第一章 違和感という予兆 第四話
※R15相当:本作品には、性的接触および暴力的な回想を含みます。
直接的な描写ではなく、情感と心理を中心に構成されています。
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シーン01-08 詩織、揺さぶる距離
それからの一週間、僕は補講のために昭彦と一緒に学校へ通った。
授業を終えると、真夏の照り返しに汗を拭いながら、駅前でかき氷を食べたり、レコード店を覗いたりして寄り道をした。
靴屋の店頭で、欲しい靴を見つめることもあった。
ネイビーのデッキシューズ。
ネイビーレザーに白のステッチ、ホワイトソール――そのすべてに、恋をするように夢中だった。
店頭では「ボートシューズ」や「マリンシューズ」と書かれていたけれど、
僕にとっては、この靴を初めて知った雑誌に載っていた「デッキシューズ」という呼び方が、
どこか固有名詞のように胸に刻まれていた。
またあるときには、昭彦の家に立ち寄り、涼しい部屋で音楽を聴きながら時間をつぶした。
来年は受験に向けて何かと慌ただしくなるだろう。
その中でどうやってこういう時間を確保するか――二人で悪だくみのように語り合った。
そして、そんな時に限って詩織に聞かれてしまい、さらにいじられるというのが「お約束」の展開になっていた。
それから、詩織のちょっかいはこれまで以上に増えていった。
前と同じように軽口を叩きながらも、その距離の詰め方がどこか違っていた。
以前から、僕の背中にもたれかかって僕をドギマギさせることは度々あった。
けれど最近は、後ろから不意に肩を叩いたり、わざと近づいて袖を引っ張ったり、
ときには首に両腕を回してくることさえあった。
笑って追い払うふりをしたが、手の力は自然と抜けてしまった。
耳にかかる吐息が近くて、冗談の延長線にあるはずのその距離が、かえって僕を縛るように感じられた。
笑いながらの無邪気な仕草なのに、触れた腕の柔らかさや、
すれ違いざまにふっと絡む視線に、無意識に「女の子」としての影を感じてしまい、僕はどうにも落ち着かなかった。
そして、そんな詩織が近くにいると、沙織はなぜか急によそよそしくなった。
声の調子も硬くなり、視線も合わなくなって、不安が僕の胸を締めつけた。
けれど、ふとした瞬間に、沙織の指先がそっと僕の手に触れる。
周囲に気づかれないように、一瞬だけ重ねられるその温もり。
視線だけで送られる合図に、彼女の想いが確かに伝わってきた。
言葉にならないその小さな仕草に触れるたび、不安は和らぎ、
胸の奥に静かな安堵が広がっていった。
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シーン01-09 姉の帰省
それから一週間ほどしたある日、僕の家に沙織から電話があった。
「ねぇ、正也くん。ちょっと遠出せえへん?」
沙織は、いつもより少しだけ弾んだ声で訊いてきた。
行き先は、家から二時間あまりかかる異国情緒の漂う港町――神戸。
相談の末、八月の最後の週に出かける約束をした。
その神戸へ足を運ぶのは、小学生の頃、家族で出掛けて以来だった。
港巡りの船から見上げるような貨物船に驚き、
突然視界に入ったドックの黒い潜水艦に胸を躍らせた。
父が「正也、あそこ! 潜水艦や!」と弾んだ声を上げたことを、今でも鮮明に覚えていた。
母と姉も、時々かかる波しぶきに歓声を上げて楽しそうに笑っていた。
しばらく、そんな記憶の海に想いを漂わせていると、玄関のチャイムが来客を告げた。
「はーい」
階下に降りて声をかけると──。
「正也、あかん。暑い! はよ開けて!」
よく知った女性の声だった。
姉の正江が、半年ぶりに帰省してきたのだ。
ドアを開けるなり白い袋を差し出し、
「アイス買うてきてん。一緒に食べよ」と彼女は笑った。
リビングに入ると、クーラーを入れながら「暑い暑い」と、
広く開いたTシャツの胸元をぱたぱたさせた。
正江はちらりと僕を見やり、唇を尖らせて言った。
「お姉ちゃんのナイスバディ見ても、もう驚かんの? つまらへんなあ」
すぐに吹き出して、
「ああ、もう慣れたんか? それとも……別の女の子に慣らされとるとか?」
と、探るように目を細めた。
その声音には冗談と同時に、弟の成長を測るような含みがあった。
思わず、「まだ、見てへん」と返すと、正江は声を立てて笑った。
「自爆やな、完全に。でも、もう弟扱いだけでは済まんかもな」
アイスを食べながら、近況や両親のことを話すうち、正江はふと真顔になった。
「彼女って、どんな子?」
少し間を置いてから、彼女は続けた。
「な、正也が中学から男子校行くって聞いた時、ちょっと心配やったんやで。
口下手で愛想もない子が、ほんまに女の子とうまく付き合えるんかなあって」
僕は、心臓が喉までせり上がるのを感じながら、視線を泳がせた。
正江は小さく息を吸い込み、しばらく僕の表情を窺ってから、穏やかに言った。
「なあ、私の勘やけど――三人のうちのどの子?」
息が止まりそうなほどの衝撃だった。
「一番上のお姉さんは、まだ違う感じやろうし、
一番下は歳は近いけど、私みたいにいじられて終わりそうやしな」
そう言って、笑いを含んだ息を漏らす。
僕は返す言葉も見つけられずにいたが、正江は肩の力を抜いた声で言った。
「ま、色々あると思うけど。上手いこといったらええな。
私もずっと寮生活やったし、えらそうなこと言えるほど経験ないんやけどな」
そう笑い飛ばすと、アイスの袋を片づけながら言った。
「ほな、荷物置いてくるわ。晩御飯は外らしいで」
そう言い残して、正江は自分の部屋に消えていった。
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シーン01-10 夜の語らいと姉のたとえ話
その夜、久しぶりに家族四人で食事に出かけた。
馴染みの店で料理を囲みながら、学校や友人の話をしていると、父がふと木島家の話題を振った。
「そんなにお世話になってるんやったら、また木島さんとこの皆さんを食事にお誘いせんとな」
正江が意味ありげに僕を見て、小さく笑った。
父母は日程の相談を始め、僕は高校に上がった直後の食事会を思い出した。
あのとき、正江は木島姉妹と並んで座り、話が弾んで笑い合っていた。
彼女が三人のことをよく知っているのも、当然のことだった。
──
それから二日、正江は家にいて、友達に会いに行ったり買い物に出かけたりして過ごしていた。
帰ってきた彼女は、一つの紙袋を僕に差し出した。
「明日、寮に戻るわ」
驚いた顔をしていると、彼女は微笑んで言った。
「ちょっと遅いけど、誕生日プレゼント」
「開けてええの?」
頷かれて袋から箱を取り出し、包装を開くと、そこにはネイビーのデッキシューズが入っていた。
「ありがとう、ほんまに嬉しい」
「今度、履いて行ったらええやん」
そう言って、照れくさそうに笑った。
そういえば、あれから問いつめられて、沙織さんと神戸に行くことを話してしまっていたのだった。
「お返しは、稼ぐようになったらシャネルとかエルメスあたりでええで」
吹き出すように笑いながら、正江は続けた。
「気にせんでええねん。正也は、たった一人の弟なんやから」
──
その夜、寝支度をしていると、正江が布団を抱えて僕の部屋に入ってきた。
「ここクーラーあるやろ。蒸すから、今日はここで寝させて」
ベッドの横に布団を並べ、灯りを消して横になると、暗闇の中で声がした。
「正也、起きてる?」
「うん」
「枕並べるなんて、なかなかないやろ。ちょっと話そか」
正江は、病棟での仕事のことを語り出した。
「うちの病棟はグループごとに患者さんを担当するんやけど、
大人しい人もおれば、わがままばっかり言う人もおる。
話の合う人もおれば、一言も口きいてくれへん人もな。
できれば楽な人ばっかり受け持ちたいけど、当番やからそうもいかん」
声は穏やかだったが、そこには揺るぎない芯があった。
「回復して退院していく人もおれば、家に帰れんままの人もおる。
その中で、どうしても心に残る人も出てくるんや。
でもな、その人ばっかり看るわけにはいかへん。
せやから、どんな人でも受け持ったその日には、できる限りのことをしてあげようって決めてる。
後で『こうしたら良かった』なんて思いたないからな」
僕は黙って聞いていた。
淡々とした口調の奥に、仕事に誇りを持つ姉の姿が重なって、胸の奥が熱くなるのを覚えた。
「正也」
「何?」
「人との出会いも一緒やと思うねん」
少し間をおいて、正江は続けた。
「今は一人しか見えてへんかもしらんけど、これから先、色んな子に出会う。
そのとき、どの子が一番やなんて順番では決められへん。
せやから――目の前の子が望んでることなら、その瞬間にできる限りのことをしてあげたらええ」
一呼吸おいて、正江はぽつりと呟いた。
「その時が来たら、わかるわ」
暗闇に沈むような声が、胸の奥に静かに広がっていった。
沙織さんの笑顔、詩織の視線、香織さんの落ち着いた眼差し――
どれもが浮かび、答えを持てない自分の未熟さに、不安が静かに痛んだ。
それでも、正江の言葉は確かな重みを残していた。
──
「なあ、正也」
「うん?」
「……なんで長慶庵の『うな丼の松』みたいな子とデートできるんや?」
突拍子もない一言に、僕は思わず息を呑んだ。
「なんや、それ?」
「ほら、香織ちゃんはちらし寿司の特上、沙織ちゃんはうな丼の松、詩織ちゃんは天丼の松や。
そこに、きつねうどんクラスの正也が割り込んでるんやから、不思議やなって」
冗談めかしていながら、その眼差しは、暗闇の気配の中で僕の心を探っているようだった。
「さっきはええ話してくれたのに」
「話の締めにはオチもいるやろ。……ほな、もう一つだけ教えといたる」
正江は少し笑って続けた。
「きつねうどんはな、最初に甘いお揚げの汁をだしに溶かす。
だしをすすって、お揚げをかじって、うどんをひとすすり。
半分まで来たら七味を振って、最後まで味を変えて楽しむ。
――それが一番うまい食べ方やって、長慶庵のおっちゃんが言うとった。
焦って飲み干したら、うまさは残らん。
順番を知るだけで、人も恋も味が変わる」
「はあ?」
くだらないのに、なぜか胸に響いた。
笑いがこみ上げ、涙が滲むほどだった。
「姉ちゃん……」
「ん?」
「ほんまに、最高や」
「それで十分や。……明日、寮に戻る前に、長慶庵できつねうどん食べよな」
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