第十話 源長

 永禄三一五六〇年霜月。一乗谷に雪が積もった。

 越前の冬は厳しい。鈍色にびいろの雲に覆われて日が覗くことは殆どなく、厚く降り積もる雪は掻いても掻いても切りがない。彼の紫式部は越前の雪を「いとむつかしき雪」と書き残している。煩わしい雪、鬱陶しい雪ということだ。一年あまり越前国府で過ごした紫式部は越前で雪が嫌いになったらしい。清少納言は「いとめでたし」「いとをかし」と雪を喜んだが、紫式部が著した『源氏物語』の雪は暗く侘しく辛いものだった。清少納言は都の雪しか知らなかった。越前の雪を知らなかった。その差であろうか。越前の雪も知らない癖に、と紫式部は思うていたかも知れない。

 きっと雪を見たことがあっただろう平尾丸も、越前の雪は初めてで、その厚さに驚きつつも、嬉しそうに雪を掻いている。川崎鑰之助や松山源丞などの相弟子も一緒である。危なくはあるまい。身体を冷やして戻るであろう平尾丸の為にバンドコ《行火、猫火鉢》や掻巻、生姜湯などの支度していると、外から平尾丸が呼ぶ声が聞こえた。

「おおい、これ出て見給え」

 知ってか知らずか斯様に千代を呼んだ。

「ふふっ」

 千代は思わず噴き出した。

「ふるさとに、かへるの山の、それならば、心やゆくと、ゆきも見てまし」

 戯れに歌いながら表に出ると、堆く積み上がった雪の上で平尾丸が雪掻き鋤を突き立て胸を張っている。

「まぁまぁ、危のう御座いますよ」

 千代は見上げて声を掛けた。

「どやっ! えっへん」

 平尾丸は構わず威張って見せた。この時ばかりは幼く見えた。

「なぁなぁ」

 続けて雪山の上から川崎鑰之助を呼ぶ。

「なんや」

「雪合戦やらんか」

「ほやの。この雪じゃ稽古も出来んしの」

「やった」

「御怪我のなきように」

 越前の雪も悪くないと思う。


 寒くなると人肌が恋しい………では言い訳にならぬ。色々と言い訳を考えてはいるが、結局は平尾丸が愛い。毒寒の夜を温々ぬくぬくと過ごしている。時々燥いで出る大声も、囂々と鳴る川音と風音に掻き消され、気兼ねなく二人の時間を過ごしている。凍える夜に有り難いことだ。同じ火に当るだけでも愉しい。同じ掻巻を被るだけでも嬉しい。餅を焼いてやるだけでも浮き浮きする。身を寄せ合うて語らい、ふと見詰め合うて、笑い合う。そんな相手がいる。なんと幸せなことだろう。

(なんで紫式部ともあろう御方が、越前の雪に風流を見出さはれへんかったんやろ)

 長徳二九九六年秋、紫式部は越前国守として赴任する父藤原為時に同行して来越した。然し同三九九七年の秋か同四九九八年の春に一人で帰京し、かねてより求婚されていた藤原宣孝に嫁いでいる。男勝りに漢文を読み熟す才女であった為か、この頃齢二十四五くらい、未だ独身であったようで、宣孝に求婚されるまで浮いた話はなかったらしい。越前に届いた宣孝の恋文にも初めは素気ない返事をしており、幾度かの遣り取りの中で迷いを生じ、宣孝の手管に絆されて次第に心を開くようになったという。

(あっ…)

 紫式部にとても失礼なことを考えた。調子に乗ってしもうた。

「?」

 平尾丸が不思議そうに千代を見た。


 年が明け雪も殆ど溶けた永禄四一五六一年弥生十八日、冨田治部左衛門景家が亡くなった。享年七十歳。夜の間に息が絶えたらしい。今朝には冷たくなっていたそうだ。この二年程は立居もままならなかったが、昨日は具合が良かったようで、坐って千代と話し、「それだけ御元気なら御弟子の方々にもお出で頂いて古稀のお祝いを致しましょう」と千代が云うと、強張った口許を少し綻ばせ、「ほれまで生きられるかの」などと戯言を述べていた。そんな矢先であったので、医術を心得た千代でさえ全く思い掛けず、哀しいよりも先づ驚いている。

「最期を看取って差し上げられんかったんが心残りやの」

 というたのは、治部左衛門景家の弟彦五郎友家の妻於清である。

「叔母上にお任せしきりで申し訳ないことでした」

 千代は於清に頭が上がらない。治部左衛門景家は生涯三人の妻を娶ったが、孰れも早世していた為、身体を悪くしてからは於清が世話をした。六年前の加賀大聖寺の陣で彦五郎友家が討死しても冨田家を去らずく治部左衛門景家を助けた。

「ええよ。御許には道場の御世話があるやろ。わちにはほんなん出来んで」

 於清は斯く云うが、千代が離れ家で医者の真似事をするようになったのはこの一年半程の事である。其れ以前の六年は寝て過ごしていた。長男の嫁であるし、筋から云えば千代の役目であった筈だ。して六年前からは於清も後家である。夫を亡くし、心細いことは千代と同じであった。然し於清は気丈に振る舞うて、心細さなどおくびにも出さず、当時十三歳の一子平五郎を躾けながらの看病であった。とてもお互い様とは云えまい。

「ほんな顔せんの。男衆が慌てるざ」

 千代はこのように云うてくれる人々の御蔭で生きている。

 冨田治部左衛門景家が宗家より印可を得た時、齢は既に五十九を数えていた。今から十二年前、千代が冨田家に押し掛けた翌年のことである。千代は未だ十六歳であった。千代がお祝いを申し上げると治部左衛門景家は己が印可を「義理許し」と自嘲した。若い頃には軽捷の術で鳴らしたが、老いて衰えてからは若い頃のようには往かず、遂に平法の奥秘には至らなかったものを宗家が義理で許したというのである。印可がなければ弟子を取れぬ故、冨田慈源居士以来の道場を守る為には受ねばならなかったが、本当はやつがれ如きに印可など授けられようわけはないと哀しげに笑うていた。

 治部左衛門景家の手足が震えはじめたのはその頃からである。聞けば少し前から手足が痺れていたそうだ。やがて立居が難しくなり、表情が失せ、平法の指南処か太刀を執ることさえ覚束ず、人前に出ることも難しくなった。医方を学んだ九郞左衛門郷家も中風であろうとしか云えず、取り敢えず、と桂枝加附子湯を処方していた。

 九郞左衛門郷家は既に跡取りと平法を辞していたので、家督は弟五郎右衛門隆家が継いだが、治部左衛門景家の四子……即ち長男九郞左衛門郷家、次男五郎右衛門隆家、三男与五郎政家、四男与吉郎長家は孰れも未だ印可を得ておらず、道場を継ぐ資格がなかったので、立居不如意の治部左衛門景家が已然道場の主であり続けた。三年後に長男九郞左衛門郷家が亡くなり、同じ頃に四男与吉郎長家が痘瘡にて片目を盲いて平法を断念し、その二年後には次男五郎右衛門隆家も両目を盲いて出家、程なく弟彦五郎友家まで討死した。冨田家から櫛の歯が缺けるように男が居なくなり、残ったのは中風の治部左衛門景家と与五郎政家改め景政、そして故彦五郎友家の一子平五郎のみとなった。

 その頃千代は怠惰に寝て過ごしていたので知らなかったが、於清によると宗家は早い内に与五郎景政の印可を認め道場を継がせようとしていたらしい。義理許しではなく与五郎景政には其れだけの力量があった。所が与五郎景政は「兄より先にお受け致し兼る」と固辞したそうだ。兄とは即ち五郎右衛門隆家……つまり盛源である。その名は既に天下に聞こえ名人と呼ばれて久しかったが、宗家がいうには「術は兎も角、性平法に相応しからず」とのことだった。今でこそ穏やかな盛源であるが、元々は激しい気性の人で、中条流平法口訣に云う「平らかに一生事なきをもって第一と為す。戦いを好むは道に非ず」の戒めを守らず廻国の途次で数多の敵を打ち倒し美名を天下に施した。兵法の名人ではあっても平法の名人とは認められず、中々印可を得られなかったのだ。然し昨年文月に盛源は美濃国で梅津某という人と立合うたそうで、葉月に帰越した際その成行きを宗家に報告したところ印可が認められた。そして霜月には与五郎景政にも印可授与の報せがあった。此度は与五郎景政も辞退しなかった。

「苦しんだやろけど、よう生きたな」

 と治部左衛門景家を労うたのは盛源である。与五郎景政が印可を得たことで治部左衛門景家は漸く道場を譲ることが出来た。それまで能く保ったと云っている。

「肩の荷が下りたんやろう。一応は孝行出来たわ」

 与五郎景政の言葉には少し棘があった。

「其方が勝手に待ったんやろ。うらの所為にすな」

「ほら待つやろ。兄上に劣る身が先に印可など考えられんわ」

「真面目やの」

 治部左衛門景家に一つ心残りがあったとすれば与吉郎長家のことであろうか。与吉郎長家は勝れた性骨を具えていた。矮躯の冨田家にあって独り抜きん出た長身で、その背丈を生かして長い腕を左右に広げ、二刀を構えて長い歩幅で一息に間を詰める兵法を得手とした。その様は恰も蟷螂に似て、打ち込みは宛ら雪起しの稲妻に譬えられる勝れた兵法者であった。妾腹の子ながら家祖長家の名を与えられたのも父の期待の現れであっただろう。

 所が八年前、九郞左衛門郷家が亡くなって百日も経たぬ頃に痘瘡を患うて死の淵を彷徨さまようた。然して命こそ失わなかったものの右目をめしいてしもうた。千代に兵法は判らぬが、間を計るには両目が大事ということくらい判る。与吉郎長家の長い手足を生かした兵法の要は目であった。然し与吉郎長家は片目を失うた。与吉郎長家の兵法は見る影もなく失せたという。与吉郎長家は道を見失うた。一年程は稽古に励んで新たな術を模索していたようだが、やがてふっつりと道場に来なくなり、冨田家の本貫地である浄教寺村に引き籠もるようになった。与吉郎長家は兵法を捨てたという。

 与吉郎長家について盛源と与五郎景政が口論するのを聞いたことがある。

なまじい片目が残っておるであかん。残ったもう片方も潰しゃあよい」

「ほれは兄上がお出来になるでや。酷なことやざ」

「何をのくといことを抜かす。うらに出来て彼奴に出来ん道理があるか」

「彼奴と兄上の性骨は違う。彼奴は彼奴の勝れた性骨を失うたんや」

「ほやけ拗ねて生きるんか。阿呆らし」

 盛源は生来目が弱く、六年前には左右とも盲いたが、其れで兵法を失うことはなかった。元々剰り見えなかった故、元々目を頼りにしていなかった為もあろうが、短躯の故もあるだろうと与五郎景政はいう。短躯の冨田家にあっても盛源は一際矮躯で身丈僅か三尺半106cm程しかなかった。此程小さければ最早立合に於いて間合いを計る利はない。如何にしても相手の太刀が先に届くからだ。故に盛源は皮一枚を切らせて死中に活を求めるしかなかった。だから元々利かぬ目に頼らず総身の皮、総身の産毛に気を巡らせて辺りを"見る"術を編み出したとか。千代には到底理解の及ばぬことではあるが斯様なことが出来る盛源である。ならば与吉郎長家のことはさぞもどかしかろう。

 与吉郎長家については千代にも悔いがある。迷うていたであろう頃に寄り添うてやれなかった。冨田家に押し掛けて暫くの間、千代は九郞左衛門郷家に拒まれていた。なんとか千代を翻意させ堺に返そうとしていた。冷たく遇われることこそなかったが、右も左も判らぬ一乗谷で想い人に避けられて千代は心細く過ごしていた。実は『人国記』に曰く「この国の人は智ありて、邪智多くして義理鮮し」とあったので、越前での暮らしを心配してもいた。九郞左衛門郷家以外の越州人を疑うていた。所が新町の人々は皆親切で、彼是あれこれと千代を構うて世話を焼いてくれた。風聞などあてにならぬものだと思うた。そんな親切な新町の人々の中でも特に千代が頼りにしたのが与吉郎長家であった。九郞左衛門郷家の弟という気安さもあり、三つ年嵩としかさの与吉郎長家を随分と頼りにした。男女の垣根を越えた友垣だったと思うている。

 ………今思えば惚れられていたに違いない。恋慕の情を利用したことになる。そんな与吉郎長家が苦しんでいる時に千代は寄り添うてやらなかった。励ましてもやらなかった。九郞左衛門郷家を失い子を流したばかりであったとはいえ、千代は今もその事を悔いている。与吉郎長家が冨田屋敷を去る時も碌に挨拶をしなかった。鈍色の空を見上げて泣いていた。あれから七年経った。

 千代は幸いにして皆に助けられ立ち直ることが出来た。然し与吉郎長家は自ら独りを選んだ。それでは行けないと思い、この一年、千代は月に一二度は与吉郎長家の許を訪ねている。冨田屋敷から与吉郎長家が棲う浄教寺村は一里程もなく、足弱の女子でも半刻程の道程である。然し千代には近くて遠い。一乗川を遡った名瀑一乗瀧の少し手前の庵を千代は幾度も訪ねたが、与吉郎長家は一度も会うてくれない。下女づてに「痘痕いもやみが移る」などと云われて門前払いにされる。きっと与吉郎長家は怒っているのだ。恨んでいるのだ。恨まれて当然だ。然う思うていた。

 於清と千代、与五郎景政の妻伊都が治部左衛門景家の亡骸を見守る隣室で盛源と与五郎景政の話し声が聞こえる。

「与吉には報せたんか」

「平尾を遣った」

「平尾? 会うたことないんではないか」

「ほやで平五と行かせた」

「ほうか。彼奴、顔出しよるかな」

「流石に親父の葬式に顔を出さんことはなかろう」

「ほやと良いがの」

 治部左衛門景家の遠行を悲しみながらも、千代はふと思う。

(逢えるかな)

 気が咎めた。何を考えているのか。泣いて暮らした六年、思うところはあっただろうに、何も云わずに冨田家に置いてくれた治部左衛門景家にも、治部左衛門景家を看取った於清にも、手伝うていた伊都にも申し訳ない。今は去りし人を悼むべきである。

 然しその願いは直ぐに叶うた。心月寺より招いた禅僧が枕経を終え、亡骸を移した棺を運び出す頃、痩身の僧が冨田屋敷の門を潜った。冨田与吉郎長家である。身丈六尺182cmの痩せた長身に直綴を纏う恰も衣桁のような立ち姿は、柿茶の平頭巾を目深に被り鼻口を覆うていても間違えようがなかった。

「与吉様っ!」

 浄教寺村の外れに庵を結んで隠栖し、今は源長と号しているのだが、千代にとっては与吉郎である。

「っ!」

 駆け寄ろうとすると源長は手で制する。

「……移るといかん」

「移りません!」

 源長が痘瘡を患うたのは八年も前である。痘瘡は一度罹れば二度と罹らわぬものだ。もう源長が痘瘡を移すことはない。一足程の間まで詰め寄って見上げた。

「今まで、今まで……」

 思いの丈を吐き出そうと口を開くが中々言葉が出てこない。

 ざり。源長が半歩退く。

「ずっと…」

 ざり。半歩千代が詰める。

「ずっと…」

 泣いてはいけない。

「謝りとうて…」

 それだけ云うのがやっとだった。

「やめてくれ」

 源長は大きく一歩退いて左手を突き出した。

「……えっ?」

 千代の足が止まる。

「姉上に謝られると辛い」

「…っ!」

 再び言葉を失うた。

「儂の方こそとは云うまい」

「…」

「姉上も謝られたくはなかろう」

「…」

「ならば、これまでとしよう」

「…」

「平尾…と申したか」

「…」

「見目の良い子やの。けなるい」

「…」

「尽くして貰え。これより儂に構うでない」

「そんな…」

「未練や」

「そんなこと…」

「苦しめてくれるな」

 この一句で千代は漸く理解した。

 もう辛抱堪らなかった。

「うぅっ、うぅぅっ…」

 目から泪が溢れ出た。

「うぅ、うぅぅ…」

 膝から崩れ落ち、うずくまって、むせびび泣いた。

「平尾」

 源長が呼ぶ。

「済まん。姉上を頼むわ」

「はい」

 駆け付けた平尾丸に助け起され、千代は離れ家の方に連れて行かれた。


 与吉郎長家が挫折したのは千代の所為である。千代は与吉郎長家を励ましてやらねばならなかった。然し己の事で手一杯で与吉郎長家を励ましてはやれなかった。

 千代と与吉郎長家の間には何もなかった。少なくとも千代は与吉郎長家に色恋の情を抱かなかった。然し与吉郎長家は違うていた。あの頃は九郞左衛門郷家に夢中で気付かなかったが、今なら解る。酷いことをした。好意に甘えて随分と便利に使うてしもうた。なんて悪い女だ。九郞左衛門郷家が生きている間も、亡くなった後も、与吉郎長家は苦しんだに違いない。思い遣る都度、気遣う都度、与吉郎長家はおのが心を殺していた。千代は何の気なしにその思い遣り、その気遣いを受け取り、その全てを九郞左衛門郷家に捧げていた。与吉郎長家は賽の河原の石積みの如き恋に苦しんでいた。

 千代は只々泣いた。身勝手に泣いていた。作僧の間も、葬送の間も、下火の時も泣き通した。傍目には義父の死を嘆いているように見えただろう。然し全く不義、全く不忠、全く不孝である。千代は己の為に泣いていた。遂に青春が果てたことが哀しかった。与吉郎長家を失うていたことに気付いて泣いていた。

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