第10話 黄金の盾、後輩を悶々とさせる
神殿の冷たい静寂から逃れるようにして、二人は夕闇の迫る王都の路地を歩き、エルフレッドの自宅へと辿り着いた。
王都の外縁に近い場所に建つその家は、英雄の住処としてはあまりに質素な平屋だ。
だが、男女比1:50というこの世界において、独身男性が一人で暮らすこと自体が、本来であれば国家的な保護対象として認められないほどの異常事態である。
エルフレッドが左手一本で鍵を開けようと苦戦していると、背後からエレンが震える手で差し出した。
「せ、先輩。私がやります」
「ああ、悪いな。……上手くはまらん。」
カチリ、と鍵が開く。家の中に一歩足を踏み入れると、昼間の熱気がわずかに残る、少し埃っぽい匂いが鼻をくすぐった。
エルフレッドは当たり前のように、玄関で上着を脱ごうとした。
だが、右腕が動かないせいで、厚手の隊員服の袖が肩に引っかかり、滑り落ちていかない。
「……っ、くそ」
無意識に出た舌打ち。
「先輩! 無理しないでください。……私が、脱がせますから」
「すまないな」
エレンが慌てて歩み寄り、エルフレッドの背後に回る。
彼女の視界に、がっしりとしたエルフレッドの肩幅が広がる。
男女比1:50の世界において、これほど逞しく、そして今まさに『自分を必要としてくれている』男性の背中を独占できる幸せに、エレンの心臓はうるさいほどに鳴り響いた。
エレンは震える指先で、彼の肩にかかった布地をそっと掴んだ。
「……失礼します」
ゆっくりと上着をずらしていく。
布が肌を滑る摩擦音さえ、静かな玄関先では不気味なほど大きく聞こえた。
上着が脱げ、その下の薄い服越しに、エルフレッドの体温が伝わってくる。
「……エレン? どうした、止まって。次はボタンか?」
「あ、は、はい! すみません、今……っ」
正面に回り込み、服のボタンに手をかける。
至近距離。エルフレッドの呼気がエレンの前髪を揺らす。
彼にとっては『着替えを手伝ってもらっている』だけの事務的な時間だが、エレンにとっては、もはやこれは拷問に近い快楽だった。
(……先輩の匂いだ。鉄と、少しの石鹸の匂い。……ああ、どうしよう。私、今、先輩を……)
エレンの視線が、無防備に晒されたエルフレッドの鎖骨や、動かない右腕の付け根に注がれる。
「君、顔が赤いぞ。……やはり神殿の冷気にあてられたか?」
エルフレッドが、残った左手をエレンの額に伸ばした。
「ひゃうんっ!?」
変な声が出た。エルフレッドの大きな手のひらが、熱を持った彼女の額を包み込む。
「……熱いな。今日はもう、食事をしたらすぐに風呂に入って寝ろ」
「は、はい……。先輩も、その……。お着替え、終わったら、お休みください」
なんとか食事を終え、お風呂に入り、いよいよ『寝床』へ向かう時間になった。
エルフレッドの寝室は、最低限の家具しかない質素なものだ。
彼は腰を下ろし、再び左手で寝間着に着替えようとする。
「せ、先輩。その……寝間着の紐、結びましょうか?」
「紐? ああ、これか。……いや、左手でなんとかなる。それよりエレン、お前はもう限界だろう。俺の部屋のベット行け。疲れているだろう」
エルフレッドは、特に気にする様子もなく、寝間着の隙間から逞しい胸板を覗かせたまま、布団を敷き、そこにごろりと横たわった。
この世界の女性なら、卒倒してもおかしくないほど『無自覚にエロティック』な光景。
男性が少ないこの世界では、男の肌を見ること自体が一種の特権であり、神聖な儀式に近い。
それを彼は、まるでおまけのサービスのように無造作に放り出しているのだ。
「え、私が同じ部屋で寝てもいいんですか!?」
「あぁ、嫌か?それなら俺はリビングで、」
「嫌じゃないです!……じゃあ、失礼します。……おやすみなさい、先輩」
「ああ、おやすみ」
パチン、と魔法灯の火を消す。
暗闇の中、エルフレッドの深い呼吸がすぐに聞こえ始めた。
エルフレッドが普段寝ているベットにいるエレンは、ベットに寝た瞬間
「……っ、…………っ!!」
『先輩の匂い先輩の先輩の先輩の……』
声を上げないように、枕を口に押し当てて悶絶する。
(無理! 無理無理無理!! 先輩が無防備すぎる!!)
(どうしてあんなに平然としていられるの!? 私が女だってこと、忘れてるんじゃないの!?)
(……でも、あの右腕。……あんなに弱々しく横たわって。……私が、私がずっと隣にいて、お世話してあげないと。他の女に見られたら、絶対に連れ去られちゃう……)
エレンはベッドの上で、のたうち回った。
脳裏に焼き付いているのは、月明かりに照らされたエルフレッドの、傷だらけで逞しい裸身。
そして、自分を心から信頼しきっている、あの安らかな寝顔。
貞操逆転世界の理性が、彼女の中で悲鳴を上げていた。
普通、男の人はもっと『隠す』ものだ。
もっと『守られる』べき存在として、お淑やかにしているものだ。
なのに彼は、腕一本動かなくなってもなお、堂々と『男』としてそこにいる
「……寝られない。絶対に寝られない……」
エルフレッドが眠ってから、すでに数時間が経過していた。
ベッドに潜り込んだエレンだったが、毛布を被っても、逆に剥いでも、一向に眠気が訪れる気配はない。
脳裏に焼き付いているのは、先ほど介助した際に触れたエルフレッドの熱い肌の感触と、あの無防備な寝顔。
そして、暗闇に響く彼の規則正しい、低く落ち着いた呼吸の音だった。
(……ダメ。全然寝られない。まぶたを閉じると、先輩の姿が浮かんでくる……っ!)
エレンは枕を抱きしめ、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
(先輩の匂い……)
この世界において、成人男性と同じ屋根の下で夜を明かすということが、どれほど過酷な試練であるか。
しかもその相手は、自分を地獄から救い出してくれた、世界にたった一人の英雄なのだ。
エレンはついに耐えきれず、ガバッ、と跳ね起きた。
「……水を。冷たい水を飲んで、頭を冷やそう」
彼女はふらふらとした足取りで部屋を出た。廊下はしんと静まり返っている。
エルフレッドの顔の前を通り過ぎようとした、その時だった。
「……エレンか? 寝られないのか?」
暗闇の中から、低く、少し掠れた声が響いた。
エレンの心臓が、物理的に跳ね上がった。
「ひゃ、ひゃいっ!? す、すみません先輩、起こしちゃいましたか!?」
「いや、右腕が少し重くてな。……目が覚めていたところだ」
エルフレッドが起き上がる
そこには、月明かりを背負って立つエルフレッドの姿があった。
寝間着の襟元が少しだけはだけており、そこから覗く鎖骨のラインが、影となって強調されている。
「顔が青白いな。……やはり、今日の診断がそんなにショックだったか?」
エルフレッドは、エレンが眠れない理由を
『自分の右腕への心配』だと決め打ちしていた。どこまでも健全で、どこまでも的外れな優しさ。
「あ、いえ、それは……そうなんですけど、その……」
「そうか。お前は優しいからな。……一人にさせて、不安にさせたか」
エルフレッドは、少しだけ考え込むような仕草をした後、左手で自分の布団をぽんぽん、と叩いた。
「……こっちに来い。寝られないなら、少し隣で寝るか?」
「…………えっ?」
エレンの思考が完全に停止した。
今、この人は何と言った?
希少な、守られるべき、世界で一番価値のある『男性の英雄』が。
夜中の寝室で。
『隣で寝るか』と誘った?
「せ、先輩。あの、それって……どういう……」
「子供の頃、不安な時は誰かがそばにいると落ち着いただろう。俺にできるのは、これくらいだ。右腕は動かないが、左腕でお前を支えるくらいはできる。……それとも、俺の隣じゃ余計に不安か?」
エルフレッドの瞳は、どこまでも澄んでいた。下心など塵ひとつ存在しない、濁りのない『後輩への配慮』。
だが、男女比1:50のこの世界において、その誘いは宣戦布告に近い破壊力を持っている。
「ほら、遠慮するな。俺の落ち度もあるんだ。
それに、安心するだろう?」
その『安心させる』という一言が、エレンの最後の一線を決壊させた。
彼女は操り人形のようにフラフラと近づき、エルフレッドに促されるまま、大きなベッドの隅に滑り込んだ。
隣から、暴力的なまでの熱量が伝わってくる。
狭いベッド。
エルフレッドが横たわると、布団が大きく沈み、自然と二人の距離が近くなる。
「……これでいいか?」
エルフレッドが、残った左手でエレンの肩をそっと抱き寄せた。
「…………っ!!」
エレンは全身を硬直させた。
耳元で、彼の深い鼓動が聞こえる。鼻先には、彼特有の、落ち着く男性的匂いが満ちている。
「エレン。お前は、幸せにならないといけないんだ。……俺のために、こんなところで心を擦り減らしていい人間じゃない」
エルフレッドは、エレンの髪をゆっくりと、慈しむように撫で始めた。
彼の『健全な精神』から放たれる、純粋な愛撫。
エレンは、死にそうだった。
幸せに、してあげます。……そう言ったのは自分なのに、今はただ、彼の大きな器の中に飲み込まれてしまいそうだった。
(無理……。無理です、先輩。……こんなこと、普通は好きな女の人にしかしないんですよ……っ!)
(なんでそんなに普通なの……? なんでそんなに、私を信じきっているの……?)
エルフレッドの腕の中で、エレンは真っ赤な顔をして、震えながら目を閉じた。
彼はそのまま、満足げに小さな寝息を立て始めた。
彼にとっては、これは『不安がる後輩を寝かしつける』という、英雄としての善行に過ぎないのだ。
一方で、エレン。
(心臓の音がうるさすぎて、先輩に聞こえちゃう……)
(……ああ、でも。……あったかい。……嫌だ。絶対に、他の女に、こんなことさせたくない。……この場所は、私だけのものにしたい……)
絶望的な不眠の夜が、確定した瞬間だった。
エレンは結局、エルフレッドが完全に熟睡した後も、彼の胸板を見つめながら、匂いを、温かさを感じながら、一睡もできずに『愛と所有欲と倫理観』の板挟みになって悶絶し続けることになった。
翌朝。
スッキリとした顔で「エレン、よく眠れたか?」と朝ごはんを作りながら聞くエルフレッドの前で、廃人のような顔で「……はい、最高に」と力なく答えるエレンの姿が、そこにはあった。
そこに
ゴンゴンゴンと扉が叩かれる
「エルフレッド様!エルフレッド様!」
大声で呼ばれる
「敵襲です!」
まるで穏やかな時間の終わりを告げるような報告がされた
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もし少しでも
「続きが気になる」
「この物語の行く先を見届けたい」
そう思っていただけたら、
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皆さんの応援が、次の一話を書く力になります。
今後とも、よろしくお願いします。
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