第二章 揺らぐ境界 第二話
※R15相当:本作品には、性的接触および暴力的な回想を含みます.
直接的な描写ではなく、情感と心理を中心に構成されています。
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シーン02-04 家族の会食
やがて訪れた、ある土曜日。
父・正夫の招待で、木島家との食事会が開かれた。
木島家は、三姉妹に昭彦、そして両親の六名全員。
内川家も両親に僕、そして姉の正江が、一泊の帰省を兼ねて出席していた。
会食は終始、和やかに進んだ。
話題は僕と昭彦の学校生活、
そして来年度に控えた大学受験のことへと移っていく。
双方の両親とも、息子を進学校に入れてはいたが、
一流大学への進学に固執しているわけではなかった。
むしろ、今後の進路に対してできるだけ幅広い選択肢を持てれば良い――。
そんな柔らかな考え方が、両家の親交を深める理由でもあった。
「最近、ちょっと遊びがすぎるみたいに聞いてるで」
「うちのも、共犯みたいで……」
両親からのやんわりとしたプレッシャーに、
僕と昭彦は小さくなって苦笑いした。
場の空気が和らぎ、テーブルの上に穏やかな笑いが広がった。
――ただ、その時。
「まあ、今しかできんこともあるからな」
父の何気ない一言が、喉の奥で鈍く転がった。
「いましか」という四文字が、妙に重たく響く。
正しい言葉ほど、人を前にも後ろにも進ませる。
誰にともなく呟かれたその言葉に、僕は思わず顔を上げた。
父は僕の方を見て、小さく笑みを浮かべ、うなずいた。
胸の奥に、温かなものが広がっていった。
それは赦しのようで、覚悟を問うようでもあった.
──
正江は今回も、三姉妹の横に座っていた。
女性同士の話題に花を咲かせ、ときおり僕の方をちらりと見ては、
何かを話して笑っている。
意味ありげな視線が交わるたびに、僕は落ち着かない気持ちになった。
双方の両親は深酒をするタイプではなく、
終始穏やかなまま会食は終わった。
沙織と二人きりで話す時間はなかった。
けれど、レストランを出るとき――。
少し混み合って立ち止まっていると、
正江が僕の背中を軽く押した。
進んだ先に、沙織がいた。
驚いたように目を見開いた沙織は、
すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。
人の流れに紛れながら、そっと僕の手を握る。
「また今度ね」
伏し目がちに囁かれたその声は、小さく震えていた。
僕は彼女の目を見つめ返し、静かにうなずき返した。
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シーン02-05 姉弟の夜
その夜、家に帰って寝る前。
部屋でヘッドホンをかけてレコードを聴いていると、正江がまた布団を抱えてやって来た。
「今日はここで寝させてもらうわ」
そう言いながら、レコードのジャケットを手に取って話しかけてきた。
「Tommy(映画トミー)のサントラか。……映画、観たんか?」
「昭彦と観て来た。良かったで」
「私も観た。ラストの朝日を掴んで、オレンジ一色に画面が変わるところが、忘れられへん。
……でもな、そのオレンジ色の向こうに行って、トミーはほんまに“解放されたまま”行けたんかな?」
正江はそう呟き、映画の余韻を振り払うようにレコードを手にして、にやりと笑った。
「なあ、明日帰るまでにカセットに入れといて」
布団をベッドの横に敷きながら、今度は声を弾ませる。
「待たせたな。恒例の兄弟枕投げ大会や」
その言葉に、思わず笑いがこぼれた。
正江はいたずらっぽく目を細めて、続けた。
「一瞬だけやけど、沙織ちゃんと話せたやろ? もうお姉ちゃんに足向けて寝られへんな」
「いつも姉ちゃんの方向いて拝んでるから」
「たまにはお供えもんも欲しいとこやな」
二人で笑った。
笑いの余韻が収まると、幼い日の記憶が胸に蘇った。
両親は忙しく、七つ年上の正江が高校を卒業して看護学校に進むまで、
僕の面倒はほとんど彼女が見てくれていた。
思春期を男子校で過ごしたせいもあって、同世代の女性に不慣れな僕が、
年上の女性に惹かれがちなのは――やはり姉の影響が、大きいのかもしれない。
静かな時間が流れた。
その沈黙を破るように、正江が不意に言った。
「なあ」
少し間を置いて、続ける。
「察してるかもしれんけど……詩織ちゃん、結構本気やで。何か仕掛けてくるかも」
「……最近、距離近いなとは思ってた。でも、沙織さんの妹やし」
正江は、布団の端を整えながら、ふっと笑った。
「せやけど、あの子の目は――もう、子どもの目やないで」
僕は息を呑んだ。
部屋には、レコードの針が走る微かな音が続いていた。
それが、これから始まる大事な話の前触れのようにも思えた。
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シーン02-06 愛の定義
静けさが戻り、時計の針が一定のリズムを刻んでいた。
レコードの針は止まり、ただ盤面に残った摩擦音だけが、遠い波のように響いていた。
「なあ、姉ちゃん」
僕は布団の上で仰向けになったまま、天井を見つめて言った。
「女の人に惹かれることと、好きになること。それが『愛してる』になって、生涯一緒になること……なんかよう分からへんね」
正江は枕に頬を乗せたまま、ゆっくり目を開けた。
「なるほどな」
「一番分かりやすいのは『惹かれる』ことやけど、それが『好き』と同じなんかどうか……。
沙織さんのことは今は好きやと思うけど、最初は惹かれてただけやった気がする。
詩織さんも、時々はっとする瞬間があって……それも結局、惹かれてるだけなんやろかって」
正江は少し考えてから、淡々と語り出した。
「まあ、お前は沙織ちゃんしか見えてなかったやろからな。ええか、三つだけ覚えとき」
彼女は指を三本、順に折った。
「――惹かれる。――好き。――結婚。」
僕は黙って続きを待った。
「『惹かれる』だけやったら、体が反応してるだけや。
ほんまに『好き』なんは、そこに心が混じった時や。
体が先で心が追いつくのが『恋』。
心が先で体が並んで追いつくのが『愛』」
一呼吸おいて、静かに続けた。
「言うてみたら――恋は追いかけっこ。愛は並んで歩くことやな」
その言葉の響きが、妙に耳に残った。
僕は返事をしなかった。
まだ完全に理解できたわけではなかったが、胸の奥に小さな光が灯るような感覚があった。
正江はゆっくり体を起こし、僕の方を向いた。
「沙織ちゃんはそうやろ? 一緒にいて安心するとか、支えたいとか。
惹かれるだけやったら続かん。心が絡んで初めて『好意』になる。
嫌悪感も同じや。体が拒否してるサインを、社会性で『気に入らん』って理屈にすり替えるんや」
僕は静かにうなずいた。
「結婚はもっと社会性の領域や。
安定とか家庭とか、一人ではできんことに力を合わせる約束と言えるかな。
もちろん根っこに性欲はあるけど、『家庭を持つため』って大義名分で隠すんや」
正江は淡々と語りながらも、声の底に温かさがあった。
「沙織ちゃんは安定を求めてる。
詩織ちゃんはまだ、惹かれる勢いで動いてる。
どっちも間違いやないけど、混ぜたら壊れるで」
僕は天井を見上げたまま、ぽつりと漏らした。
「……僕には、そんな器用にできひんかも」
正江は静かに応じた。
「器用に隠したり言い換えたりは苦手やろな。
せやけど、不器用でも『自分の答えや』って言えたら、それでええんよ」
沈黙が落ち、布団の重みがずっしりとのしかかる。
「……どっちも選べんかったら?」
「二人とも傷つく。ほんで、あんたも壊れる。
人はな、『選ばん』ってことを選ぶこともあるけど、それは一番残酷や。
最後に残るのは、失望と怒りだけや」
胸の奥がざわつき、言葉がこぼれた。
「……僕が消えたら?」
正江は真剣な目で僕を見つめた。
「消えたら、残された人はもっと傷つく。
自分のせいかもしれんって、一生背負うことになる。
解決どころやない。もっと深い傷や」
そして、少し声を落として言った。
「消えるんやなくて、向き合うんや。不器用でも、それがあんたの役目や」
僕は布団を握りしめた。
「……詩織さんを選んだら?」
「詩織ちゃんは本気で欲しがる。最初は熱い。
でも、やがて沙織ちゃんを傷つけたことも、家族を裏切ったことも重なって、二人とも苦しむ。
選ぶなら、その涙ごと守る覚悟が要る。
中途半端にしたら……あの子は壊れる」
「……その時、沙織さんは?」
「『仕方ない』って受け止めるやろ。
でも本当は一番傷つく。笑顔の裏で傷を抱えたままになる。
その痛みごと背負うことになるんや」
「……じゃあ、沙織さんを選んだら?」
「沙織ちゃんは救われるやろな。
選ばれたことで安心する。
でも今度は詩織ちゃんに『奪った』って罪悪感を抱える。
笑顔の裏で苦しむ。
選ぶなら、支え続けな壊れてしまうで」
胸がぎゅっと締めつけられた。
「……僕が招いたわけやないのに、理不尽やなぁ」
正江は首を振った。
「理不尽なんは世の中そのものや。
誰かを好きになった時点で、必ず誰かは傷つく。
理屈やなく、どう責任を取るかや」
「……押しつぶされそうや」
「そらそうや。まだ十七で、こんな重いもん背負わされてるんやからな」
正江はそっと息を吐き、柔らかい声で続けた。
「せやけど、押しつぶされそうになりながらも立ち上がるんが『選ぶ』ってことや。
不器用でも、自分で決めた答えならな」
正江は少し眩しそうに、枕元を照らすライトを傾けた。
そして手をかざすようにして、僕に微笑んだ。
僕は小さく笑った。
「……お姉ちゃん、ありがとう。
なんか、間違えそうな気はするけど……考えてみる」
正江は目を細めて頷いた。
「間違うのは当たり前や。大事なんは逃げんこと。
間違えても進めばええ」
その言葉は、静かに胸に落ちた。
重さと同時に、わずかな温もりを残して。
布団に潜り込むと、正江の呼吸が遠のいた気がした。
僕の鼓動だけが夜に響いていた。
僕は明かりを落とした。
――明かりが消えた瞬間、闇の中に声だけが残った。
「私がずっと見とるから……」
正江の目が微かな熱を帯びていたことに、僕は気づいていなかった。
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