第二章 揺らぐ境界 第一話
※R15相当:本作品には、性的接触および暴力的な回想を含みます。
直接的な描写ではなく、情感と心理を中心に構成されています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シーン02-01 揺れる風の中で
夏休みが終わり、まだ残暑が続いていたものの、
時折吹く風に秋の匂いが混じり始めていた。
その涼しさは、僕と沙織の関係に訪れようとしている変化の予兆のようにも感じられた。
沙織とは週に一度か二度、会うのが精一杯だった。
デートといっても、人目を避けて街を歩いたり、
駅前の喫茶店で短く話したりする程度だった。
お互いを確かめ合うにも、
公園の陰や僕の部屋で、誰かの気配を気にしながらでは気まずさしか残らなかった。
それでも、沙織はいつも笑顔を絶やさなかった。
ただ、その笑顔がふと影を落とす瞬間を、僕は何度か見逃さなかった。
瞳の奥に滲む不安を、笑顔で塗りつぶすように――。
その笑顔は僕の弱さまで包んでくれるようで、
同時に、何も返せていない自分をくっきりと照らし出していた。
本当は、彼女を支えてあげたかった。
だが、僕にはどうしても、それを口にする勇気も、覚悟もなかった。
──
ある日の帰り道、駅までの道を歩いていると、
沙織がふと寂しそうに言った。
「正也くんとゆっくりできるとこがあったらええねんけどなあ」
「一人暮らしできたらええねんけど、親に言うたら
『家から通えるのに何アホなこと言うてんの』って、相手にもしてもらえへんし」
その声は笑い混じりだったが、目の奥には重い影が落ちていた。
僕は何も返せなかった。
自分も同じ渇きを抱えていながら、
彼女の口からそれを直接聞かされると、
心の奥底で幸せの形がきしむようだった。
──
十月。体育の日のおかげで、貴重な連休になっていた。
土曜日の学校を終え、昭彦が家族旅行で家を空け、
沙織にも会えないことを知って、僕は落胆していた。
だが、日曜日の朝。沙織から電話があった。
弾むような声で、彼女は告げた。
「なぁ、正也くん……もしよかったら、うちに泊まりに来えへん?」
どうやら、旅行に気乗りしていない沙織の様子を見て、
長女の香織さんが口添えをしてくれたらしい。
沙織は留守番をすることになったのだ。
それまでの落胆は、一気に喜びに変わった。
初めて、二人きりで夜を過ごせる。
僕の心は跳ね、沙織もまた喜びを隠しきれない様子だった。
──
沙織の家に着き、玄関の扉が閉まるや否や、
彼女は僕の胸に飛び込んできた。
もつれ合うようにして、彼女の部屋へ向かう。
唇を重ね、静かに離れると、沙織が囁いた。
「今日から明日は、『沙織』って呼んでな、正也」
「……うん、沙織」
その名を呼んだ瞬間、沙織は花が開くように微笑み、
澄んだ瞳で僕を見つめ返した。
バレッタを外し、サイドポニーテールを解いて、ふわりと髪を揺らす。
次の瞬間、小さなベッドへ二人で身を預けた。
熱に身を委ね、時間を忘れた。
呼吸が落ち着くと、沙織は素肌のまま僕の胸に顔を乗せて微笑んだ。
「まだまだ、時間があるな」
──
夕食は沙織の手作りだった。
二人では到底食べきれないほどの量と品数が、テーブルに並んでいた。
「こんなに作って大丈夫なん?」
僕が笑うと、沙織は照れくさそうに言った。
「香織姉ちゃんの真似やねん。お客さんが来たら、
姉ちゃんはいつもこうして料理をたくさん並べるんよ」
やがて夜も更けて、彼女は僕の腕にもたれて言った。
「初めて二人で行ったホテル、あったやろ? あそこな、
ほんまは香織姉ちゃんが教えてくれてん。
今日も、お父さんにうまいこと言うてくれて、
うちに残れるようにしてくれたし」
少し眠そうな声で、彼女は続けた。
「こうやって、正也の腕の中で眠れるのも、お姉ちゃんのおかげや」
そう呟き、やがて彼女は穏やかな寝息を立て始めた。
──
我に返り、ふと思った。
今日もまた、自分からは何もしていなかった。
ただ、香織さんや沙織の用意してくれた舞台に、甘えているだけだった。
眠る沙織の髪を撫でながら、僕は静かに口にした。
「沙織……助けられているのは、いつも僕のほうや」
口に出した途端、安堵と情けなさが胸の奥できしんだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シーン02-02 三女の微笑
そんな自分を思うと、
不意に別の存在が胸をよぎった。
──木島家の三女、詩織だった。
十一月に十八歳になる高校三年生で、
今は僕と同い年だった。
ショートヘアがよく似合う活発な女の子で、
すでに大学への推薦が決まっており、
のびのびと残りの高校生活を楽しんでいるように見えた。
昭彦の部屋にいると、たびたび顔を出しては僕をからかってきた。
「昭彦みたいな、ぱっとせえへんのと遊んでたら、彼女なんかできひんで」
「今日も相変わらず地味な顔してるな。けど、ちょっとかわいいとこもあるな」
その軽口の奥に、どこか姉の沙織を思わせる表情を見せる瞬間があり、
時折、はっとさせられることがあった。
──
ある日の放課後。
昭彦の部屋で音楽を聴いている時、台所からお母さんの声が響いた。
「詩織ー! そない遊んでばっかりやと、推薦ぱあになるで!」
「はいはいー」
間延びした返事が返ってきた。
数秒後、ショートヘアを揺らしてリビングを抜けてきた詩織は、
肩をすくめて笑った。
「脅し文句やって。私はもう決まっとんねん」
その受け流すような笑い方が、
寂しさを隠すように微笑む沙織の笑顔と重なった。
ふざけ半分の調子が切れたときにだけ顔を見せる、素の横顔。
そこに、姉妹で同じ温度の影を見た。
──
その後、詩織は少し沈んだ顔になった。
「大学入ったら、東京へ私だけ引っ越しやねん」
そう言って、詩織は僕の目を見つめた。
唇に次の言葉を迷っている、小さな震えが浮かんでいるようだった。
次の言葉を紡ぎながら、そっと伏せた詩織の目に、
涙が滲んでいたような気がした。
「行かんといてって頼むんやったら、今のうちやで。
推薦なんかぱあにしたるわ」
そう言って笑い飛ばすと、彼女はそのまま部屋を出ていった
最後まで、顔を見せないまま――。
部屋を出て、いつもより静かに閉まったドアの音が、やけに響いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シーン02-03 文化祭の招待券
それからしばらくしての日曜日だった。
その日も僕は、いつものように昭彦の部屋にいた。
やがて詩織が入ってきた。
今日はいつもの調子を取り戻したように、
いきなり、僕の背中に覆いかぶさるようにもたれてきた。
柔らかい感触が背中越しに伝わり、思わず心臓が跳ねた。
こんなふうにされるのは一度や二度ではないのに、
何度されても慣れることなくドキッとしてしまった。
「正也、十一月三日、文化祭やろぉ? 招待券ちょうだいなぁ」
「そんなん今日持ってきてへんし、
それやったら昭彦から家族券もろたらええやん」
詩織は悪びれる様子もなく、さらに首に腕を回し、
甘えるように身体を預けてきた。
そのとき、詩織の指先の小さな震えが、腕から全身に伝わってきた。
その微かな震えが、僕の意識を揺らした。
「そんなんあかん。正也の招待券で行きたいねんて。なあ、なあ」
身体を揺すられるたびに感じる柔らかさと、
息が詰まるような近さに困り果てていると、沙織が近づいてきた。
少しムッとした表情で腕を組みながら、じっと僕と詩織を見ている。
「ほな、私も欲しいわ。文化祭の招待券」
「ちょっと沙織姉ちゃんまで言い出したら、正也が困るやん」
沙織は片眉を上げ、余裕を見せるように笑った。
「ええやんか。詩織ばかりずるいやろ。私も正也くんの券で行きたいんや」
昭彦は横で足を組み替えながら、にやにやと笑っていた。
「姉ちゃんら、そしたら俺の家族券で行ったらええやん」
「正也の招待券で行きたいねん!」
沙織と詩織が声をそろえた瞬間、部屋の空気がしんと止まった。
僕はどう答えればいいのかわからず、視線を泳がせた。
そのとき、隣のリビングから声が飛んできた。
「――あんたら、ほんまあほやなあ」
開け放たれた扉の向こうから、香織が顔を覗かせていた。
髪をかき上げながら、呆れたような、
それでいて楽しんでいるような表情だった。
「昭彦、あんた招待券三枚持ってるやろ? はよ出し!」
「えっ、なんで知ってんねん」
香織は肩をすくめて笑った。
「正也くんと昭彦の学校は毎年そうやん。
家族券が一枚に、招待券が三枚配られるの、あんたらも知ってるやろ」
沙織は少し口を尖らせ、机の端に腰を下ろした。
「でもそれやったら、昭彦の招待になってまうやん」
香織は手をひらひらさせながら言い返した。
「ちゃうちゃう。招待券の裏に『誰が招待したか』書く欄あるやろ?
昭彦から券もろて、そこに正也くんの名前書いてもろたらええんや」
詩織が目を輝かせて顔を上げた。
「香織姉ちゃん、さすがやなあ。でも、なんで三枚もいるん?」
「当然、私の分もやんか」
香織が口角を上げて答えると、沙織と詩織は「えー!」と声をあげた。
昭彦は堪えきれずに吹き出した。
「昭彦、わかったらはよ出し。
出さへんのやったら、今晩あんたのエビフライはないかもしれへんな」
「姉ちゃん、それ脅迫やん……」
昭彦がしぶしぶ机から券を出すと、香織はもう横に来ていて、
当然のようにそれを持っていった。
僕はその手際の良さに、半ば呆気に取られていた。
「昭彦、ボールペン」
香織はさらりと命じ、ペンを受け取ると僕に差し出した。
「さ、正也くん。ここにお名前書いてや。まだ二枚あるで」
詩織が肩を揺らして笑いながら茶化した。
「香織姉ちゃん、なんや高利貸しの証文みたいやな」
「ほな詩織、あんたのエビフライ一尾減らしやな」
香織がすかさず返すと、詩織が膨れっ面になって、
部屋中に笑い声が広がった。
部屋に溢れた声は明るく、温もりを感じさせた。
――それでも、何かがほつれる気配がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます