姫様編
第十二話 棗庄犬追物
さて同六日早朝、
また免鳥前より雑人共が笠の端を連ねて推し合い動揺する声が夥しく聞こえた。
其の次は朝倉右兵衛尉景隆である。左右の太刀帯と前後の諸侍は綺羅殊更に美々しくして手鑓長刀に金銀を
やや暫くして、紅往紫来歩途狭く、花鬟雲鬢空香ばしく薫い、羅綾の袂を重ね縹の袖は風に
其の次の前場左衛門五郎景當は衣裳を華やかに払い、
国主は仮屋へ入って装束を着る。仮屋の外には家の紋三木瓜の幕を打ち回し、内には磨付の屏風を一双立ててある。馬場方には八町の周りを鑓長刀を持った中間や小者を遣わせて人垣とした。秋の野に尾花の穂が靡く風情に目を驚かせぬ人はいない。其の日の検見は国主である。喚り次ぎは諏訪神助六長廣、また仮屋の内で栂野三郎右衛門尉吉仍が日記をつける。源頼朝公が鎌倉由井の浜で催したという犬追物も是程ではなかっただろう。見物の老若貴賤も生善の胸を叩き千歳を述べる心地で、雲上の天人も讃歎の唇を動かし海中の竜神も随喜の耳を
………などと皆は喜んでいたが、於菊は酷く退屈していた。
父に伴われて二日も掛けて棗庄まで来たものの、ちっとも愉しくない。抑も於菊は女児である。歌や花を好む。犬追物などに興味はない。犬が憐れであるし辺りが犬臭い。また於菊は未だ幼い。当年九歳である。着飾った
其れでも海は悪くなかった。変な臭いであるし、何やら風がベタベタして気持ちが悪いし、強く風が吹くと砂子が舞うし、決して居心地が良いわけではないが、見果てる果てまで空というのが気に入った。
於菊は体が弱い。秋冬春夏の変り目に必ず風邪を引く。故に父は於菊を風にも当たらぬよう大事に育てている。だから於菊は屋敷から殆ど出たことがない。屋敷は城戸ノ内の西岸にあり、背に櫓が立つ山を負うて前にも頂に城が
其れも仮宿から馬場に移るまでのことだった。馬場には主立った家臣の身内の為に見物席が設えられていた。於菊は母と弟と共に其所に押し込められた。押し込め…というのは於菊が思うだけで、充分に広く寛げるように出来ているのだが、於菊にとっては狭く苦しい。折角広い空の下なのに、何故こんな狭い所でじっとしておらねばならぬのか。こっそり抜け出して辺りを歩いてみたい。然し人目が多すぎて其れは叶うまいし、一つ年少の弟…亀若丸に八つ当たりしようにも母の目がある。普段物怖じしてばかりの亀若丸が燥いでいることも気に障った。憤懣遣る方なく於菊は只管退屈した。
於菊は斎藤兵部少輔正遠の息女である。斎藤兵部少輔正遠の父斎藤大納言正義は
鶴若丸が越前に逃れた翌月の
(あー、つまらない)
於菊は到頭馬場から目を背けて外方を向いた。
わー、わー、わー。
外方を向いても馬場を囲む大勢の貴賤が喧しい。海は見えるが人垣の鑓長刀が無粋である。
(つまらない)
溜息を吐いて、ぼんやり遠くを眺めた。
(?)
ふと目に付いた。人混みから少し離れた波打ち際、於菊から一町半程の辺りに幾人かの若衆が集うている。身形からして賤しからぬ武士の子弟だ。年頃は様々だが於菊に歳が近そうな子もいる。どうやら各々見物席から抜け出て集うているようで、五…六…七…八人、九人目が来て揃うたようだ。
(なにしやんねやろ)
若衆は愉しげに戯れ合うていた。
於菊もそろそろ年頃である。人並みに興味がある。況して一乗谷は文芸が盛んである。特に『源氏物語』が好まれ於菊も七つの頃から『源氏物語』を読み聞かせられている。於菊も嫌いではない。逸ることはないものの、光の君のような殿方を待ち望む心がある。あの若衆共の中に光の君はおらぬものだろうかと思うている。
(そう云えば、
虎御前は前波左衛門五郎景當の次女於兎の渾名である。虎の異名を「於菟」という故に虎御前と渾名した。於菊より一つ年嵩の十歳で、先日縁談が纏まったと聞いた。相手は越前国坂井郡河口荘堀江郷の国衆堀江中務丞景忠の跡目殿という。当たり前ながら縁談は親同士が決めたことで、於兎は相手の顔を知らないそうだ。顔も知らぬ相手に嫁ぐのは、果して愉しみなことであろうか、恐ろしいことであろうか。
九歳にもなれば縁談の一つや二つはあるものだが、於菊には未だ縁談らしい縁談は来ない。何故かは解っている。祖父斎藤大納言正義は庶子とはいえ前関白近衛稙家の長子である。そして美濃守護代斎藤持是院家の名跡を継いでいる。斎藤持是院家は彼の持是院妙椿が興した名家だ。更に父が継いだ斎藤兵部少輔の家名も祖の藤原北家利仁流に近い河合斎藤氏のものである。血筋が良すぎ、家格も高く、
(うち、何処に嫁がされんねやろか)
考えると気が重い。出来れば想う人と結ばれたいし、誰かを想いたい。
海上の風が俄に替って激浪漾々として
仮宿に帰った於菊はぼんやりと雨垂れを眺めて物思いに耽ろうとしたが、未だ興奮冷めやらぬ亀若丸が燥いで煩かった。つい引っ叩いてしもうた。泣かせて餘計に煩くなった。
八日は明けから快晴であった。澄み渡る青空である。雲一つ無い。こんな日にまた見物席に押し込められて喧しい群衆に囲まれるなど真っ平だ。於菊は我儘を云うた。
「もっぺん亀さん拝みたい」
亀さんとは亀島の事である。
当然斎藤兵部少輔は難色を示した。今日も犬追物に出仕する斎藤兵部少輔である。愛娘に恰好良い所を見せようと思うていたに違いない。然し於菊は犬が可哀想だという。前世の親かも知れぬと思うと居たたまれぬという。翻意を促した斎藤兵部少輔も、やがては情に絆されて、愛娘の我儘を許すしかなかった。とはいえ於菊は生まれて初めて城戸ノ内の外に出た。越前は国主の威光が隅々まで行き届いている静かな国だが野盗野伏の類が一人もいないわけではない。心配である。斎藤兵部少輔は於菊に御供を二十人付けるよう下知した。更に乳母と腰元二人まで着いてくるという。なんと煩わしい。
於菊は斎藤兵部少輔を見送ってから輿に乗って出発した。大窪の仮宿から糸崎浦はほんの一里程であるが、少し寄り道をする。実は昨日の内に伊緒を亀島見物に誘うていた。親の許しが得られておれば、目印の二本松で待っている筈である。伊緒は年寄衆魚住備後守景固の三女で於菊には及ばぬものの中々の器量の子である。於菊と同齢の女児故に親同士が能く遊ばせていた。屋敷から殆ど出られぬ於菊にとって数少ない友人である。
目印の二本松で伊緒は御供衆十五人と乳母一人を伴い待っていた。
「許してたも。大所帯になってしもた」
「何処のお
「ほんまやなぁ、かなんなぁ」
其れだけ大事にされているということだが、二人は一頻り親の
この二人が使う言葉は越前言葉ではない。京言葉である。朝倉名字で初めて越前国主になった七代当主英林居士は数多の公家領寺社領を押領したことで「天下一の極悪人」「天下悪事始行の張本人」などと呼ばれ公家寺社からは大層恨まれていたが、その一方で歌道に親しみ文芸を奨励した為、応仁の乱より後には荒廃した都を逃れた公家や高僧が数多く一乗谷に下向するようになった。十代性安斎宗淳居士の頃には儒学者清原宣賢、同枝賢、
伊緒は於菊の輿に同乗する。
「おおきにな」
伊緒に礼を云われて於菊は少し花やいだ。
於菊が伊緒を誘うたのは一昨日伊緒が見物席で退屈そうに欠伸しているのを見掛けたからだ。其の時伊緒は於菊の眼差しに気付きはしたない行いを恥じて赤面して俯いていた。その可愛らしい様子を見て、もし抜け出すなら伊緒も誘わねばと思うたのだ。
於菊は別に亀島が見たかったわけではない。父母から離れて海と空を見たかったのだ。だから亀島でなくても良かったが、亀島は辨才天が祀られている。参拝を口実にすれば父母を説得しやすいかと考えたのである。
「よう晴れたなぁ」
「ほやなぁ」
伊緒と二人、輿に揺られて眺めた海と空は美しかった。
大窪の仮宿を出たのは
「なぁ、平兵衛、止めて」
於菊は
「如何なされた」
「あの浦人、何人か呼んできて」
「浦人…に御座りまするか」
「うん」
伊緒は於菊を訝しげに見ている。乳母の伊茶も矢張り何か言いたげであったが伊緒を憚って何も云わなかった。普段は小言ばかりの乳母も身分ある人の前では差し出口を利かない。程なく二人の浦人が於菊の前に傅いた。
「面を上げよ」
浦人共が顔を上げた。
「ほんまによう焼けてやるなぁ」
思うたままを述べた。
免鳥村の人々は地網に掛かった千手観音の霊像を七日七夜かけて引き上げた浦人の裔という。其の時に歌うた網引き歌が今も伝わっており、五日に糸崎寺を参詣した折に住持が「色の黒いは浦浜育ち」と一節歌うのを聞いた。越前はあまり日が照らぬ土地故に百姓であってもあまり日焼けしない。だから初めて谷を出た於菊には日焼けした浦人が珍しかった。色の黒い浦浜育ちの人を初めて見た。
「…………」
浦人は呆けたように口を開けていた。然もあろう。於菊も伊緒も、被衣を被り、扇で口許を隠しているが、雪を欺く白き肌と目許は見えている。其れだけで魂を奪う美しさである。将に魂が抜けているに違いない。於菊は当り前に然う思う。
「おい、ぼんやりするでないわ」
「へ、へいっ!」
錦織平兵衛に一喝されて漸く浦人は我に返った。
「今日の漁はもう
於菊が浦人に問いかける。
「いえ、
「ほうか。朝は何が捕れたん?」
「今朝は
「鰺か。ええな。何尾か届けてくれる?」
「ほら、よう御座んすが……何処なへ」
「うちのお父さん、斎藤兵部少輔いうねん。平兵衛、後で教えたって」
「はは」
錦織平兵衛が返事する。
「ヲトトも要るやろ?」
伊緒を顧みて訊く。ヲトトは伊緒の渾名だ。"魚"住の"イヲ《魚》"故にヲトト《魚》である。伊緒は僅かに頭を左右に振った。
「えーっ、勿体ない。きっと美味しいで?」
於菊は奨めるが、矢張り伊緒は頭を左右に振った。
「うーん、しゃあないなぁ」
残念である。
「ほな、うちだけ頼むわ」
「へいっ!」
於菊は手を振って浦人と別れた。初めは顔を強張らせていた浦人も、別れる時には目を輝かせて白い歯を見せ笑うていた。
浦人が去ると、ずっと黙っていた伊緒が漸く口を開いた。
「よう喋れんなぁ」
「ん? なんで?」
於菊は目を丸くして訊く。
「怖いやん、あんな黒い人」
「怖い? あの浦人が?」
「目がギョロギョロして、歯がニィって…」
「そう? 面白いやん。人って、あんなに日に焼けれんねんで?」
伊緒の云うことが解らなかった。
於菊はあまり物怖じすることがない。弟の亀若丸が剰りにも柔弱故に却って…ということもあるが、およそ誰もが於菊に甘いことに依る。なにせ於菊は器量が良い。可愛らしい。皆が於菊の振舞いに一喜一憂する。誰もが気に入られようとする。だから皆が於菊に甘い。故に物怖じする必要がない。
抑も誰もが於菊の声を聴きたいのだ。誰もが容顔を拝したいのだ。影を見るだけでも果報である。先程の浦人も別れ際には嬉しそうであった。きっと於菊に魚を届けたことが一生の誉れとなろう。於菊は己の美貌が人を幸せにすると思うている。つまり居るだけで功徳を施すことになる。即ち善行を積んでいる。其のつもりでいる。だから人に話しかけることに遠慮がなかった。
(今日も善行を積んだわ)
於菊は然う信じていた。
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