第五話 平尾丸 二

 冨田屋敷の北隣には広い河原があり、毎日数十人の門弟が集うて平法の稽古をする。河原は千代が住まう家の出居から見渡せるものの稽古の間は陣幕が張られるので其の様子は見えない。これは出入りの者に平法を盗まれない為の用心である。

 冨田の道場には多くの子弟が通う。西新町の北端、上城戸の西側にある国主朝倉家の菩提寺大圓山心月寺は一乗谷の学問所であり、身分を問わず多くの子弟が預けられている。或いは通うている。およそ七八歳頃、早いと五歳頃から預けられ、元服するまでいることが多い。

 寺の中では日出午前五~六時に起床、食時午前七~八時に朝食、隅中午前九~十時に手習、日中午前十一時~正午に読書、日昳午後一~二時に諸芸、晡時午後三~四時に夕食、日入午後五~六時頃に閉門し、黄昏午後七~八時頃に歌舞音曲、人定午後九~十時頃に就寝という生活である。冨田道場の門人である川崎鑰之助・松山源丞と冨田平尾丸も心月寺で学んだが、川崎・松山は盛全寺、平尾丸は冨田屋敷から通うている。三人は隅中初刻午前九時に心月寺に赴き日昳初刻午後一時に寺を辞する。

 心月寺に預けられた子弟、或いは通う子弟の半分くらいは諸芸に充てられる日昳を冨田道場で過ごして武芸を学ぶ。その為冨田の門弟は隅中~日中頃に己の稽古を済ませてる。日昳には若衆ばかりになった。


 千代と平尾丸が共に暮らし始めて一月ひとつき半程経った頃である。

 噂はすっかり広まった。当り前だ。冨田道場には多くの者が出入りする。其の多くが美しい後家に憬れを抱いて懸想している。孰れ千代と…と考える者こそ多くなかったものの、どこの馬の骨とも知れぬ年若い男が千代と暮らし始めたのだから面白いわけはない。然も許嫁だと聞こえる。妬みが敵意に、敵意が害意に変わるのにそう時は要らなかった。

 岸鍋八、笠松岩千代、和田桑次郎は孰れも心月寺で暮らす少年である。孰れも武家の十四歳、千代に懸想して平尾丸に腹を立てていた。何故この日だったのかは判らない。道場の片隅にいた平尾丸を見つけて岸鍋八は左右の笠松和田に「身の程を教えてやらん」と云うて平尾丸の尻を蹴ろうとした。所が

「あれっ?」

 何故か尻を蹴った筈の足が空を切り、いつの間にか仰のけに倒れようとしていた。

「あっ」

 青空を何かが覆い隠した。

 ぐしゃ。強かに踏み付けられて鼻が潰れた。

「こやつめ、なにしよるか」

 笠松が声を荒らげるのが聞こえた。

「あれ」

 ぐえっ。何がどうなったのか、笠松岩千代が岸鍋八に覆い被さった。

「こやつ!」

 和田桑次郎の声が聞こえた途端、

 ごっ。

 何か固い物がぶつかる音がした。

「おお、やるなぁ」

 川崎鑰之助の嬉しそうな声が聞こえた。


 取り敢えず三人は稽古中の事故として誤魔化した。

 武士には面目がある。喧嘩でしたなどと与五郎景政や千代に云えるわけがなく、鍋八は悔しくて身悶えしそうなのをやっと堪えて千代の手当を受けた。

(侮りよって)

 あの人形和郎め、憬れの兄嫁様と同居するだけでも腹立たしいのに、見てくれだけかと思えば滅法腕が立ちやがる。三人がかりでこの始末、全く口惜しいといったらない。そんなことを考えていた。

 三人はその日の内に人手を集め、人気のない草叢に平尾丸を呼び出した。

「ひぃふぅみぃよ…」

 パッと見れば人数くらい判ろうに、平尾丸は暢気に指さし数えた。岸鍋八を加えて九人である。

 流石に九人おれば勝てるだろう。鍋八はそう考えた。甘かった。

「どなたか知らんが、なんで一度でお解りにならんのやろなぁ」

 瞬く間に八人が伸された。また鼻を強かに踏み付けられた。


 翌日。岸鍋八は兄を連れてきた。名を十郎。既に初陣を済ませて手柄首も取っている。国主より感状を戴いた一人前の武者である。

「謝るなら今のうちやぞ」

「へへっ」

 岸鍋八は昨日の八人を引き連れていた。平尾丸が惨めに這い蹲る姿を皆に見せてやるつもりだった。

「ふっ」

 腹立たしい事に鼻で笑われた。

「まだ分からんとは、呆れるわ」

 云うなり、ひゅう、ごつん。

 平尾丸が打った印地が十郎の鼻を潰した。

「兄弟揃って鼻が低うなりよる」

 平尾丸は鼻を押さえて仰け反った十郎に飛びかかると、信じがたいことに十郎の体を駆け上って二度三度と顔を踏み付けにした。十郎が堪らず後に倒れると、そのまま何度も踏み付けた。十郎の顔が見る見る朱に染まる。

「ぷっ、ぷっ、ぷっ…」

 十郎が動かなくなると、その顔に足を乗せたまま平尾丸は九人を睥睨へいげいした。

 剰りの早業で九人は何が起こったか理解出来ていない。

(…………)

 呆気にとられて身動みじろぎひとつ出来なかった。

「~♪」

 九人が動けないのを確かめてか、平尾丸は十郎を肩に担いでするすると河のはたに下り手際よく着物を脱がせて褌一本にした。

「お、おのれ、なにするつもりや!」

 六間ばかり離れた所でやっと岸鍋八が叫んだ。

「餓鬼の喧嘩にしゃしゃり出てきよって、しょもないやっちゃで」

 そう呟くと手際よく十郎の帯で十郎の両手足を縛り上げ一本松に吊し上げた。

「おい」

 平尾丸が岸鍋八を睨み付ける。

「おのれの兄様やろ。助けてみぃよ」

 逆さ吊りの十郎の前に立ちはだかった。

「おい、桑、先行け」

「なんで儂なんじゃ、お主の兄様やろうが」

「儂は大将じゃ、策を立てるのが務めじゃ」

「誰がお主を大将と決めたんじゃ」

 九人の相談は直ぐに言い争いになった。

 ごっ。どしゃり。

 すると和田桑次郎が倒れた。横っ面を印地に打たれている。

「真面目にやれ。漫然と河原に下りたと思うたか」

 河原である。平尾丸の足下には手頃な石が沢山ある。

 ごっ。笠松も顔面を打たれて昏倒した。

(こやつ、百発百中か!)

 岸鍋八は漸く戦慄した。

(尋常やない。このままでは殺される)

 ちらりと後を見た。

「兄様を置いて逃げる気か」

 見抜かれた。

「この戯け、おのれの為にしゃしゃり出てきてくれたんやろ?」

 平尾丸は十郎の顔面を一発蹴った。

「助けんでええんか」

 十郎がゆらゆら揺れていた。

 その時だった。

「こらーーっ!」

 場違いに間の抜けた怒声が響いた。

「あっ」

 平尾丸も間の抜けた声を上げた。

 千代であった。

「なんてことなさるの!」

 よたよたと千代が河原に下りてくる。

 それまで冷たく岸らを見据えていた平尾丸の目に怯懦の色が滲んだ。

「これは何たることに御座いますか! 早くお下ろしなさいませ!」

 言葉は丁寧だが千代は平尾丸に命じていた。

「えっと、……十郎様?」

 千代は自信なげに名を呼んだ。岸十郎の顔が酷く潰れていたからだ。

「十郎様?を早く下ろして、ほら、皆様も」

 千代は皆を家に連れ帰ると手当を施した。


 千代は九人の様子から何事があったかおよそ察していた。だから平尾丸を叱らなかった。然し岸十郎には些かやり過ぎであった。岸十郎ほどではないにしても他の九人も酷い有様であった。これは頭を下げねば収まらぬ。千代は十人を送る先々の家で平身低頭して許しを請うた。

 幸い大事おおごとにはならなかった。何せ相手は孰れも武士である。岸鍋八は十四歳、他の者共も十二より下の者はいない。岸十郎に至っては二十四にもなる。それだけの者共が一人相手に束で掛かって此の始末である。騒ぎ立てては家の恥だ。どの家の者も口止めはしたが、千代にそれ以上は求めなかった。大変だったのは岸家だが、それは後日の話である。兎も角平尾丸は赦された。

 千代は平蜘蛛の如く這い蹲って額を地べたに擦り付けて謝ったが、平尾丸には頭を下げさせなかった。確かにやり過ぎたが非は相手方にある。其れは明らかだった。だから平尾丸に頭を下げさせてはならなかった。ただ少し離れて後に控えて立っているよう言い聞かせ、一言も口を利かせなかった。平尾丸が謝ってはならなかった。平尾丸の手を引いて帰宅すると日が暮れていた。

「…………」

 上がり框に腰かけて一息吐くとなみだが溢れた。その様子を見て、於瀧は黙って夕餉の支度を調えて、終えるとひっそり辞していった。 

 千代が一頻り泣いて顔を上げると目の前に立ったままの平尾丸がいた。

 ずるずる。

 はしたなく鼻を啜った。また泪が頬を伝うた。

「……もう」

 坐ったまま腕を伸ばして平尾丸を抱き寄せた。

「どうか、危ないことせんといて下さい」

 平尾丸の胸の辺りに鼻水がついた。


 千代の住まいは田の字造りの四室で、四室とも同じ二間四方あり、まあまあ広い。千代と平尾丸は納戸で夜具を二組並べて寝ている。

「……はあ」

 眠れない。何度溜息を吐いただろうか。

 今夜は月が明るい。

(…)

 青白い光が平尾丸の端正な顔を夜闇に浮かび上がらせた。

 ~

 ~

 ~

 ~

 ~

 ぼんやりと、何時までも眺めていられた。

(こんな御子に、あんなことがお出来になるやなんて…)

 岸十郎は酷い顔になっていた。鑰之助から筋が良いとは聞いていたが、まさか国主より感状を戴くような武者を無手で打ちのめすとは思わなかった。

 平尾丸の顔を具に見る。

 きりりとした眉、

 目は切れ長、

 鼻筋が通り、

 頬骨は高い。

 口は少し大きくて、

 少し厚めの唇。

 調いつつも逞しい顎筋が、

 端正な顔を男らしくしている。

「…………」

 この一月ひとつき如何に形容しようか言葉を探したけれど、どの言葉を宛てても陳腐になる。眉目秀麗とか、容貌魁偉とか、他にあるのかも知れないが、そんな言葉で済ませたくない。

(ちっとも似てないのに、なんでかなぁ)

 そんなことを暫く考えていると、漸く落ち着いて眠りに落ちた。

 今日は疲れた。


 夢を見た。

 顔は判然とせぬが、そこには九郞左衛門郷家がいた。

「ただいま」

 声は聞こえない。然しそう云われた気がした。

「お前様、お帰りなさいませ」

 泣いた。さめざめとではなく、わぁわぁと泣いた。

 多分、九郞左衛門郷家を困らせた。

 一頻ひとしきり泣いて、落ち着いて、ぽつぽつと今日のことを話した。

「それで怖なってしもて。でも御院さんからお預かりしたわけやし、やっぱり御立派になられて、愛いお嫁さんお迎えして、お子もお作り頂いてって、でも今日みたいなこと度々あったら、いつ何事あるかと…。」

 九郞左衛門郷家に纏まらぬ話を長々と捲し立てた。

 話し終えると千代はぽんぽんと頭を叩かれた。

 其れが嬉しくて千代はもっと九郞左衛門郷家に甘えようと思うた。

(嗟乎、お前様)

 相変わらず顔は判然とせぬが、それは確かに九郞左衛門郷家だった。

 夢の中だと頭では解っていた。だが道理を超えて嬉しかった。

(お前様…)

 千代は幸せに満たされた。鼻や耳から溢れ出ている気がした。

(前はあんまりこんなことして下さらんかったな)

 九郞左衛門郷家は奥床しい人だった。穏やかで、優しくて、愛して下さった。でもその愛情をなかなか外に示さない人だった。一緒に暮らす喜びはあったが、少し寂しかった。今宵は、愛情を示してくれた。

(嬉しいな。また会えた)


 ところが、である。

 朝日が差し、やおら目を開けると、平尾丸の顔がやけに近い。

(あれ?)

 平尾丸の息遣いが聞こえた。

「…………えっ?」

 何があったか、すぐには解らなかった。

(えっ、えっ、ええっ?)

 寝ぼけた頭を無理矢理起こし、先づは状況を整理する。

 九郞左衛門郷家の夢を見た。顔は見えなかった。声も聞こえなかった。だが九郞左衛門郷家だった。再会の喜びに打ち震えていた。

「あっ、そうか…」

 七年ぶりの幸せだったがあれは平尾丸だったのである。

 不思議と落ち着いていた。

 平尾丸を起こさぬようゆっくりと上体を起し、平尾丸の顔を見下ろす。

 背恰好こそ五尺近くあり、落ち着いて大人びている平尾丸。

 然し良いのだろうか。

(あわわわわ…)

 徐々に恥ずかしくなってきた。

(はわわわ、はわわわ…)

 必死に否定しようとするが、覆しようがない。

 将に今、平尾丸は此処にいる。

(どないしょ、そんな、あんな、その………)

 九郞左衛門郷家と信じてのこととはいえ、あらぬ醜態をさらした。

(そんな、ええっ!? ええっ!?)

 顔が熱い。きっと真っ赤だ。

 すると平尾丸の目が開いた。

 ぎくり。

 目が合った。

 平尾丸は寝ぼけ眼だ。

「あっ、そのっ……」

 咄嗟に言い訳を考えた。

「…………」

 平尾丸は黙ってじっと見つめる。

 …………。

 いつの間にか息を止めて黙ってしまった。

(あああ、どないしょ、どないしょ、どないしょ)

 焦る。何に焦っているか解らない。じっと見つめられ、必死に何か考える。

 …………。

 何も思い浮かばない。

「んんんっ」

 ただ驚くばかりだ。

「んんっ、んんんっ!」

 窒息しそうだ。

「あっ!」

 やっと息を吸う。

「はああ、はあ…」

 息を切らせて後ろに倒れ込んだ。

「はぁ、はぁ」

 …………。

「はぁ、はぁ」

 …………。

「はぁ、はぁ」

 …………。

 平尾丸はじっと見詰めている。

(近い、近いよ…)

 顔が近い。

「あっ、あきません!」

 堪らなく恥ずかった。

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