第九話 富田弥六郎 二
弥六郎は気の毒な子である。先づ生まれて直ぐに母親を亡くしている。育ての親にも恵まれなかった。なんとか育ったものの三つを過ぎる頃には膂力で大人を負かすようになり、駆ければ二日三日は行方知れずになる有様で、誰も及ばず、追えず、縋れず、留める術がなかった。民部丞は早々に持て餘すようになり、千代と関わるまでずっと独りであった。弥六郎が蟄居すると聞いて慌てて訪ねた千代に民部丞は礼を述べた。弥六郎はまるで野の毛物で人と縁が無かったという。其れが千代に構うて貰うた御蔭で随分人がましうなった、忝い、などと云う。千代は恐縮するばかりであった。民部丞は決して弥六郎を見放してはいなかった。
その弥六郎が帰ってきた。
千代は甘く考えていた。平尾丸のことである。美しい容貌の子である。故に人付き合いの事はあまり心配していなかった。所が岸十郎鍋八兄弟のことが知られるようになり徐々に皆から懼れられるようになった。気付けば盛源や与五郎景政、千代など大人とばかり口を利くようになっていた。若衆で気易く話せる相手は川崎鑰之助と松山源丞くらいで、この二人も殆ど大人のようなものである。責めて女児とでも…と思うが平尾丸の見目は些か麗しすぎた。女児は女児で平尾丸の美貌に気後れして遠巻きに眺めるばかりである。中々近寄って来ない。斯様な事で平尾丸には友達が一人もいなかった。だから千代は弥六郎に期待していた。平尾丸も弥六郎も尋常ならざる子である。この二人ならば釣り合うだろうと考えていた。所がまさか、二人は初めから喧嘩腰である。あれからも弥六郎は度々訪ねて来るが、何故か平尾丸が気に食わないらしく、平尾丸も弥六郎を受け容れようとしない。困った千代は盛源に相談してみた。
「ひゃひゃっひゃ、そら無理やわ」
笑うばかりで話にならない。
与五郎景政にも相談した。
「ぷふっ、ほら仕方ないわい」
此方も話にならない。
「くっくっく、ほらあかんのう」
川崎鑰之助も同じだ。
「そやでぇ、後家様の方が悪いやろがぁ」
松山源丞には何故か責められた。
「ほんまにわからんの?」
「まぁまぁ、姉様らしいというか…」
於松と於竹には呆れられた。
弥六郎と平尾丸は険悪である。二人共道理を辨えている筈なので、いきなり殴り合うようなことはないが………と思いたかったが、その日は直ぐに訪れた。弥六郎が帰ってきてから僅か十二日後の
「奥方、奥方っ!」
小林次郎が千代の住いに駆け込んできた。
「弥六が、弥六が殴った!」
千代は薬の支度をして下駄を履く。その間に小林次郎が何があったか簡潔に述べた。一乗川と鹿俣川が交わる所に架けた通称「落合橋」で偶然行き合うて睨み合いになり、弥六郎が先に手を出して殴り合いになったとか。止めに入ろうとした増井甚内と毛屋猪介が川に落ちたらしい。
「××××っ! ×××××××っ!」
駆けて落合橋に近付くと弥六郎の怒鳴り声が聞こえた。何と云っているかは解らない。きっと言葉にもなっていなかったのだろう。橋が見えると同時に増井甚内と毛屋猪介が吹き飛んで川に落ちた。次郎から既に落ちていると聞いていたのでこれで二度目なのか。
「おやめなさい!」
二人の姿を見るなり目一杯の声を張り上げた。
…………。
途端に辺りがしんと静まり返り、川音だけが聞こえた。
「…………」
平尾丸と弥六郎は胸ぐらを掴み合い、呆然と千代を見ていた。ボロボロだった。
(なんて酷い)
剰りの痛ましさに泪が込み上げたが、千代は辛抱して川に落ちた二人に声を掛ける。
「お手当致しますよって、此方やのうて冨田の方にお上がり下さいまし」
落合の南岸は冨田の道場の河原である。其所から冨田屋敷に入ることが出来た。
平尾丸と弥六郎は酷い有様だったが千代は先にずぶ濡れの増井甚内と毛屋猪介を世話した。そろそろ肌寒さを覚える時候である。冷えては毒である。濡れた着物を脱がせて体を拭い、掻巻を着せて火を入れた
「……おいでませ」
ぼろぼろの二人を出居に上げ、四角く坐らせる。少し気が咎めたが、甘い顔をしては二人の為にならぬ。傷の具合を確かめて、拭うて薬を塗り終えるまでどちらとも目を合わさずどちらとも口を利いてやらない。昂ぶる気持ちが表に出ぬよう息も漏れぬよう努めた。
然し酷い怪我だった。尋常ならざる二人である。平尾丸の端正な顔がぼこぼこである。弥六郎の愛らしい顔もぼこぼこである。なんと痛ましいことか。疵痕は武士の誉れというものの、千代は商家の生れである。どちらにも傷も痣も残したくなかった。だから丁寧に丁寧に始末した。
「御二方ともお熱出さはると思います。明日は起居も苦しうおますやろね。弥六様には五日程此処でお泊り頂きますさかい、よろしう御座いますね」
千代は無理矢理ありもしない怒気を言葉に込めた。
「……」
弥六郎は黙って頷いた。
「若様も、弥六様と此処で御養生下さい」
「…!」
平尾丸は驚いたようだが、千代がきっと睨むとしゅんと顔を伏せた。
(いやん、お可愛らしい)
一瞬甘い顔を見せたい誘惑に駆られたが、心を鬼にして暫く二人を睨んだ。
「…………」
二人共身を竦めて黙って坐っている。此だけの怪我だ。きっと二人は熱を出す。着いててやらねばならない。千代は静かに膝を立て、手洗い桶の水を換えに立った。
身体が温まり着物も乾いた増井甚内と毛屋猪介を家に送り届け、富田民部丞を訪ねて弥六郎を預かる許しを得た後、帰宅した千代は於瀧を住いから下がらせた。
「ほんまにええんでっか、お手伝いしまっせ」
「ええんよ」
「ほなお暇致しますけど、しんどなったら呼ばなはれや」
「有り難う。おおきに。ほな、お休みな」
「ほんま、無理したあきまへんえ」
於瀧を下がらせたのは独りで二人の面倒を見る為だ。困った事に千代は二人に好かれている。きっと
案の定二人は熱が出た。其れだけ酷く殴り合うたのだ。本当に心配を掛ける。憎たらしいといったらない。夜通し濡らした手拭いで頭を冷やし、体の汗を拭うてやった。二人共身体が大きいので大変である。空が白み始める頃に漸く二人の熱が散じて汗が引いた。へとへとに疲れた。
…
……
………
…………
……………
しまった。うとうとする内に寝てしもうた。
「…」
「……」
「…」
「…………」
(……声?)
平尾丸と弥六郎の声である。何かひそひそと話していた。
昼間殴り合うた二人がひそひそと話している。少し考えて、千代は空寝することにした。様子を見るべきだと思うた。
「ほれ、見てみい」
「あんまり目が開かんわい」
「勿体ない。無理矢理空けぇよ」
「いたた…、おお」
「どや」
「ええのう」
「せやろ」
「わめ《お前》、こんなん毎晩見とるんか」
「羨しいか」
「けなるい《羨しい》」
何の話だろうか。
「涎垂らして眠りこける奥方など、こうでもならんと見られんのう」
(涎を垂らして…!)
なんと、二人は千代のはしたない寝顔を肴に和気藹藹と話している。
(起きよか、起きんとこか…)
迷う。涎を拭く為に二人の話を遮って良いのか。
(恥ずかしいなぁ…)
このまま様子を覗う。辛抱である。
「なぁ」
「うん?」
「すまんかったのう」
なんと、弥六郎が素直に謝った。
「俺は短慮や。気付いたら手が出る。悪い癖や」
千代は泣きそうになった。弥六郎が健気にも乱暴に及んだことを初めて謝っている。
「儂もや。すまんかった」
なんと、平尾丸まで謝った。
「で、なんで儂、殴られたん」
「ほら、綺麗な顔して奥方の横におるからや」
「はぁ?」
「わめ《お前》、綺麗な顔しとるやろ。責めて臆病やったり阿呆やったら可愛げもあろうに、ほないなこともないらしいやんけ。腹立つやろ」
「腹立つやろ、って…」
「御院さんから色々授かっとるらしいし、こら殴っても大事ないかと思てな」
「………ほな儂、なんも悪ないんか」
「なんも悪ないの。丸っきり俺が悪い」
「なんやねん、それ…」
「済まんかったな」
「まぁ、ええけど」
いいのか。
「然し、綺麗な顔やと思うとったけど、よう見ると酷い顔をしておるのう」
「然う云うお主こそ、そんな男前やったっけ」
「…………へへっ」
「…………へへっ」
二人が笑うている。
千代が知る限り富田弥六郎が理不尽に人を殴ったのは此が初めてだった。間違いなく富田弥六郎が悪い。然し叱るには及ばぬだろう。先づ平尾丸を対等の相手であると見定めて仕掛けている。容易かろうと侮って虐めようとしたわけではない。此ばかりは男児同士、武士同士のことで、商家の娘である千代には其の
「然しええのう、ええのう」
「ええやろ、ええやろ」
しまった。目覚める機を逸した。
「いつも涎垂らされるんか」
「いつもやないよ。時々や」
「鼾は」
「鼾はないな。寝息が可愛らしいぞ」
「寝息が可愛らしのか」
「せや」
「ええなぁ」
「ええやろ」
居たたまれぬ。恥ずかしい。
「なぁ、弥六郎というたか」
「おう」
「女子として好いとるんか」
「おん?」
「抱きたいとか、嫁にしたいとか」
(っ!)
平尾丸は一体何を訊こうとしているのか。
「ほやいうたらくれるんか」
「やらん。儂の許嫁やぞ」
「ほやろ。詮無いこと訊くなや」
「…………」
「……ないわけないわの」
続けるのか!
「こんな気性も器量もええ女子、二人とおらんやろ。ほらあ、嫁に出来たらどれだけええか。ほんま、わめがけなるいわ《お前が羨しい》い」
「ほな、どうする?」
「どうもせんわい。わめの嫁やろ」
「…」
「一発殴って、ほれで気が済んだわい。奥方恃んだぞ」
「……おう」
なんと愛らしいのだろう。千代は九歳の砌より九郞左衛門郷家に夢中だったので、子供同士の色恋は知らない。二十七にもなって今更こんな色恋に巻き込まれるとは思わなかった。面映くて消えてしまいたい。恥ずかしい。年増の後家で本当に申し訳なく思う。
「責めて目に焼き付けて帰るわい」
「せやな。しっかり見て帰れ」
其所からは地獄であった。
「ほんまに美さいのう」
「もっと近う寄ってみぃ」
「ええんか」
「どや」
「あ、ええ匂いするぞ…」
「せやろ。ここらへんが特に甘いぞ」
「わめ、ほんなん毎日…」
「せや」
「果報者め」
「もっと嗅いでええぞ」
「あかん。バチ当る」
「ほな責めてここらへんでも」
「……おおっ」
「どや」
「バチ当るわ…」
「此処よう見てみ」
「うん?」
「小さい黒子」
「おおーっ!」
「色白いのに黒子殆どないやろ」
「おう」
「でも、ない訳やないんや。実はこの辺の…」
「この辺の…」
「こうなってる裏の際にも一つ」
「なっ、なんやとっ! 裏の…っ!」
流石に聞いていられなかった。
「もぉぉぉぉぉぉぉっ!」
千代は空寝をやめて叫んだ。
「年増の女子を
二人を叱りつけて始まった一日であった。
二人とも酷い顔をしていたが、次の日になると随分マシになり、五日経つと殆ど痕が判らなくなった。流石に若いだけあって治りが早い。どうやら平尾丸の端正な顔も弥六郎の可愛らしい顔も元通りになりそうだ。一安心である。
平尾丸はすっかり弥六郎と仲良くなった。二人で何やらこそこそ話すのが気になるが、まぁ、仲が良いのは良いことである。男児同士のことなので詮索はすまい。富田弥六郎を見舞うた小林次郎、増井甚内、毛屋猪介とも仲良くなったようだ。小林次郎は当年十歳、増井甚内と毛屋猪介は九歳、喧嘩の御蔭というのは好ましくないが、兎も角富田弥六郎の御蔭で平尾丸には近い年頃の友達が出来た。この子らが此の谷で末永く平和に愉しく暮らせることを切に願うている。越前は静かに治まる地である。きっと大丈夫だろう。
ただ、冨田平尾丸と富田弥六郎は心月寺を追い出された。もう来るなということである。
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