第一章 違和感という予兆 第一話
※R15相当:本作品には、性的接触および暴力的な回想を含みます。
直接的な描写ではなく、情感と心理を中心に構成されています。
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シーン01-00 誕生日のプロローグ
僕の名は、内川正也(うちかわまさや)。
一九七〇年代が半ばを過ぎた八月五日。
僕は十七回目の誕生日を迎えた。
朝から、蝉の声が途切れることなく続いていた。
まだ振り返るほどの人生ではない。
それでも、気づけば振り返らずにいられない時間が積み重なっていた。
手元にはアルバムがあった。
ページをめくるたびに、知らないはずなのに――確かに自分だとわかる「誰か」がそこにいた。
生まれたばかりの頃から三、四歳の頃までの写真には、記憶がなかった。
だからそこに写る幼い僕の姿は、どこか他人の人生の一部を覗き込んでいるような気がした。
それでも、その写真の中には見覚えのある顔があった。
父、母、姉、親戚、ご近所の人たち。
だから――これは確かに僕の写真なのだと、思うしかなかった。
五歳の頃からは、ぼんやりと記憶の風景と写真の風景が重なりはじめた。
そして小学校――。
あれ?
何かが抜け落ちていた。
小学校に上がる前の季節。
金木犀の香りが漂い、川岸には彼岸花が咲いていた。
そこに、誰かがいた気がした。
ときどき見る夢の光景と重なるような気もしたが、僕にはその夢をうまく捕まえることができなかった。
何か、形のあるものを確かめたくて――。
表紙の角がすり切れた、横長のアルバムを開いた。
小学校の卒業アルバムだった。
アルバムを開くと、僕が探すのはいつも――ただ一人だけだった。
佐波和代(さわ かずよ)。
小学校五年、六年の同級生で、いわゆる初恋の相手だった。
彼女はよく喋り、よく笑い、すぐ拗ねて、そしてまたすぐ笑顔に戻った。
アルバムの中の彼女も笑っていた。
笑う時の口元は、口角がきれいに上がり、絵に描いたような曲線を浮かべていた。
和代と同じクラスだった二年間。
学期ごとに席替えがあったが、隣の席になったのは三回あった。
それ以外も前後だったり、通路を挟んで隣だったり――ずっと和代がそばにいた。
それが偶然だとしても、何かがあるように思えた。
遠足や社会科見学のときも、バスの席が離れているはずなのに、気づけばいつの間にか和代が隣にいた。
運動会のフォークダンスも和代とペアだった。
六年生の時には模範演技グループに選ばれた。
ペアを組んで連日の練習、そして二人だけのデュエットパート――ずっと和代がそこにいた。
あまりに当たり前のことだったので、僕はただ、それを受け入れているだけだった。
和代がいる。
それが、僕にとっての「当たり前」だった。
思い返せば、その当たり前が永遠に続くものだと信じていた。
彼女の涙を見たのは、三度あった。
一度目は掃除の時間だった。
バケツにつまずいて転び、頭から水をかぶり、周りからはやし立てられた時。
タオルが手元になかったので、僕は咄嗟に着ていたトレーナーを脱いで差し出した。
守れなかったから、助けたかった。
子どもながらに、そんな気持ちだったのをうっすらと覚えている。
「これ使い」
「……ありがとう」
その後どうなったかは覚えていない。
けれど、その時にはもう――僕は彼女が好きだった。
二度目と三度目は卒業式の日だった。
式が終わり、感極まった女生徒たちが泣き出した。
その中に彼女もいた。
僕はその姿に見とれていた。
彼女の涙は、その中の誰よりも綺麗だと思った。
そして、三度目。
みんなで卒業前にサイン帳を交換するのが流行っていた。
卒業式を終えた教室は、まるでサイン交換会のようだった。
黒板にはクラス全員で書いた担任の先生へのメッセージが、白、赤、青、黄のチョークで埋め尽くされ、粉っぽい香りが漂っていた。
その時、和代が僕のところに来て言った。
「内川くんとは最後にサイン交換したいねん。学校の校庭のプラタナスの木の下で待ち合わせしよ。」
僕たちはプラタナスの木の下で待ち合わせた。
みんながそれぞれ学校を去っていく姿を、少し離れたところから二人で見つめていた。
「今日で小学校、終わりなんやな」
和代が目を伏せながら言った。
「家近いし、また会えるんちゃうか」
僕は無邪気だった。
そして、何もしなくても、いつの間にか和代がそばにいてくれる――そんな日々が続くと思っていた。
二人とも中学受験をして、大阪にある、それぞれ女子校と男子校に通うことになっていた。
すぐそばを通りながら、すれ違い続けることになるなんて――その時は、思いもしなかった。
サインを交換した。
僕が書いたのはこうだった。
『この先もどこかで会うて、ずっと一緒におるかもしれん……なんて言うてみたりして 内川正也』
和代が返してくれたサイン帳には、こう書いてあった。
『私ら同じ中学行ってたら、もうずっと一緒やったかもしれへん……なんて言うてみたりして かずよ』
僕に手渡した時、和代の目から大粒の涙がこぼれた。
どうしていいか分からなかった僕は、ただこう訊くしかなかった。
「どうしたん?」
和代は一瞬、僕を睨むように見つめて、やわらかく微笑んで言った。
「あほ」
そして微かな声が聞こえた。
「待ってるな……」
その声が、そっと吹き抜けた春の気配に溶けていった。
彼女の涙の理由を考えることもなく、「待ってるな……」の重みを理解できないまま、僕はただ、春の風の中で戸惑うことしかできなかった。
好きだという気持ちは分かっていても、その感情がどこに向かうものなのかを知らなかった。
あの年齢では、女の子の方がずっと大人だった。
おそらく彼女は、そのことを知っていたのだろう。
季節に関係なく、なぜか、彼女には金木犀と彼岸花の気配が似合っていた。
――あれから、和代とは会っていない。
当たり前だったことの喪失。
そのことを受け止めていながら、受け入れることに抗う心があった。
もしかしたら、そのズレこそが、僕の心を支えていたのかもしれなかった。
取り戻したかった。
それが、恋にならなかった恋だったと知った。
その時には、あれから五年目の夏になっていた。
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シーン01-01 違和感の朝、温もりの不在
奈良市で十七歳の誕生日を迎えた夏の日だった。
僕は、まだ自分の中に馴染まない感覚を抱えていた。
新しくおろした服の袖を通すと、肘の内側で布がこすれ、身体の動きと微妙に噛み合わない感覚だった。
まるで腕だけが先に大人になったようだった。
それは、何か新しいものがすぐそこまで来ている予兆のようにも思えた。
子どもの頃から、有名な寺社や名所旧跡に囲まれて育った。
大きな伽藍の屋根や石畳の参道は日常の一部で、寺の鐘の音は遠くの時報のように耳に馴染んでいた。
近くの公園では鹿が群れをなし、放課後の道すがらにその姿を見るのも当たり前だった。
蝉の声に混じって、街角のスピーカーや喫茶店のジュークボックスからは、荒井由実の曲が聴こえていた。
駅前のレコード店には彼女のアルバムが並び、流行を映すように若い女性客が足を止めていた。
けれど、僕にとってレコード店といえば、友人の木島昭彦(きじま あきひこ)と一緒に洋楽の棚へ直行する場所だった。
昭彦とは中学二年の頃から親しくなり、クイーンやレッド・ツェッペリンの新譜を前に熱く語り合う仲だった。
僕と昭彦は大阪にある男子校に通っていた。
キリスト教系の進学校で、中高一貫。
二人とも中学からそこに通い、同じ教室で過ごしてきた。
だから音楽の話も学校の愚痴も、互いに遠慮なく言い合える関係になっていた。
ユーミンが時代の空気だったとすれば、僕らの会話はいつも、歌うようなギターリフと弾むベースラインの話題で満ちていた。
──
夏休みに入ってからは、家も近かった昭彦の部屋に入り浸ることも多くなっていた。
僕の家は、父が仕事で全国を飛び回っていて、月に数日しか帰ってこなかった。
母も同じ会社に勤めていて出張が多く、父と同様に家を空けることが珍しかった。
二十四歳の姉は看護師で寮暮らし。
長期休暇を含めても、年に数回しか帰ってこなかった。
食事や家事は、近くに住む母の姉――伯母が面倒を見てくれていた。
大きな不自由はなかったけれど、食卓に並ぶ料理からは、どこか温もりが抜け落ちているように感じることもあった。
だからこそ、昭彦の家――いつも誰かがいて、笑い声が絶えない空気が心地よく、つい長居をしてしまった。
誰かの足音と、台所の湯気が、僕には「家の温度」の単位だった。
昭彦の家は、両親と三人の姉、そして昭彦を合わせた六人家族だった。
中学の頃から僕は木島家に出入りするようになり、みんなともすっかり打ち解けていた。
女性が多い家だったので、さすがに泊まりがけはなかったが、折に触れて食事をごちそうになることも度々あった。
昭彦は姉たちにいじられながらも可愛がられていて、僕もその和やかな雰囲気に居心地の良さを感じていた。
昭彦には三人の姉がいた。
長女の香織(かおり)、次女の沙織(さおり)、そして三女の詩織(しおり)だった。
三人が並ぶと、三色の花が咲き競うような鮮やかさを感じた。
そして、テレビや雑誌で笑顔を振りまく虚ろなアイドルや女優と違って、そこには香りと温もりと手触りがあった。
彼女たちは、男子校に通う僕にとって、同級生という身近な異性がいない分、手が届きそうで届かない存在だった。
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