第一章 違和感という予兆 第三話

※R15相当:本作品には、性的接触および暴力的な回想を含みます。

直接的な描写ではなく、情感と心理を中心に構成されています。

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シーン01-05 木島家、午後の予兆


誕生日から数日後の日曜日だった。

僕はいつものように、昭彦の部屋に遊びに来ていた。


昭彦の両親は夜まで外出しており、家には三人の姉たちだけが残っていた。


午後の部屋には、スピーカーから流れる音楽がゆるやかに満ちていた。

窓の外では真夏の陽射しがじりじりとアスファルトを焼き、蝉の声が途切れることなく重なっていた。


僕たちはレコードジャケットを手に取り、どうでもいいことを言い合って笑っていた。


そのとき、ふいにドアが開き、詩織が顔をのぞかせた。


「正也、誕生日もう過ぎたんやろ? おめでと」

「ありがとう」


僕が答えると、詩織は唇の端を上げて、どこか挑むように続けた。

「これで私と同い年や。なんか変な感じやな」


そこには、いつものように僕に触れることを意識して抑えている気配があり、

自然な言葉の中に、隠しきれない不自然さがあった。


その一言に、妙な緊張を覚えた。


すると、リビングで本を読んでいた沙織が顔を上げ、静かに言葉を重ねた。

「ええなあ。もし私の誕生日が正也くんより後やったら、年の差がちょっと縮まってたのにな」


沙織の声は穏やかだったが、わずかな甘やかさを帯びていた。

詩織と一瞬、視線が交わり、火花のようなものが、散った気がした。


そのとき、台所から顔を覗かせた香織が、わざと呆れたように言った。

「私の前で、ようもまあ年の話できるなあ」


プレッシャーをかけるような響きをまとわせておいて、香織はすぐに笑みを浮かべ、肩をすくめた。

「まあ、正也くんの誕生日やし、しゃあないか」


その軽やかな笑いに、場の空気はいったん和らいだように思えた。


しかし、僕の胸には、居心地の悪さと、言葉にできないざわめきが残っていた。


一息ついたところで時計を見やると、思った以上に時間が過ぎていた。

そろそろ帰ろうと思い、僕は腰を上げた。


「ほな、帰るわ」

「うん、またな」



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シーン01-06 夕暮れの路地、揺らぎの予兆


木島家の両親はまだ外出中で、

家には姉妹と昭彦だけが残っていた。


「帰ります。いつもお邪魔してすいません」


そう頭を下げると、香織が手を止めて微笑んだ。

「またな。今度はご飯食べていってや」


詩織は鉛筆を転がしながら、一言だけ呟いた。

「……おつかれ」


その後、沙織が立ち上がり、やわらかく笑った。

「私も駅の方に用事があるねん。……一緒に行こか」


その言葉に、詩織の視線が一瞬だけこちらを向いた。

すぐにノートへ戻ったが、その一瞬の揺れは、僕の胸に残った。


目配せひとつで、家の中の力学がわずかに傾くのがわかった。

香織もちらりとこちらを見て微笑むと、

何事もなかったように包丁を握り直した。


沙織と並んで玄関を出たところで、

彼女は僕のTシャツについた小さなホコリを、指先でそっと払った。


ただそれだけのことに、胸の奥で小さな鐘が鳴った気がした。


耳の横でまとめた髪を、べっ甲調のバレッタが留めていた。

夕方の光を受け、艶やかに揺れた。


外の空気は昼の名残を抱え、

蝉の声が夕暮れを包んでいた。


──


僕と沙織は街路を歩きながら、

とりとめのない会話を交わしていた。


その穏やかさの裏に、微かな緊張が潜んでいた。


歩くたびに肩が触れそうになり、

そのたびに息の調子が少し乱れた。


沙織の頬に淡い朱が灯り、

指先が迷うように空気を撫でた。


「内川くんって、彼女とかおらへんの?」


その問いに、僕は一瞬言葉に詰まった。

心の底で小さな波が立った。


「い、いいえ」


小さな声で答えると、

沙織はほんのわずかに息をついたように見えたが、

すぐに微笑んだ。


その笑みには、安堵と、かすかな期待が混じり合っていた。


「そうなん。意外やなぁ。もてるかと思とった」


軽く笑いながらも、彼女の視線は横に逃げた。

けれどすぐに、何かを確かめるように僕を見つめ直した。


その瞳には、ためらいと焦がれるような光が入り混じっていた。


「あのな、内川くん。年上の女のことって、どない思う?」


女性ではなく「女」と言われたことに、心が大きく揺れた。

普段の穏やかな会話を断ち切るように、

その問いは胸の奥まで響いた。


身近でありながら、同じくらい遠くに感じられる――そんな距離感。


「年上」という言葉は本来、距離を隔てるものだった。

けれど今の僕には、その響きさえもが

大人の美しさの一部のように感じられた。


甘い痛みが胸の奥を撫でた。


「今まで考えたことなかったけど……

 その人がええなと思えたら、年のことは関係ないと思う」


そう答えると、沙織は微笑みを深め、

僕の目をしっかりと見返してきた。


互いの鼓動が響き合うような静寂の中、

僕たちは夕闇の迫る路地へ、一歩足を踏み入れた。



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シーン01-07 路地の口づけ、駅前の約束


路地に入ると、湿った土の匂いと夕暮れの光が混ざり合っていた。

日差しの名残と彼女の気配が、同じ温度で僕を包んだ。


「なあ、ちょっとだけ、こっち来てくれへん?」


微かに震える声だった。


沙織は立ち止まると、僕の肩にそっと手を置き、

もう一方の手で頬を包み込んだ。


その指先の震えが、肌越しに伝わってきた。


「内川くん、キスしたことある?」


僕は首を横に振った。

言葉が出なかった。否定の動きが、精一杯だった。


沙織は一瞬目を見開き、やがてやさしく微笑んだ。

空気がさらに濃密になるのを感じた。


沙織が耳元に唇を寄せ、吐息混じりに囁いた。

「私な、自分からこんなことするの、初めてや」


その震える声は、僕を選んだ証として胸に深く刻まれた。

耳をかすめた吐息に、背筋がぞくりと震えた。


やがて、静かな時の流れの中で、

彼女の唇が僕の唇に触れた。


その瞬間、蝉の声も夕暮れの匂いも、世界から消えた。

世界が静止し、唇の柔らかさと、鼓動の音だけが残った。


緊張も不安も、すべてが白い光に溶けていった。


唇が離れた瞬間、蝉の声がまた耳に戻ってきた。

鳴き声は同じなのに、世界の音階が半音ずれて聴こえた。


沙織はしばらく僕を見つめ、それから視線を逸らして歩き出した。

僕も追いかけるように彼女に並んだ。


路地を抜けると、街のざわめきが近づいてきた。


夕方の駅前は、買い物袋を下げた人や、

帰宅を急ぐ学生たちで賑わっていた。


ネオンの灯りが一つ、また一つと点き始め、

昼の名残に混じって夜の気配が忍び寄っていた。


沙織はロータリーのベンチを指さした。

「ちょっと座ろか」


二人で並んで腰を下ろすと、

さっきまでの路地の静けさとは違う喧騒が、遠くでざわめいていた。


沙織はショルダーバッグの肩紐をいじりながら、視線を伏せた。

小さく息を整えてから、言葉をほどくように話し出した。


「私な、大学に入って初めて付き合った人がいたんよ。

でもその人は、自分の気持ちばかりで、

私のことなんて全然考えてくれへん人やった」


沙織の声は少し沈んでいた。

僕は何も言えず、ただその言葉に耳を傾けた。


「自分の欲求ばっかり押し付けられて……。

せやからかな、もう誰かに振り回されるのは嫌やなって思ってた」


彼女の長いまつ毛が影をつくり、

沈黙が胸を締めつけた。


沙織は顔を上げ、すがるような瞳で僕を見た。


「……あんな、内川くんとおると、なんか落ち着くねん。

せやから、内川くん――いや、正也くんに……寄り添うてみたい。

……ほんまに、そう思ってるんよ」


言い終えた沙織は、少し頬を染めて微笑んだ。

けれど、その笑顔の端には、隠しきれない脆さがあった。


「……でもな、年上の私が、こんな気持ちを抱いてもええんかなって……

時々、不安になるねん」


そう言って、沙織は僕の手にそっと手を重ねた。

体の中心に灯がともったが、同時に静かな迷いが滲んだ。


彼女の想いが嬉しかった反面、

僕は彼女が言うように、誰かの気持ちを支えられるほど強くはない。


「……沙織さん、僕にはまだ余裕なんてあらへん。

いつも誰かに助けてもらってばっかりで。

さっきのキスかて、沙織さんが誘ってくれんかったら何もできへんかった」


僕は俯いた。

自分の不甲斐なさに、情けなさを覚えたからだ。


しかし、沙織の手は離れず、優しく僕の手を包み込んでいた。


言葉が、降りてきた。

――踏み出さなければ、何も変わらない。


僕は思い切って、沙織の目を見つめた。


「……でも、沙織さんと一緒にいたいって気持ちは、間違いあらへん。

年のこと、ちょっとは気になるんかもしれん。

けどそれは――大人になりきれんで、追いつけへんかもしれんっていう不安やねん。

それでも、一緒にいたい……今はそう思てる……」


僕の言葉に、沙織はしばらく黙って僕を見つめていた。

やがて、かすかな声で呟いた。


「……ありがとう」


その声は小さかったが、確かに僕の胸に届いた。


沙織は静かに微笑み、ほんの少しだけ目元を潤ませた。

「……この続きは、また今度にしよか」


そう言うと、彼女は周りを素早く見回し、

涼やかな風が通り抜けるように、短いキスを僕に残した。


彼女はすぐに立ち上がり、束ねた髪を揺らして小さく手を振ると、

その場を離れていった。


僕はその余韻に取り残され、

しばらく動けずにいた。

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