第六話 平尾丸 三
やっと赦されて、ほとほとと戸を叩く音が聞こえて息が止まる。
「
於瀧である。
「ごめーん、寝坊してもた」
千代は慌てて嘘を吐いた。平尾丸は既に一人で朝の支度を終えている。無体だと思うた。千代だけが急いで支度せねばならなかった。
「どないしたんだっか、お寝坊とは珍しい」
「いやぁ、そのぉ~、疲れてたんかなぁ、あはははは…」
我ながら酷い言い訳である。
実に気まずい一日だった。
平尾丸は朝から口を利いてくれなかった。抑もこの
千代の方からも話しかけにくい。だから今日は、うん、はい、いえ、結構すらなかった。
(…………?)
千代は別に怒ってはいない。ただ驚き戸惑うているだけだ。驚いて当然だろう。………然う、受け容れてしもうた。昨夜のことは夢現に九郞左衛門郷家と錯覚してのことだったが、今朝は解っていた。
(うち、どうしてしもたんやろか)
千代にも人並みの情がある。抑も九郞左衛門郷家しか知らなかった。後家になってからも何もなかった。他を知りたいとも思わなかった。千代は今生の分を終えたと思うていた。時折九郞左衛門郷家とのことを思い出して泣く夜があった。それだけだ。
それが、である。これを不義と呼ぶのだろうか。
(どうしよ、まともにお顔見られへん)
きっと誰から見ても様子がおかしかったと思う。今日も何時ものように大人も子供も訪ねてきた。そして幾人かは「何かあったか」と訊いてきた。何とか平静を装うたが、ごまかせたとは思えない。皆怪訝な顔して帰っていった。嗟乎、恥ずかしい。
上の空のまま時が経ち、やがて日が暮れた。
「
「お疲れさん。今日はもうええから、休んで」
「へぇ。ほな、また明日」
一日の始末を終えた於瀧が遂に辞した。
今日は於瀧ともあまり口を利かなかった。あまり話しかけてこなかった気がする。きっとおかしな様子を訝しんでのことだ。もしかすると朝の下手な言い訳で察せられていたかも知れない。否、声を聴かれたやも知れぬ。終えるのを待ってから戸を叩いたのかも知れない。
二人きりになった。
(やっと慣れてきたのに…)
千代は炊事場の竈門を見た。於瀧が湯を沸して帰った。側には桶がある。
(して差し上げんわけには、いかんよねぇ…)
長月半ばを過ぎ、そろそろ涼しい時候になってきた。今日は風が強く吹いた。埃を被っている。身を拭わねばなるまい。髪も梳いて差し上げたい。埃を被ったまま平尾丸を寝かせるわけにはいかない。平尾丸の身拭いにも漸く慣れてきたところだった。
最初の晩は一人前だった平尾丸に驚いた。戸惑いながら身を拭うて差し上げた。次の日からは極力見ないように御世話した。救いは未だつるつるだったことか。何日目かで後から手を廻せば良いと気付き多少はましになった。心の中ではひぃひぃ喚きながら一月半無事に過ごしてきた。やっと慣れてきたところだった。
所があんなことになった。昨日は平尾丸が岸十郎を一本松に吊す騒動があった。千代は岸十郎ら九人を手当した上で家に送り届け、その家々で額を地面に擦りつけて謝った。そして帰宅後平尾丸を抱き竦め、
取り敢えず千代は微温湯の用意を始めた。用意と云うても桶に湯を注ぎ水で埋めるだけのことだ。髪も洗うので糠を持ってきた。これで用意は整うた。手拭いを絞り、後は炭櫃の側に平尾丸を立たせて服を脱がせるだけである。台所に背を向けて一息吐き、決心して平尾丸を呼ぼうとした瞬間だった。
「あの」
平尾丸だった。
「はい!」
吃驚して声が裏返った。心臓が止まるかと思うた。
「…………」
「…………」
二人は暫し沈黙した。
「………なんで御座いましょうか」
漸く千代が訊ねた。
「…………」
平尾丸の返事はなかった。
(なんやろか…)
怖かった。怖くて振り返ることが出来なかった。
千代は己に問う。何に怯えているのか。平尾丸に声を掛けられたのは此が初めてだ。共に暮らし始めて一月半程、平尾丸が千代を呼ばうたことは曾てない。だからあんなことがなければ欣喜雀躍、抱き竦めて舐め回すように頬摺りでもしていたであろう。然し呼ばれるより先にあんなことがあっては頬摺りどころか振り返ることすら難しい。
昨夜のことは夢現で何があったか定かではない。然し今朝は頭を撫でられてしもうた。髪を梳かれてしもうた。二十七の後家が何たる
(もしかして…)
先づ其れを心配する。ならぬとは言い難い。言い訳が立たぬ。なんでも公家や大名なら七歳頃から稽古を始めるらしい。十一二歳にもなれば女子と共寝するそうだ。藤原道隆の長女定子は十一歳の一条天皇と
(いやいやいやいや…)
何を拒まぬ言い訳を考えているのか。うっかり受け容れて良い理由を考えていた。確かに一条帝は幼かった。中宮定子は一条帝よりも年長であった。添臥に選ばれる女子の多くは年長であったらしい。要は年長の女子が導くものなのだ。然し中宮定子は其の時十五歳である。年長とはいえ僅か四つ、千代のように十四…或いは二十も歳を取っていない。
然し堀河天皇のような例もある。堀河帝の中宮篤子内親王は帝より十九も年長であった。「
(いやいやいやいやいやいやいやいやっ!)
何を、受け容れる言い訳を考えているのか。仮に盛源がそのつもりで「面倒を見よ」と申したとしても、平尾丸がそのつもりであったとしても、千代は昨晩まで九郞左衛門郷家しか知らず、
とはいえ篤子内親王も十四歳で斎院に
(いやいやいやいや────、だ、か、らっ!)
何を下手でも構わない言い訳を考えているのか。己の浅ましさに
然し平尾丸はどうだろうか。何か故あって身分を偽っているのだと思う。きっと貴人に違いない。其の美貌と所作振舞だけで然う思い込んでいる。十三四歳の貴人なら成る程御上手であっても不思議はなかろう。既に一通り終えられた後で最早誰に教わることもないのかも知れない。だから昨夜のことも今朝のことも平尾丸にとっては大したことではないのかも知れない。ただの戯れではなかったか。或いはこの
千代は久しぶりで舞い上がっているが恥じてもいる。九郞左衛門郷家の
(もっと相応しい女子がいてやるやろうに、なんでうちなんか
盛源の所為だ。盛源が斯様な媼を平尾丸に
所が。
(………あれ?)
何もない。
(どないしはったんやろ)
千代が逡巡する間、平尾丸はずっと黙っていた。どれくらい経ったか解らぬが、短い間ではなかった筈だ。一体どうしたのか。
(いやいや、待ち望んでるやん)
己の浅ましさを咎めた。
其れは兎も角、用があるから声を掛けたに違いない。何故黙っているのか。
「…………」
恐る恐る振り返って見た。顔を見るのは恐い。然し見ないでいるよりましだ。
「………っ!」
千代はその様子に驚いた。なんと平尾丸がしょんぼりしている!
(嗟乎、なんとお
胸が潰れそうになった。既に日は暮れて、住いの明りは灯台一つ、平尾丸は仄明りを背にして
「どうなさいましたの?」
足が勝手に三歩駆けた後、平尾丸の前に
「……今日、口を利いてくれなんで、堪えた」
「えっ?」
「儂が悪いんや。済まんかった」
平尾丸は目を瞑って謝罪の意を示した。
(いややわ、こんなこと)
千代は悔いた。これが平尾丸との初めての会話である。初めての会話が平尾丸からの謝罪である。平尾丸はきっと貴種である。そんな人を謝らせてはいけなかった。
「何のことですの」
解ってはいるが敢て訊く。謝罪を打ち消す為だ。自然に出た。
千代は女にしては背が大きい。
平尾丸は千代の目を見た。
「今更言い訳にしかならんけど、一目よりずっと見蕩れとった。会うてる時も、会わん時も、ずーっと其方のことを想うとった。こんな綺麗な人と一つ屋根の下に住めるやなんて、夢みたいやと思うてた」
(えっと、これは…)
なんと、口説かれている!
「そんな
剰りの面映ゆさに思わず顔を背けてしもうた。
「猿楽言やあれへん」
平尾丸は千代を包み込む。
「~~~~っ!」
忽ち逆上せた。
「こっ、こんな媼、煽てたって…」
千代は慌てて身を捩る。
「煽ててへん。赤裸の真心や」
平尾丸はぎゅっと千代を抱き竦める。
「~~~~っ!」
堪らなく恥ずかしい。
「ほ、ほなっ!」
居た堪れず一声叫んで平尾丸を押し放す。
「なんで口利いてくれはらへんかったんですか!」
もう一声叫んだ。
「…」
驚かせたようだ。平尾丸は目を丸くしている。力が抜けて身体が少し放れた。
「あっ…」
餘計な事を口走ってしもうた。
「………済まん」
また謝らせてしもうた。
「う、うちの方こそ御免なさい! 嫌われてんのかと思てて、その…」
責める気などなかったのに、責めるような云い方になってしもうた。慌てて糊塗しようとするがどうにもならない。
「嫌うわけない。物怖じしてた。気後れしてた」
平尾丸の言葉が酷く頼りなげに聞こえた。
「御院さんに、兄上様の名跡を継がせるから後家様の婿になれ云われて、どんな後家様かなと思たら、こんな綺麗な人で、子守なんか押し付けられて、気の毒やと思た。きっと迷惑やろなと思た。せやから、嫌われるのが怖うて、よう口利かなんだ」
千代も全く同じようなことを考えていた。あんな思いを若様にさせていたのかと思うと胸が潰れた。本当に申し訳ない。
「…………」
暫し見詰め合う。徐ら平尾丸の手が伸びて千代の前髪を払うた。
「昨日、儂の為に頭下げてくれたやろ」
岸十郎らのことだ。
「御免。有り難う」
三度謝られた。
「やめとくなはれ」
千代は謝罪を拒んだ。
「もう、謝らんといておくれやす」
泣きそうになった。この御仁を謝らせてはいけない。
岸十郎の件については平尾丸に非はなかった。其れは岸鍋八らの態度から
然し千代は一つ悔いていることがある。平尾丸を連れて回ったことだ。
「あの後も、泣いてくれたな」
「もうやめて…」
泣くという言葉がいけなかった。つい泪を
「御免な」
「やめてって…」
一条落ちるともういけない。ぼろぼろと泪が溢れ出た。
「泣かんといて」
平尾丸は然う云って両手で千代の顔を包み、左右の親指で千代の泪を拭う。
「ほんまに綺麗な人やな」
「猿楽言はやめてと申しました」
「猿楽言やないと申した」
平尾丸はそろりと促して千代の身体を置く。
「あきません。埃被って汚う御座います」
「かまへん。其方は綺麗や」
千代は其れ以上返す言葉を探さなかった。
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