をくぐった瞬間、世界から色彩が剥ぎ取られたかのような錯覚に陥った。


 白大理石の床は鏡のように磨き上げられ、窓のステンドグラスから差し込む光は、神々しいほどに冷たく、無機質だ。


「……寒いですね、先輩」


 エレンが小さく呟き、先ほどまで握りしめていたエルフレッドの左手を、名残惜しそうに離した。


その温もりが消えた代わりに、二人の前に現れたのは、感情を一切排したような鉄の表情を浮かべる聖女と、その隣で落ち着きなく指を絡めるリリアナだった。


「お待ちしていましたよ。聖盾エルフレッド」


 無機質な聖女――名をサフィアという。彼女は感情の起伏を一切見せない氷の瞳でエルフレッドを見据えた。


「ああ、今日はよろしく頼む。一人連れがいるんだが、大丈夫か?」


「その方はだれ……」


 リリアナが問いかけようとした言葉を、サフィアが冷淡に遮った。


「問題ありません。聖盾様のお連れ様なので。立ち会いを許可します」


「……ありがとうございます」


 エレンは萎縮しながらも、必死にエルフレッドの背中に隠れるようにして頭を下げた。

 

「それでは、行きましょう。行きながら諸々お話します」


「よろしく頼む」


 長い回廊に、四人の足音だけが響く。


エルフレッドは、少しだけ気にかかっていたことを口にした。


「それで、俺はてっきりリリアナが担当かと思っていたんだが」


「あら、私では不満でしたか?」


 リリアナが縋るような、それでいてどこか熱を帯びた視線を向ける。エルフレッドは困ったように首を振った。


「いや、そんなことはない。誤解を招いたな、すまん」


「やっぱり、私がいいですよ……。私が貴方を救いたいんですもの……」


 リリアナが甘く、粘つくような声を漏らそうとした瞬間、サフィアが再び機械的な声で割って入った。


「元々はリリアナの予定でした。ですが、急遽私が代わりました」


「ほう、なぜ変わったんだ? 聖女が二人も担当するなんて、前代未聞だろう」


 この世界において、聖女は国王ですら頭が上がらない神の代弁者だ。その彼女たちが、一介の冒険者のために二人も動く。その異常性を、エルフレッドだけが理解していない。


「それはですね、リリアナが担当したら色々と……ね、ありそうだったので」


 サフィアが、軽蔑にも似た憐れみの視線をリリアナへ向けた。エルフレッドは眉を寄せる。


「色々? すまない、教えてくれ。俺には分からない」


 あまりの鈍感さに、エレンがエルフレッドの肩をそっと叩き、耳元で小さく囁いた。


「……そちらの聖女リリアナさんは、先輩に無理をしてほしくないから……その、戦いを辞めさせるために、わざと嘘の診断をするかもしれないって、疑われてるんです」


「なるほど。……そういうことか」


 エルフレッドは得心したように頷いたが、すぐに不思議そうに問いを重ねた。


「わかった。それで、どうしてリリアナがここにいるんだ? 聖女は忙しいだろう」


「……私が貴方の診断を見届けずに、仕事に行けるわけがないではありませんか!」


 リリアナは胸を張り、毅然とした態度を装うが、その手は小刻みに震えている。


「……そうか。仕事はちゃんとやるんだぞ」


「子供扱いはやめてくださいっ!」


「着きました」


 サフィアの短い言葉と共に、最奥の扉が開かれた。


 そこは巨大なステンドグラスから、不自然なほど一点に集中した光が落ちる聖域。光の円錐の中に、ぽつんと置かれた冷たい石の台座があった。


「こちらで横になってください」


 石の診療台にエルフレッドが腰を下ろすと、床に刻まれた幾何学模様の紋章が青白く輝き始めた。


「これは……すごいな。初めて見た」


「本来、貴方のような男性は、定期的にここへ通い、聖女の管理下に置かれることになっているのですがね」


 サフィアが嫌味を込めて言う。


「……耳が痛いな」


「服をあちらで着替えてください」


 少しして、白一色の簡素な装束に着替えたエルフレッドが戻り、診療台へ横たわった。


 サフィアが杖をかざす。糸のような、繊細で研ぎ澄まされた魔力が、エルフレッドの腕へと、血管を、神経をなぞるように流し込まれた。


 一瞬で、結果は出た。


「……確認しました」


 サフィアの声に、わずかな踌躇が混じった。


「右腕。筋組織、骨格、血管は……完璧に再生されています」


 エレンとリリアナの胸が、一瞬だけ、希望に浮いた。


「よかった……! 先輩、治ったんですね!」


「やはり私の祈りが――」


 だが。


 サフィアの次の一言が、彼女たちの希望を無慈悲に踏み潰した。


「……ですが、右腕の神経が、完全断絶しています」


「……完全?」


 静寂が、神殿の冷気をより一層際立たせた。


「リハビリとかで、治ったりしないのか?」


 エルフレッドの問いに、サフィアは冷酷に、事実を叩きつけた。


「いいえ。少なくとも、自然回復する可能性はゼロ。魔術、薬学、あらゆる手段を用いても、有り得ません」


 リリアナの呼吸が、激しく乱れる。


「今後……右腕が、少しでも動く可能性は?」


 エレンが声を震わせ、懇願するように尋ねた。サフィアは無情にも首を横に振る。


「ありません。感覚もありません。痛みすら感じないでしょう。……それに、意思が伝わらないのですから、この腕は今後、死んだ木馬のように、どんどん細く枯れていくことになります」


 サフィアは細い指示棒で、エルフレッドの逞しい右腕を無造作に突いた。


「これ、何か感じますか?」


「いや……。全く何も感じないな」


 エレンはもう、立っていられなかった。

 さっき市場で買って貰ったばかりの、宝物であるはずの藍色の髪飾りを両手で強く握りしめ、膝から崩れ落ちた。


「……やはりですか」


 エルフレッドは、まるで天気の報告でも聞くかのような、平坦な声で言った。


「俺は、もう戦えないのか?」


「……推奨しません」


「生存率は?」


「急激に低下します。盾の要である右腕を失った盾職は、ただの肉の塊でしかありません」


 その残酷なやり取りを、エルフレッドは天井の光を見つめながら静かに聞いていた。


 そして。


「そうか。……左腕と、体幹は?」


「……健在です。そちらに異常は見られません」


「なら、問題ない」


 その瞬間。


 リリアナの膝が、音を立てて石畳に崩れ落ちた。


「……そんな……どうして……そこまでして……」


 エレンは、診療台の縁を、爪が剥がれんばかりの力で握りしめていた。


 だが、サフィアの言葉は終わっていなかった。

「――ただし」


 全員の、澱んだ視線が彼女に集中する。


「魂の摩耗、ほかの体の部位の致命的な欠陥は……一切、確認されませんでした」


 一瞬、その場にいる全員が、言葉の意味を理解できなかった。


「……どういう意味ですか? 魂が、磨耗していない?体の欠陥がない?」


「彼は、壊れていません」


 サフィアは、淡々と、残酷な神の摂理を述べた。


「肉体は致命的に損なわれています。ですが、彼の精神、意思、そして魂……それら全てが、驚くほど健全で、ほかの体の部位も強靭なままです。絶望も、恐怖も、逃避すらも……彼の魂には刻まれていない」


 つまり。


「彼はまだ、『戦える』状態にあります」


 それは、慈悲のない救済だった。

 地獄だった。


 エレンは喉から声が出ず、ただ唇を震わせた。

 リリアナは、俯いたまま、ガタガタと震え始める。

 

 腕が動かなくなっても、心が折れていない。

 絶望していないから、彼は止まらない。

 止まらないから、彼はまた、戦場へ向かい、残された左腕を、足を、命を、最後の一滴まで使い潰す。


「ですが、そこまま無理をするとほかの体の部位にも悪影響がでてしまうかもしれません。」


「問題ない。」

 

 それを、神の診断が認めてしまった。

 エルフレッドは診療台からむくりと立ち上がり、サフィアへ軽く頭を下げた。


「感謝する。……確認できてよかった。これで、戦い方が定まる。着替えてくる」


 何がよかったのか。

 何が健全なのか。

 

 エレンにも、リリアナにも、サフィアにさえも分からなかった。


 神殿を出る時、背後から差し込む白い光が、エルフレッドの大きな背中を照らしていた。


 その光は、救済の祝福ではない。


 逃げ場のない真実という名の、呪縛だった。

 エルフレッド・レギウスの魂は、壊れていない。


 だからこそ、彼はこれからも世界を守るだろう。


「エレン、行くぞ?」


「先輩、もう、辞めましょうよ……」

 

 動かない右腕を引きずりながら。


 たった一人で、命の灯火が消えるその瞬間まで。


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