第十四話 中条流平法

 此奴に訊いたのが間違いだった。


 中条流平法の祖は中条兵庫助長秀という。中条家は鎌倉御家人八田知家の猶子藤次家長を祖とし、藤原北家道兼流を称する。源頼朝公に仕えて各地を転戦した藤次家長は、武事も然る事乍ら文臣としても勝れ、執権北条泰時が設置した評定衆の最初の十一人の内の一人であり、御成敗式目の策定にも携わった。その跡は嫡男次郎家平が継ぎ、家平の跡は弟三郎光家、四郎光宗が相継ぎ、その跡を家平の子弥藤次頼平が継いで、其の跡は頼平の次男景長が継いだ。出羽守景長は豪勇で知られ、足利尊氏に従い三河代官として加茂郡挙母郷を拠点として建武二年の矢作川合戦で負傷し四肢が不如意になるまで戦うた。兵庫助長秀は其の出羽守景長の嫡男で、伊賀守護、恩賞方、寺社造営奉行を歴任し、評定衆にも名を連ねた文臣である。足利義満の兵法指南を務めてはいたが、誰と戦い誰を倒したという兵法者らしい話は伝わっていない。念流の祖念阿弥慈恩に兵法を学んだとされるが、此は年代が合わず疑わしい。恐らく曾孫の判官(刑部大輔)満平であろう。其の跡は満平の早世した兄満秀の遺児左馬助持保が継いで、この頃に念流の手が中条流に加わったようだ。中条流は兵法ではなく平法を称し、『中条流平法口訣』には「平法とは平の字たひらか又はひとしと読んで夢想剣に通ずる也。此の心何といふなれば平らかに一生事なきを以って第一とする也。戦を好むは道にあらず。止事やむことを得ず時の太刀の手たるべき也。この教えを知らずして此手このてにほこらば命を捨る本たるべし」とある。即ち中条兵庫助長秀は自らが唱える通りに「平らかに一生事なきを」得た人であった。

 然し中条兵庫助長秀こそ「平らかに一生事なきを」終えられたが、中条家としては孫の詮秀が六代将軍足利義教の忌諱に触れて所領の三河国加茂郡高橋荘及び尾張国海東郡を没収された後に自害させられ、家督を継いでいた判官満平も京都の邸宅を没収され高野山に遁世している。永享十二年の結城合戦の為に高橋荘を返還されたこと、満秀の遺児判官持家が首九つを取る武功を立てて将軍より感状を下される旨が報されたこと、また嘉吉の乱で公方義教が死んだことで義教に勘気を蒙っていた者全てが赦免されたことで、中条家は再び奉公衆に名を連ねることになるが、応仁の乱の後は震わず、永禄四年水無月、遂に加茂郡挙母郷を失うて滅亡している。中々「平らか」とはいかなかった。

 左馬助持保には二人の高弟がいた。第一の加藤行景という人は度支員外郎…つまり主計寮の定員外の役人で、この筋は相応しい門弟がおらず断絶している。第二の甲斐美濃守将久…所謂美濃入道常治は、幼少の当主が続いた越前尾張遠江守護斯波武衛家の執事、越前遠江守護代とし被官人等評定を取り仕切り、国政を恣にしたことで知られる。遂に守護方と争うに至る頃、当人は京都に在って病を得て臥せっていた為、越前では嫡男八郎左衛門尉敏光が守護代方を率いた。この所謂「長禄合戦」は守護代方が勝利したが、甲斐美濃入道は勝報を聞くことなく病没している。甲斐美濃入道常治には甲斐八郎左衛門尉敏光、朝倉孫右衛門尉教景、大橋勘解由左衛門高能という三人の高弟があって、甲斐八郎左衛門は父の名代として長禄合戦に勝利したが、守護代方として共に戦うた相弟子の朝倉孫右衛門尉教景…つまり後の弾正左衛門尉孝景、即ち朝倉中興の祖となった朝倉七代当主英林宗雄居士に追い落とされ、その地位を失うた。朝倉英林孝景は齢二十四にして父家景の死を受けて祖父教景(心月宗覚居士)の補佐のもと朝倉氏惣領となったが、若くして家督を相続した為従わぬ一門が多くいた。然し長禄合戦に於いて守護方に付いた叔父朝倉(鳥羽)豊後守将景、朝倉(阿波賀)新蔵人良景などを討ち果たし、惣領の地位を確かにすることが出来た。また甲斐美濃入道が歿したことで朝倉家の地位が高まり台頭の切掛を掴んだ。応仁の乱では主人斯波武衛義廉に従い甲斐八郎左衛門と共に西方に与したものの、一代限りながら越前守護分となる密約を公方より得て東方に寝返り遂に越前国主になり仰せた。甲斐八郎左衛門は巻き返しを図るも英林孝景の跡を継いだ氏景に敗れて加賀に逃れ没落している。以上のようなことで中条流の平法は大橋勘解由左衛門が継いだ。

 大橋勘解由左衛門高能の出自はよく解らない。名から察するに斯波武衛家の連枝かも知れない。甲斐美濃入道らの主人であった斯波武衛家八代当主義郷の室が尾張津島社家大橋家より嫁いでいた。また斯波武衛家の京都本邸が勘解由小路にあったことから斯波武衛家惣領を「勘解由小路殿」と呼んでいた。斯波武衛家惣領の官途が左衛門佐であった。

 中条兵庫助長秀から同左馬助持保、そして甲斐美濃入道が京都に住うたので、中条流も代々京都で伝えられ、恐らくは大橋勘解由左衛門も京都に住んでいた筈だが、何時頃からか越前に移ったようである。故に中条流も越前に移った。大橋勘解由左衛門には式部少輔を称する嫡子があったが早世、弟子の山崎右京亮昌巖が跡を継いだ。

 越前には朝倉年寄衆に列する山崎長門守家があるが、此方は藤原氏流であり、山崎右京亮家は本佐々木愛智氏流であるから全くの別系である。越前斯波家「鞍谷殿」に執事として仕え、国衙領新庄保に在したことから新庄山崎家と呼ばれる。山崎右京亮昌巖は鞍谷殿斯波四郎三郎政綿に仕えたが文明五一四七三年の樋山の合戦で討死、子の中務も二人の幼子を残して若死にしていた為、冨田九郞左衛門長家(左金吾慈源居士)が中条流の道統を継いだ。

 冨田九郞左衛門長家入道慈源居士は伊勢平氏という。越前に生れ同国宇坂庄浄教寺に居住した。朝倉家に請われて度々出陣し一方の大将を務めたが生涯仕官せず、新庄山崎家に寄宿して齢五十の頃より中条流を学び始めて九年没念没頭して山崎右京亮の没後に大橋勘解由左衛門より印可を得た。冨田慈源居士は山崎右京亮昌巖の子中務丞の遺児右京亮景公と河内守景隆を育て、永正五一五〇八年水無月に印可を授けて中上流宗家の道統を二人に返した後の翌年卯月二十四日に病没した。この時慈源は齢九十を過ぎていた。慈源には治部左衛門景重という子、九郞左衛門景恒という孫があったが、何方どちらも早くに亡くなった為に曾孫の与五郎景家が冨田家を継ぐことになった。然し慈源が歿した時に与五郎景家は年僅か十九、平法未熟であった為に山崎右京亮同河内守兄弟に付いて修行し、天文十八一五四九年に至って漸く印可を得られた。この時山崎兄弟は共に齢八十に達しており、予め裏判をした目録を朝倉左金吾宗滴居士(太郎左衛門尉教景)に預けていた。与五郎景家改め治部左衛門景家は宗滴居士を介して目録を授かっている。永禄四一五六一年弥生十八日に歿し、三男与五郎景政が家督と道統を継いだ。


(…やっとか)


 永禄四一五六一年に存命する主立った中条流平法の門人は以下の通りである。

 先づ中条流嫡流新庄山崎家の山崎右京亮景征と同中務丞景邦。右京亮景征は山崎右京亮景公の子で半醒軒宗鑑半井明孝の妹を娶って一男あり名を又七郎景昌という。中務丞景邦は山崎中務丞景隆の子で一子あり弥三兵衛景重という。

 印牧弥次郎改め助右衛門吉広は慈源居士の直弟子である。印牧氏は英林居士以来の譜代内衆で、年寄家老衆の一家として朝倉家中で重きを成した。初代新右衛門尉広次は文明七一四七五年の大山城夜討ちで功名を馳せ、膂力絶人、勇功蓋國と讃えられた一方、青木氏とともに府中奉行職を長く務める文臣でもあった。三子あり、長男が惣領として府中奉行職を継いだ新右衛門尉美次、次男が宇野家に養子入した新蔵人景久、三男が助右衛門尉吉広である。助右衛門尉吉広は当年齢九十にもなるが今以て矍鑠とし、二子あり長子弥次郎と次子弥三郎も高齢ながら未だ壮健で朝倉左衛門督義景の兵法指南を仰せ付かっている。

 然して阿波賀小三郎景堅。阿波賀家は朝倉二代当主高景の次男但馬守茂景を祖とする朝倉同名衆の一家で、長禄合戦の折に主家に叛いて一度は滅びたが、新蔵人景忠が名跡を継いで再興した。新蔵人景忠は冨田慈源居士に学んで奥秘に達し釣竿斎と号して一流を立て此を家伝とした。小三郎景堅は其の孫である。小三郎景堅には三男あり、長男藤四郎景智、次男藤八郎、三男藤十郎が次代を担う。


(…いらいら)


 昨年亡くなった冨田治部左衛門景家には長男九郞左衛門郷家、次男五郎右衛門隆家、三男与五郎政家、末弟与吉郎長家の四男があったが、九郞左衛門郷家は早世し、五郎右衛門隆家は両目、与吉郎長家は右目を盲いて隠居した。

 冨田五郎右衛門隆家は天下に知られた名人である。眼疾故に家禄を弟与五郎政家に譲って薙髪し盛源と号した。列国を遠遊して世に名高く昨年文月二十三日には美濃にて同国主一色治部大輔義龍の命に因り常陸国鹿島郡香取の梅津兵庫なる新当流の達人と術を比べて優勝し美名を天下に施した。

 詳しく語るには、


(…待て待て)


 永禄三一五六〇年中夏半ば頃に盛源が美濃に遊んだ所、同国では国主の奨励に因り兵法が流行り、国主自身は梅津兵庫を師として新当流を学んでいたという。梅津は冨田盛源濃州に来る由を聞いて「盛源に仕合て中条流の小太刀を見たし。盛源の旅宿に行き所望すべし」と手合わせを望み、弟子は盛源を訪ねて此の事を告げた。然し盛源は「愚僧は兵法未熟なれば貴命に応じ難し。深き望みならば越前に赴かるべし。また中条流には仕合曾てなしと云う」と断った。梅津は此の旨を聞き「我が兵法は関東に隠れなし。三十六人の相弟子共は我が太刀先に及ばざる故、皆弟子に成った。先年当国に来りし時も、吹原大書記、三橋貴伝は随分の師匠と雖も愚が太刀に及ばなかった。盛源も越前にては広言を吐くとも此の梅津には成るべからず。縦い当国の主たりとも仕合に於いては用捨すべからずと云う」と広言した。此を聞き及んだ美濃国主は「哀れ盛源出合えかし」として武藤淡路守と吉原伊豆守を使わせて盛源の旅宿朝倉成就房宅に仕合所望の由を申し送った。盛源は「中条流には仕合なし。その上無益の勝負を嫌う」と承引の気色はなく、両使は帰って国主に申し上げたが、国主は「盛源の所存は尤もなれども梅津の過言は他国迄の嘲りなれば偏に頼みたし」と申す故、両使はまた盛源の許に行き国主の所存を演説した。盛源は「此の上は辞する所にあらず。斯くの如きの勝負は人の怨みを受くる事なれば曾て致さぬ事なれども、国主の命には背き難し」と諒承した。国主は大いに喜び、文月二十三日辰の刻武藤淡路守宅にて仕合うことと相定め、盛源が検使を請うと武藤吉原に検使を申し付けた。梅津は国主の一家大原宅に居たが、其の宵より湯垢離して信心を為した。盛源は其の旨を聞き「心直なれば祈らずとても其の利あり」と述べて平素の通りに過ごした。当日、盛源は成就房方より供人四五人を召し連れて武藤淡路守宅に行き、売買黒木の薪物の中から如何にも短い一尺二三寸の割り木を見出して元を皮で巻いて木刀とした。梅津は大原同道にて弟子数十人を伴い現れた。長三尺四五寸の木刀を八角に削り、錦の袋に入れて弟子に持たせていた。器量骨柄人に勝れて見えたので、必定梅津が勝つべしと皆が口々に云った。梅津は検使に「願わくは白刃にて仕りたし」と云い、検使が盛源に告げると盛源は「彼の仁は白刃にてせらるとも愚僧は此の木刀にてよし」と答えたので、梅津も木刀を使うことになった。梅津は空色の小袖木綿袴にて大木刀を右脇に構えた。其の気色は龍が雲を引き虎が風に向うが如く眼は電光に似ていた。盛源は柳色の小袖半袴を着て立ち上がり、板縁より歩いて行く。彼の割り木の木刀を掲げて優然と立つ風情は宛ら牡丹花下の睡猫というべきであった。其の時盛源が梅津に言葉を掛けて進んで勝負を為した。するとどうしたことか、梅津は小鬢より二の腕まで打たれ、頭を打ち切られ、身体悉くが朱に染まった。梅津は木刀を取り直し振り上げて打つが、盛源は騒がず梅津の右腕を打つ。梅津は盛源の前に倒れ、其の手の大木刀が盛源の足許に転がると、盛源は一脚に大木刀を踏み折った。起き上がった梅津は懐中の脇差を抜いて盛源を突こうとしたが、盛源は木刀を振り上げて打ち倒し、漸く検使が間に入った。倒れた梅津は武藤宅にて養生し、大原の旅宿に帰された。盛源は武藤宅に留められ、武藤吉原両人が盛源の木刀と梅津の折れた木刀を国主の御覧に入れ、仕合の様子を委細に申し上げた。国主は甚だ賞美し、末代の物語にと云って割り木の木刀を留め置き、鵝眼万疋、小袖一重を盛源に贈った。然し盛源は「中条流は斯様の勝負禁制なれども国主の命は背き難くての事なれば、御褒美と有りて下さる物は受納なり難し」と申して返納した。使者は再三申したけれども終に受け取らなかった。国主は甚だ盛源の志を感じて対面したい由を申し送ったが、当国に居ては梅津の弟子共が怨みをなすと云って是も辞退し、翌朝越前に帰った。


「長い」

 於菊は遂に不平を述べた。

「…えっ?」

 身振り手振りを交えて上機嫌に喋っていた杉原乱丸は口をぽかっと開けたまま於菊を見た。

「其方の話は長くてくどい。かなめのとこだけでええんや。男がぺらぺらと、みっともないわ」

「然し、姫様が中条流平法について教えよと仰せに御座る」

 杉原乱丸は心外そう眉を顰めて言い返した。

「せやで、姉上が御所望や」

 亀若丸まで姉に逆らう。柔弱でも男児故、仕合の話が面白かったのか。

「あ~あ」

 於菊は偸閑あからさまに退屈そうに体を伸ばし、溜息を吐いた。


 杉原乱丸は亀若丸の御伽小姓である。御伽小姓は幼君の遊び相手であるが、杉原乱丸は亀若丸より九歳も年長の為、遊び相手というより傅役に近い。先日より冨田道場の門人である。斎藤兵部少輔が入門させた。後に亀若丸が通うことになる道場の様子を窺う為である。冨田平尾丸に近付く為の口実とはいえ、父には子離れを促したつもりだった。其れが露ほどにも伝わっていない。更に杉原乱丸は亀若丸が入門した後も道場に居残って亀若丸を守るらしい。全く、御供を連れて何が独り立ちか。於菊はほとほと父に呆れていた。

 それにしても近頃の杉原乱丸は妙に生意気である。以前は於菊に気後れし、何をするにもカチコチに強張っていたのに、この数日でやけに口が軽くなり、ぺらぺらと喋るようになった。少し癪である。

「其方、近頃意気軒昂やの」

 不機嫌を顕したつもりだった。

「然様で御座るか!」

 全く通じなかった。

「褒めとらへんわ」

 乱丸は先日冨田盛源に筋が良いと褒められて棒と抜刀の要諦を教わったと自慢していた。きっと其れで得手に帆を揚げているのだろう。その様子が不愉快だ。

「まぁええわ、好きなだけ喋り」

「然らばっ!」

 杉原乱丸はまた嬉しそうに喋り始めた。


 名を高めて久しいものの、冨田盛源が宗家より印可を得たのは昨年秋のことである。当人が求めなかったからだが、老けて見える盛源も、実は当年以て未だ三十九歳にしかならない。三十八歳の印可は年頃としては遅くはない。宗家は盛源が印可を受けねば長弟与五郎景政に印可を授けられぬと脅したらしい。印可がなければ弟子を取れず、弟子を取れねば父の道統を継げない。だから盛源は仕方なく印可を受け、与五郎景政も無事昨年冬に印可を得ることが出来た。猶、兄九郞左衛門郷家と次弟与吉郎長家は何方も兵法を人に教えてはいたが皆伝に至る迄に辞したので弟子はいないことになっている。したがって盛源乃至与五郎景政が印可を得る迄に入門した門弟は皆治部左衛門景家の弟子であって九郞左衛門郷家、五郎右衛門隆家入道盛源、与五郎政家改め景政、与吉郎長家のいずれの弟子でもなかった。とはいえ治部左衛門景家が印可を得たのは齢五十九の時である。若い頃には軽捷の術を得手としたが、其の術も既に失われてからのことで、故に早々に道場を四兄弟に道場を委ねて治部左衛門景家が弟子を見ることはなかった。その為門弟は入門式でこそ治部左衛門景家と誓紙を交わすものの夫々それぞれ教えを受けた四兄弟の何れかを師と仰ぎ「冨田治部左衛門の弟子」ではなく「冨田の誰々より平法を授かった」などと称した。

 冨田九郞左衛門郷家は自ら平法不器用と申して家を相続せず、子なきまま世を去ったが実は平法に達した人で勝れた弟子を幾人も育てた。特に桜井六郎右衛門尉元忠、長谷川六左衛門尉宗喜、印牧市右衛門通家が傑出した。桜井六郎右衛門元忠は朝倉年寄衆桜井新左衛門尉景道の弟、長谷川六左衛門は大和法貴寺党の裔、印牧市右衛門通家は冨田慈源居士の直弟子印牧助右衛門の曾孫という。九郞左衛門郷家が平法を辞した後、桜井六郎右衛門と長谷川六左衛門が与五郎景政、印牧市右衛門は盛源の指南を受けた。

 冨田五郎右衛門隆家入道盛源は眼疾を患いめしいて家督を辞し、七年の間に三度の廻国した。関久右衛門保重を伴うた二度目の旅で林田与四郎重国を、川崎鑰之助を伴うた三度目の旅で松山源丞と平尾丸なる童子を連れ帰っており、印可を得た後は鷹巣半井久左衛門明雅、印牧市右衛門通家、関久右衛門保重、林田与四郎重国、北村主計助宗勝、川崎鑰之助、松山源丞、平尾丸の八人のみを弟子と認めて門戸を閉じ、長女於松を関久右衛門保重、次女於竹を林田与四郎重国に嫁がせて平尾丸を父治部左衛門景家の養子にするなどしている。鷹巣久左衛門明雅は医家半井家に養子入りした朝倉宗滴居士の子左馬助明宗の子で、関久右衛門保重は伊勢平氏清盛流関氏の一族、林田与四郎重国は肥前有馬氏に属する清和源氏満季流林田氏の一族、北村主計助は越前国今立郡北村郷の国衆、川崎鑰之助は越前牢人川崎新九郎時定の一子、松山源丞は西美濃十八将の一人松山刑部正定の息ということである。

 冨田与五郎景政は昨年冬の印可を以て晴れて冨田道場の主となり、桜井六郎右衛門元忠、長谷川六左衛門宗喜らの指南を引き継いだ。また大圓山心月寺の学問所に就学する谷の子弟を道場に集めて兵法を教えている。冨田の門弟が二千とも三千とも云われる由縁である。谷に住む殆どの子弟は与五郎景政より兵法の手解きを受けている。

 冨田与吉郎長家は治部左衛門景家の妾の子で、大成を期待されたものの疱瘡を患うて片目を失明し、印可を得る前に平法を離れて出仕することなく隠栖した。

 以上の四兄弟に加え、冨田家には平五郎成家という者がいる。冨田治部左衛門景家の弟彦五郎の遺児で治部左衛門景家に養われた。与五郎景政に師事して駿才を示し、年長の長谷川六左衛門、印牧市右衛門に比肩すると称される腕前である。


「これが見聞して参った道場のあらましに御座る」

 喋りに喋った杉原乱丸が漸く長い長い話を終えた。

「…………」

 於菊の冷たい眼差しが杉原乱丸を刺す。

「なんで御座ろうか」

「…………なんか忘れてない?」

 於菊が問う。

「何がで御座ろう」

「色々とお名前上げてたけど、一人どういう御方かわからんのやけど」

「はて、何方で御座ろう」

「セーゲン様?が連れ帰られた平尾丸?という御方」

 於菊は態と語尾を上げ、今の今まで平尾丸という名を知らなかったように訊く。

「ああ、冨田平尾丸……殿に御座るか」

「そう!」

 うっかり返事が大きくなった。冨田平尾丸の話が聞きたいが為に杉原乱丸のつまらない話を長々と聞いていたのだ。仕方ないではないか。

「平尾丸……殿か」

 杉原乱丸は肩を落として溜息を吐いた。

「?」

「?」

 その様子には亀若丸も不思議そうに眼を丸めた。

「どないしたん」

「はぁ~」

 また溜息を吐く。

「あれはなぁ、なんというか…」

「なんや、急に。早う申せ」

 於菊は苛立つが

「う~~~ん…」

 そのまま杉原乱丸は黙り込んでしもうた。

「……もうええわ、去ね去ね」

 埒が明かぬので於菊は手を払うて杉原乱丸を下がらせた。


 結局於菊が冨田道場を訪ねられたのは三国湊から谷に戻って二月ふたつきも経った後のことである。これほど日を費やしたのは亀若丸の身を案じた斎藤兵部少輔が先に杉原乱丸を入門させて道場の様子を窺わせる内に梅雨に入ってしもうたからである。梅雨の間は安居して学問に励むものだ。水溜まりの棒振を踏んで殺生することを避ける為である。然し二月ふたつきもおあずけを食らうとは思わなかった。亀若丸の臆病は間違いなく父親に似たのである。

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今更に何を煩う竹の子のうき節しげきよとて物な思ひそ @PM055767441S

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