第一章 違和感という予兆 第五話[第一章最終話]
※R15相当:本作品には、性的接触および暴力的な回想を含みます。
直接的な描写ではなく、情感と心理を中心に構成されています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シーン01-11 神戸、導かれる夏の果て
約束の日だった。
僕は彼女と電車を乗り継ぎ、二時間ほどかけて神戸へ向かった。
僕は白のポロシャツにコットンパンツ。
足元には、姉から贈られたネイビーのデッキシューズを履いていた。
待ち合わせ場所に現れた沙織は、
オフホワイトにサックスのストライプが入ったコットンのワンピースに、
白のサンダルを合わせていた。
いつもの彼女とは違う、少し大人びて見える姿が眩しかった。
古い異人館が並ぶ街並みを、二人で歩いた。
街全体を包む潮風の香りが、
いつもと違う特別な一日を僕たちに予感させた。
石畳の坂道を並んで歩いていると、
沙織が僕の指先にそっと触れてきた。
戸惑っている僕の手を、彼女はためらいもなく握り、
嬉しそうに微笑んだ。
地元から離れた場所での開放感が、
彼女をいつもより積極的にさせているようだった。
観光船に乗って海風に吹かれると、白い波しぶきが僕たちの頬を濡らした。
沙織が楽しそうに笑い、今度は僕の腕に自分の腕を絡めてくる。
その仕草に、彼女が僕との時間を心から楽しんでくれているのだと知り、
心は静かに満たされていった。
けれど、自分から動けない苛立たしさのようなものも、心の片隅に残っていた。
僕は最後まで一歩を踏み出せずにいた。
けれど沙織は、迷うことなく僕の手を取り、導くように前へと歩いていった。
──
夕暮れが近づき、街の灯りがともり始める頃だった。
沙織は僕の手を引き、通りの奥へと歩き出した。
さっきまでのとりとめのない会話は途切れ、僕たちはほとんど無言のまま。
握られた手のひらに、汗が滲んでいるのがわかった。
僕も沙織も視線を合わせず、ただ、近づいてくる何かを強く意識していた。
小さなホテルの前で立ち止まった時、
胸の鼓動は早鐘のように鳴っていた。
──
部屋に入ると、沙織は少し恥ずかしそうに言った。
「こういう所のこと、全然わからへんかったから……ガイドブックとか地図で、色々調べてん」
その言葉に、胸の奥から温もりが広がった。
大人の余裕を演じるのではなく、
彼女もまた不慣れなまま、僕を想って準備してくれていたのだ。
その真心が、僕の臆病な心をそっと溶かしていった。
沙織は僕の胸に顔を埋め、囁いた。
「正也くんと、こうなりたかったんや」
その言葉に、もう抗えなかった。
沙織の導きに、ただ身を委ねるしかなかった。
僕は彼女を抱き締めた。
いや、抱き締めることしかできなかった。
その日、沙織は自分のすべてを僕に見せてくれた。
そして、僕のすべても受け止めてくれた。
まだぎこちなさは拭えなかったが、
自然とお互いを確かめ合っていた。
沙織に導かれるまま、僕は大人への階段を一段昇った。
「沙織さん……ありがとう」
囁くと、沙織は頬を寄せて、耳元で穏やかに告げた。
「普段は仕方ないけど、こういう時は『沙織』って呼んで欲しいわ……正也」
「……沙織」
名を呼ぶと、彼女はさらに僕の胸に顔を埋めた。
温かい吐息が耳にかかり、全身に甘い痺れが広がる。
胸の奥に溢れた言葉は、声になる前に息へと溶けていった。
僕はそのまま、彼女を強く抱きしめた。
沙織の目に涙が浮かんでいた。
その涙が、決して悲しみゆえのものではないことは、僕にもわかっていた。
──
夏から秋へと季節が移ろうように、
僕と沙織の関係も静かに変わっていった。
けれど、その変化に寄り添う勇気を持てず、
僕はただ、彼女に導かれるまま、目の前の「今」だけを見つめていた。
夏休みが終わっても、その関係は続いた。
しかし、僕はあまりに目の前のことしか見えておらず、
沙織との将来や、この先何が起こるのかを考えることができなかった。
結局、僕は沙織に依存し、
これからどうあるべきかを自分で決められずにいた。
導く手は温かい。
けれど、その先で手を放し、
自分の足で立つ日が来ることを、僕はまだ知らなかった。
その日の黄昏は、空を濃紺に染めていた。
まだ、あの赤い花の兆しは見えていなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シーン01-12 沙織――触れられぬ温もり
私が正也くんと知り合ったのは、
私が高校三年生で、受験の真っ最中の頃やった。
昭彦が連れてきた新しい友達は、
一見無口で、人見知りする普通の男の子やった。
でも、時々ドキッとするような――
理知的やのに、どこか色気のある表情をする時があった。
私が大学に入ってすぐ、二つ年上の先輩から声をかけられた。
なんでも自信ありそうに振る舞って、みんなに優しいその人に、私は憧れた。
いつの間にか一緒に過ごす時間が増えて、
男と女の関係になるのに時間はかからんかった。
もう一生、このまま幸せが続くって思っとった。
せやけど、だんだん私に対して横暴な態度が目立ってきた。
みんなの前では優しくしてくれるのに、
二人になると何でも言うことを聞かせようとする。
抱き方も乱暴になって、
優しく抱きしめたりなんてしてくれへんようになった。
嫌やのに、誘われたら断られへん自分に、
だんだん嫌気がさしていった。
そんな時に、同級生の一人が近づいてきた。
私の話を聞いてくれて、優しく慰めてくれた。
いつの間にかその人に惹かれて、
ようやく先輩から離れることが出来た。
でも、幸せは長く続かへんかった。
そいつも一緒やった。
私が「手に入った」と思った途端に、
私を物みたいに扱うようになった。
嫌や言うても無理やり口を開けさせられて、
私が苦しんで耐えてるのに「そんな感じるんか」って笑われた。
泣いて「やめて」って言うたら、平手で叩かれた。
一年生から二年生にかけては、地獄やった。
助けてくれたんは、香織姉ちゃんやった。
香織姉ちゃんは、二年ほど前までは
あんまり感心せえへんような人らとも遊んでて、
男も取っかえ引っ変えしとった。
でも今は、びっくりするほど立ち直って、
悪い付き合いもやめて、ほんまに「お姉ちゃん」になってくれてた。
私が泣いてるのに気づいて話を聞いてくれて、
一言「私に任せとき」って言ってくれた。
その時の目だけ、二年前の目やった。
二日ほどして大学に行ったら、
あいつが顔中アザだらけで、手にも包帯巻いてて、
私に泣いて謝ってきた。
何があったかは知らんけど、
多分、香織姉ちゃんが手を回してくれたんやって、すぐにわかった。
それでようやく私は、自分を取り戻せた。
心はまだボロボロやったけど、
うちに正也くんが遊びに来て、少し話したりするだけで心が落ち着いた。
気づいたら、高校生になってた正也くんに、
体つきも仕草も、どこか「男」を感じるようになってた。
最初は、年下のかわいい男の子をペットみたいに連れて歩いたり、
自分が寂しい時に抱きしめられたらええなあ、くらいの気持ちやった。
香織姉ちゃんも詩織も、正也くんのこと気に入ってたから、
どこかで競争心もあったかもしれへん。
それに、三人の中で私が一番綺麗やと思ってた。
せやから、正也くんが十七の誕生日を過ぎた頃に、仕掛けてみた。
家からの帰り道、一緒に歩きながら聞いてみた。
「年上の女って、どう思う?」
その言葉から、私は正也くんを誘って、
キスして――私のもんにした。
そのあと、神戸に誘って、結ばれた。
本当は私がリードして、
私の思うようにしたかったのに、
なんでか私、正也くんを追いかけてた。
正也くんは、ほんまに優しい。
今までの男たちなんて――もう、ゴミみたいや。
せやのに……なんでやろ。
幸せなはずやのに、胸の奥がざわざわする。
正也くんの笑顔見てたら、
「この幸せ、いつまで続くんやろ」って、ふと思ってまう。
ううん、ほんまは怖いねん。
こんなに大事にされたこと、今まで一度もなかったから。
――たぶん、心のどっかでわかってる。
正也くんは、いつまでも私のそばにはおらん。
そんな日が来るって、最初から知ってた。
せやのに、笑ってしまうねん。
笑わんと、泣いてまいそうで。
正也くんの手の温もり――。
きっとこのまま、少しずつ指の隙間からこぼれていってしまう。
それでも、放したない。
たとえ最後の一瞬しか残ってへんとしても、
このぬくもりだけは、私の中に焼きつけたい。
……正也くん。
【第一章 了】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます