第六話 平尾丸 三

 やっと赦されて、ほとほとと戸を叩く音が聞こえて息が止まる。

とうさんお早う御座いますー」

 於瀧である。

「ごめーん、寝坊してもた」

 千代は慌てて嘘を吐いた。平尾丸は既に一人で朝の支度を終えている。無体だと思うた。千代だけが急いで支度せねばならなかった。

「どないしたんだっか、お寝坊とは珍しい」

「いやぁ、そのぉ~、疲れてたんかなぁ、あはははは…」

 我ながら酷い言い訳である。


 実に気まずい一日だった。

 平尾丸は朝から口を利いてくれなかった。抑もこの一月ひとつき半ろくに口を利いてくれなかった。うん、はい、いえ、結構、殆どこの四言しか聞いていない。はじめは男の子なんてそんなもの、きっと人見知りをしているのだろうと考えていたが、一月半にも及ぶとなると幾ら何でも長すぎる。もしや嫌われているのではないかと心配になりはじめた矢先のことだった。

 千代の方からも話しかけにくい。だから今日は、うん、はい、いえ、結構すらなかった。

(…………?)

 千代は別に怒ってはいない。ただ驚き戸惑うているだけだ。驚いて当然だろう。………然う、受け容れてしもうた。昨夜のことは夢現に九郞左衛門郷家と錯覚してのことだったが、今朝は解っていた。

(うち、どうしてしもたんやろか)

 千代にも人並みの情がある。抑も九郞左衛門郷家しか知らなかった。後家になってからも何もなかった。他を知りたいとも思わなかった。千代は今生の分を終えたと思うていた。時折九郞左衛門郷家とのことを思い出して泣く夜があった。それだけだ。

 それが、である。これを不義と呼ぶのだろうか。

(どうしよ、まともにお顔見られへん)

 きっと誰から見ても様子がおかしかったと思う。今日も何時ものように大人も子供も訪ねてきた。そして幾人かは「何かあったか」と訊いてきた。何とか平静を装うたが、ごまかせたとは思えない。皆怪訝な顔して帰っていった。嗟乎、恥ずかしい。

 上の空のまま時が経ち、やがて日が暮れた。

とうさん、そろそろお暇しますけど、他に御用は」

「お疲れさん。今日はもうええから、休んで」

「へぇ。ほな、また明日」

 一日の始末を終えた於瀧が遂に辞した。

 今日は於瀧ともあまり口を利かなかった。あまり話しかけてこなかった気がする。きっとおかしな様子を訝しんでのことだ。もしかすると朝の下手な言い訳で察せられていたかも知れない。否、声を聴かれたやも知れぬ。終えるのを待ってから戸を叩いたのかも知れない。


 二人きりになった。

(やっと慣れてきたのに…)

 千代は炊事場の竈門を見た。於瀧が湯を沸して帰った。側には桶がある。

(して差し上げんわけには、いかんよねぇ…)

 長月半ばを過ぎ、そろそろ涼しい時候になってきた。今日は風が強く吹いた。埃を被っている。身を拭わねばなるまい。髪も梳いて差し上げたい。埃を被ったまま平尾丸を寝かせるわけにはいかない。平尾丸の身拭いにも漸く慣れてきたところだった。

 最初の晩は一人前だった平尾丸に驚いた。戸惑いながら身を拭うて差し上げた。次の日からは極力見ないように御世話した。救いは未だつるつるだったことか。何日目かで後から手を廻せば良いと気付き多少はましになった。心の中ではひぃひぃ喚きながら一月半無事に過ごしてきた。やっと慣れてきたところだった。

 所があんなことになった。昨日は平尾丸が岸十郎を一本松に吊す騒動があった。千代は岸十郎ら九人を手当した上で家に送り届け、その家々で額を地面に擦りつけて謝った。そして帰宅後平尾丸を抱き竦め、一頻ひとしきり泣き、鼻を啜りながら身を拭うて差し上げた。床に就く前にもう一度抱き竦めた。その夜であった。翌朝であった。

 取り敢えず千代は微温湯の用意を始めた。用意と云うても桶に湯を注ぎ水で埋めるだけのことだ。髪も洗うので糠を持ってきた。これで用意は整うた。手拭いを絞り、後は炭櫃の側に平尾丸を立たせて服を脱がせるだけである。台所に背を向けて一息吐き、決心して平尾丸を呼ぼうとした瞬間だった。

「あの」

 平尾丸だった。

「はい!」

 吃驚して声が裏返った。心臓が止まるかと思うた。

「…………」

「…………」

 二人は暫し沈黙した。

「………なんで御座いましょうか」

 漸く千代が訊ねた。

「…………」

 平尾丸の返事はなかった。

(なんやろか…)

 怖かった。怖くて振り返ることが出来なかった。

 千代は己に問う。何に怯えているのか。平尾丸に声を掛けられたのは此が初めてだ。共に暮らし始めて一月半程、平尾丸が千代を呼ばうたことは曾てない。だからあんなことがなければ欣喜雀躍、抱き竦めて舐め回すように頬摺りでもしていたであろう。然し呼ばれるより先にあんなことがあっては頬摺りどころか振り返ることすら難しい。

 昨夜のことは夢現で何があったか定かではない。然し今朝は頭を撫でられてしもうた。髪を梳かれてしもうた。二十七の後家が何たる爲體ていたらくか。己の淫乱に恥じ入るばかりだ。まともに顔を見られない。

(もしかして…)

 先づ其れを心配する。ならぬとは言い難い。言い訳が立たぬ。なんでも公家や大名なら七歳頃から稽古を始めるらしい。十一二歳にもなれば女子と共寝するそうだ。藤原道隆の長女定子は十一歳の一条天皇と添臥そいぶして中宮となった。添臥とは元服加冠の儀を終えた東宮や皇子が当夜に女子を選んで共寝することをいう。添臥した女子はそのまま后になることが多かったそうだ。一条帝は七歳で即位した。即位した時から稽古を始めていたかも知れない。もし平尾丸がやんごとなき御方の御落胤であったなら、本当に七歳でも、本当は十三歳でも、そろそろ年頃である。

(いやいやいやいや…)

 何を拒まぬ言い訳を考えているのか。うっかり受け容れて良い理由を考えていた。確かに一条帝は幼かった。中宮定子は一条帝よりも年長であった。添臥に選ばれる女子の多くは年長であったらしい。要は年長の女子が導くものなのだ。然し中宮定子は其の時十五歳である。年長とはいえ僅か四つ、千代のように十四…或いは二十も歳を取っていない。

 然し堀河天皇のような例もある。堀河帝の中宮篤子内親王は帝より十九も年長であった。「幼くより類なく見とり奉らせ給ひて幼い頃から見蕩れてただ四の宮をとか思ほせりけるただ篤子内親王だけを想うていたにや侍りけむ」と帝に求められて入内されたという。帝との仲は睦まじくあられたそうだ。だから十四か二十も年長であっても気にすることはないのではないか。

(いやいやいやいやいやいやいやいやっ!)

 何を、受け容れる言い訳を考えているのか。仮に盛源がそのつもりで「面倒を見よ」と申したとしても、平尾丸がそのつもりであったとしても、千代は昨晩まで九郞左衛門郷家しか知らず、して全て九郞左衛門郷家任せだった。一応九郞左衛門郷家が残した医書の御蔭で知識はあるものの、書いてないこともなかったが、其れを知っていた所でどうなるものか。

 とはいえ篤子内親王も十四歳で斎院に卜定ぼくじょうされ父上皇崩御により二箇月程で退下して十八年、十三歳の堀河帝に召されるまで何もなかった。斎院は清い身のままなるもので、多くの斎院は退下した後も清い身のまま生涯を終えたらしい。恐らく篤子内親王も帝に求められるまで清いままでいただろう。

(いやいやいやいや────、だ、か、らっ!)

 何を下手でも構わない言い訳を考えているのか。己の浅ましさにほとほと呆れる。抑も平尾丸を拒みたいわけではない。正直良かった。良かったのだ。千代は亡夫しか知らなかった。其れが七年ぶりである。幸せだった。昨夜は夢現の内に平尾丸を亡夫と錯覚し、今朝も舞い上がっていた。抑も千代は平尾丸に九郞左衛門郷家の面影を重ねて見ている。容貌こそ似ても似つかぬものの平尾丸の立居振舞は九郞左衛門郷家そのものだ。千代は九郞左衛門郷家の立居振舞の美しさに惚れて越前に来たのである。平尾丸に心奪われても仕方ない。正直年甲斐もなく平尾丸のことを好いている。だから求められて嬉しかった。

 然し平尾丸はどうだろうか。何か故あって身分を偽っているのだと思う。きっと貴人に違いない。其の美貌と所作振舞だけで然う思い込んでいる。十三四歳の貴人なら成る程御上手であっても不思議はなかろう。既に一通り終えられた後で最早誰に教わることもないのかも知れない。だから昨夜のことも今朝のことも平尾丸にとっては大したことではないのかも知れない。ただの戯れではなかったか。或いはこのおうなを憐れんで情けを掛けられたのかも知れぬ。いずれにしろ平尾丸の気紛れであろう。取り立てて騒ぐようなことではないのではないか。

 千代は久しぶりで舞い上がっているが恥じてもいる。九郞左衛門郷家のしとねに初めて潜り込んだ時は十九歳だった。あの頃にも些かとうが立ち過ぎて九郞左衛門郷家には申し訳ないと思うたものだったが、其れから更に八年も経っている。若い平尾丸に申し訳ない。要は歳を取ったことが恥ずかしい。篤子内親王も堀河帝に求められて恥じたという。千代が恥ずかしくないわけがない。

(もっと相応しい女子がいてやるやろうに、なんでうちなんかあてがわはんの!)

 盛源の所為だ。盛源が斯様な媼を平尾丸にあてごうたのがいけない。千代は盛源を恨んだ。結局平尾丸に求められれば断る自信がない。千代に平尾丸は拒めまい。ただ昨晩のこと、今朝のことを申し訳なく思うばかりだった。

 所が。

(………あれ?)

 何もない。

(どないしはったんやろ)

 千代が逡巡する間、平尾丸はずっと黙っていた。どれくらい経ったか解らぬが、短い間ではなかった筈だ。一体どうしたのか。

(いやいや、待ち望んでるやん)

 己の浅ましさを咎めた。

 其れは兎も角、用があるから声を掛けたに違いない。何故黙っているのか。

「…………」

 恐る恐る振り返って見た。顔を見るのは恐い。然し見ないでいるよりましだ。

「………っ!」

 千代はその様子に驚いた。なんと平尾丸がしょんぼりしている!

(嗟乎、なんとおいたわしい)

 胸が潰れそうになった。既に日は暮れて、住いの明りは灯台一つ、平尾丸は仄明りを背にしてかまち胡坐あぐらを掻いていた。影になって顔はよく見えないが、肩を落として背を丸め、首を傾け項垂うなだれている。実に哀れげである。鍾愛が過ぎる気もするが、平尾丸の常が常だ。その堂々とした振舞から千代は勝手に平尾丸を貴種だと思い込んでいる。その平尾丸がしょんぼりしている。労しいに決まっている。

「どうなさいましたの?」

 足が勝手に三歩駆けた後、平尾丸の前にかしづいていた。そして先程迄の怖さを忘れて下から顔を覗き込んだ。目が合った。きらめく目が綺麗だった。

「……今日、口を利いてくれなんで、堪えた」

「えっ?」

「儂が悪いんや。済まんかった」

 平尾丸は目を瞑って謝罪の意を示した。

(いややわ、こんなこと)

 千代は悔いた。これが平尾丸との初めての会話である。初めての会話が平尾丸からの謝罪である。平尾丸はきっと貴種である。そんな人を謝らせてはいけなかった。

「何のことですの」

 解ってはいるが敢て訊く。謝罪を打ち消す為だ。自然に出た。

 千代は女にしては背が大きい。五尺一寸154cm程ある。力もこの一年程で随分ついて、もう悲嘆に暮れる弱々しい後家様ではない。今朝は押し退けようと思えば押し退けられた。然うしなかったのは、単に流されただけなのだが、いやではなかったからである。ただ「ことのほかの齢な」る事に引け目があった。だから狼狽えてしもうた。今は斯様な媼に勿体なくも情けを掛けて頂いたことを申し訳なく思うている。

 平尾丸は千代の目を見た。

「今更言い訳にしかならんけど、一目よりずっと見蕩れとった。会うてる時も、会わん時も、ずーっと其方のことを想うとった。こんな綺麗な人と一つ屋根の下に住めるやなんて、夢みたいやと思うてた」

(えっと、これは…)

 なんと、口説かれている!

「そんな猿楽言さるごうごと、やめておくれやす」

 剰りの面映ゆさに思わず顔を背けてしもうた。

「猿楽言やあれへん」

 平尾丸は千代を包み込む。

「~~~~っ!」

 忽ち逆上せた。

「こっ、こんな媼、煽てたって…」

 千代は慌てて身を捩る。

「煽ててへん。赤裸の真心や」

 平尾丸はぎゅっと千代を抱き竦める。

「~~~~っ!」

 堪らなく恥ずかしい。

「ほ、ほなっ!」

 居た堪れず一声叫んで平尾丸を押し放す。

「なんで口利いてくれはらへんかったんですか!」

 もう一声叫んだ。

「…」

 驚かせたようだ。平尾丸は目を丸くしている。力が抜けて身体が少し放れた。

「あっ…」

 餘計な事を口走ってしもうた。

「………済まん」

 また謝らせてしもうた。

「う、うちの方こそ御免なさい! 嫌われてんのかと思てて、その…」

 責める気などなかったのに、責めるような云い方になってしもうた。慌てて糊塗しようとするがどうにもならない。

「嫌うわけない。物怖じしてた。気後れしてた」

 平尾丸の言葉が酷く頼りなげに聞こえた。

「御院さんに、兄上様の名跡を継がせるから後家様の婿になれ云われて、どんな後家様かなと思たら、こんな綺麗な人で、子守なんか押し付けられて、気の毒やと思た。きっと迷惑やろなと思た。せやから、嫌われるのが怖うて、よう口利かなんだ」

 千代も全く同じようなことを考えていた。あんな思いを若様にさせていたのかと思うと胸が潰れた。本当に申し訳ない。

「…………」

 暫し見詰め合う。徐ら平尾丸の手が伸びて千代の前髪を払うた。

「昨日、儂の為に頭下げてくれたやろ」

 岸十郎らのことだ。

「御免。有り難う」

 三度謝られた。

「やめとくなはれ」

 千代は謝罪を拒んだ。

「もう、謝らんといておくれやす」

 泣きそうになった。この御仁を謝らせてはいけない。

 岸十郎の件については平尾丸に非はなかった。其れは岸鍋八らの態度から大凡おおよそ察せられた。ただやり過ぎではあった。あのままでは大事になっていただろう。岸家と冨田家の大喧嘩になっていたやも知れぬ。だから千代は一計を案じた。与五郎景政に話を通した上で、先づその日の内に九家を巡り、平尾丸を見せて回った。岸鍋八らとあまり変らぬ背格好の童子である。この童子に九人が打ちのめされ、二十四にもなる岸十郎が一本松に吊された。此が公になれば九家の面目は丸潰れである。先づ岸鍋八らの親にどんな童子が都合十人もの子弟を一捻りにしたのかを知って貰えば、家の面目が潰れることを怖れて大事にしないのではないかと考えた。この小細工は巧くいったと思う。幸い岸鍋八は人目を避けて平尾丸を囲んでいた。己の行いが卑怯であることを辨えていたのだろう。御蔭で今日の夕刻に至る迄、冨田屋敷を訪れて此の話題を口にする者は一人もいない。少なくとも与五郎は千代に何も云うてこない。暫く気は抜けまいが、このまま大事に至らず済むと思う。

 然し千代は一つ悔いていることがある。平尾丸を連れて回ったことだ。夫々それぞれの親に平尾丸を見てもらう必要はあったが、矢張り謝罪の場に立ち合わせたくはなかった。非のないことで頭を下げさせたくなかったので、平尾丸を後ろに控えさせ、決して頭を下げぬよう言い含めていたが、其れでもあの場に立ち合わせたことを悔いていた。

「あの後も、泣いてくれたな」

「もうやめて…」

 泣くという言葉がいけなかった。つい泪を一条ひとすじ落とした。

「御免な」

「やめてって…」

 一条落ちるともういけない。ぼろぼろと泪が溢れ出た。

「泣かんといて」

 平尾丸は然う云って両手で千代の顔を包み、左右の親指で千代の泪を拭う。

「ほんまに綺麗な人やな」

「猿楽言はやめてと申しました」

「猿楽言やないと申した」

 平尾丸はそろりと促して千代の身体を置く。

「あきません。埃被って汚う御座います」

「かまへん。其方は綺麗や」

 千代は其れ以上返す言葉を探さなかった。

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