第二話 医方
冨田五郎右衛門隆家入道
与五郎景政は云う。
「小太刀を差した
与五郎景政は笑うているが笑い事ではなかった。剰りに盛源の兵法が名高き故に近頃は盛源の名を騙る不届き者が大勢いるらしい。なんでも近江や遠江、出雲の盲僧が脇差を腰に盛源を名乗って人々に銭をせびるのだとか。
「ええんですか、そんなん」
千代は商家の娘である。預り知らぬところで店の名で粗悪な品を売られるなど思いも寄らぬ。仮に盛源の半分程の腕もない者が盛源の名で兵法を売るなど考えられない。然し盛源は全く意に介さぬ様子で、
「よかろ、よかろ。それで誰ぞが飢えんで済むんやったら、そら儂の功徳やざ」
と笑うばかりだった。
冨田家伝の兵法は
冨田家は越前朝倉氏の被官ではないが一乗谷に拝領した屋敷の外庭を道場としている。門弟は国内外に二千人とも三千人とも云われ、普段は家長の与五郎景政が稽古をつけているが時折盛源も何人かの弟子を教えている。治部左衛門景家も存命ではあるが近年は
九郞左衛門郷家の七回忌から少し経ったある日のことである。千代がのろのろと起き出して濡縁でぼんやりと空の雲を眺めていると外庭の道場から何やらけたたましい声が聞こえてきた。兵法の道場であるから門弟の気合いや怒鳴り声が聞こえるのは当然のことだったがこの時は様子が違うた。何やら皆が慌てている。尋常ならざる気配を察して千代はふらりと下駄を履いて道場に足を向けた。
中条流冨田派の道場は陣幕を張って目隠しするのが慣しである。奥義を秘匿する為である。だから陣幕の前に至って千代は
「これはいかん。ぱっくりと割れておる」
与五郎景政の声であった。
「見せて」
気付くと千代は陣幕を潜っていた。其処には血塗れの若い門弟が倒れていた。
当たり前のことであるが兵法の稽古では時に門人は怪我をすることがある。故に兵法者なら皆ある程度は医方を心得ている。然し兵法者は医者ではない。時には手に餘ることもあった。この門弟の怪我は明らかに与五郎景政らの手に餘った。大怪我であった。
千代も医者ではない。然し薬問屋の娘である。そして亡夫九郞左衛門郷家は医者であった。医方の知識がそれなりにあり九郞左衛門が健在の頃には施術を手伝うことがあった。千代は九郞左衛門郷家を心の底から慕うていた。その一挙手一投足を具に憶えている。九郞左衛門がどのようにしていたか
(確か、こうして、こうして…)
斯様な時に九郞左衛門が如何にしていたかを思い起こしながら千代は急いで袖を千切って傷口を抑え、意識の清明や頭痛や吐き気、手足の痺れの有無を確かめて、血が止まると餘の門弟に指図して額を割った門弟…川崎
「あかん、お医者様呼ばな」
没頭して失念していた。すると
「っ…」
手当を終えたとみた川崎鑰之助は起き上がろうとした。
「あきません」
千代は慌てて強い調子で制した。
「暫くお静かに。よろしう御座いますね?」
それは命令だった。川崎鑰之助は黙って二度三度と頷いた。
「ふぅ…」
漸く一息吐いて、千代は真新しい鑰之助の額の縫い跡を見た。
(やってしもた…)
やり過ぎた。止血までは良いとして、縫合はやり過ぎていた。これは医者の領分である。医者を呼んで任せるべきであった。
然し未だ終っていない。早く医者に診せねばならなかった。
「与五郎様、お医者様をお呼び下され」
あろうことか千代は与五郎景政に指図した。
「心得た」
与五郎景政は弟子に任せることなく自ら駆けていった。
後ろ姿を見送って、再び臥する鑰之助に目を移す。
「今日は一日お静かにお過ごし頂きまする。もし眠気や頭痛、吐き気、眼がぼやけたり、二重に見えたり、顔とか手足とか痺れたら、すぐに申されませ。今日はお帰りになれぬと思しあれ」
内心やり過ぎとは思いつつ、九郞左衛門郷家の真似をした。
(与五郎殿のアホ)
千代は内心毒づいた。
「
与五郎景政が連れてきた医者は幾ら何でも立派すぎた。
三崎
そんな偉い人を大怪我とはいえ金創の為に呼ぶなど与五郎はアホである。玉雲軒が額を割った弟子の具合を診る傍らで千代はカチンコチンに恐縮していた。
「これは奥方が?」
玉雲軒が訊ねた。
「あの………拙う御座いましたか?」
顔色を窺いながら千代は恐る恐る訊ね返す。
「いやいや、見事なもんやなぁ、と」
玉雲軒は縫合した傷口を指差す。
「これは九郞左に教わったんかの」
「いえ、その、見様見真似で…」
「ほほう」
玉雲軒は千代の方に真っ直ぐ向き直る。
「奥方、幾つか確かめるぞ」
「はい…」
きっと叱られると思うた。
「この者の額が割れたと見て、先づどうされた」
「先づ血を止めねばと傷を抑えました」
「素手でか」
「いえ、袖を千切りました。ほんまは新品の布があればよう御座いましたが…」
「ほうか。で、次は」
「お名前と、お父上、御祖父様の名をお訊ねしました」
「何故?」
「気が確かか確かめとう御座いましたので」
「ふむ」
この調子で玉雲軒は暫く質問を続けた。
「……それで今日は帰さず、此処で一晩様子を見る、と」
「はい」
「お見事」
玉雲軒はパンと膝を打った。
「見立ても始末も正しい。咄嗟に能う出来たな」
なんと、三崎玉雲軒に褒められた。
「そんな、恥ずかしい限りで」
千代は益々恐縮する。
「血を止めるだけに留めて、お医者様をお呼びするべきを、餘計なことしてしもて…」
いう内にどんどん小さくなり泣きそうになった。
すると突然
「はっはっはっは!」
玉雲軒が哄笑した。
「どうした奥方、自信がないのかの!」
随分と砕けた調子である。
「九郞左の嫁がなんや。あやつの手伝いで身についたんやろう」
「はい…」
「あやつの腕が信じられんか」
「いえ、そんな…」
「なら己の腕も信じよ」
玉雲軒は穏やかに、そして力強く云うた。
「川崎の忰、一日静かに寝ておれ。奥方を困らせるなよ」
そういうと玉雲軒は千代を促して表座敷を出て濡縁に坐った。
「然し九郞左の奥方はたいそうな器量じゃと聞いておったが、まさか彼奴がこんな若い娘を嫁にしておったとはな」
千代は顔を真っ赤にする。若い娘だなんて。
「彼奴が逝って何年じゃ。三回忌が済んだくらいか」
「いえ、この間七回忌を勤めました」
「なにぃ、七回忌!」
やけに玉雲軒はやけに大袈裟に驚いた。
「奥方、幾つになる」
「二十六に御座います」
「なんと、二十六か。見えんなぁ…」
自覚はないが、千代は極端に若く見える。この六年殆ど容貌が変っていない。恰も雪に埋めて置いたかの如く人々が見た千代は殆ど六年前のままだった。元々十六七くらいに見えたから今は実の齢より十くらいは若く見えている。少し前まで青白かった肌も今はすっかり血色が良くなり、抜けるように白い肌には血管が透けて見え、そのきめ細やかさを際立たせ、肌艶からも十六七くらいにしか見えない。
「いや、失礼した。餘計なことを申した」
玉雲軒が頭を下げたので千代も釣られて頭を下げた。
「ところで奥方」
「はい。なんで御座いましょう」
「この庵は九郞左が亡うなった時のままか」
「あっ、はい……手付かずで…」
九郞左衛門が亡くなってから於瀧が埃を拭うなどはしていたが、千代はずっと寝て過ごしていたので九郞左衛門の遺品を整理するようなことはしていない。抑も千代にそんなことは出来ない。亡くなった日のままにしてある。
「ほうか。あやつ随分と本を集めておったんやなぁ」
弟子を寝かせた表座敷にも出居にも沢山の本が積まれている。人に借りては書写し、時には譲られ、また買い取り、千代を介して堺から取り寄せるなどして集めた医書だった。
「惜しい男を亡くした」
谷随一の医師三崎玉雲軒の言葉である。
「っ…」
これはいけない。千代の目から涙が零れた。
「これこれ泣くな。女子を泣かせるような色男に見えるか」
玉雲軒は戯れ言に慰める。
「はい、すびばせん…」
千代は鼻を啜って涙を拭く。
「奥方はこれらの本を読んだことはあるんかの」
「はい、目は通しております」
千代は九郞左衛門がいない寂寥を九郞左衛門が書いた字をなぞり九郞左衛門が読んだ字を追うことで慰めていた時期がある。九郞左衛門が残した蔵書は全て五遍は読んでいる。
「なるほどなぁ」
というと、玉雲軒は腕を組んで何やら思案をはじめた。
(なんやろ…)
千代は不安になったが、鼻を啜りながら玉雲軒が思案を終えるのを待った。
どれくらい待ったであろうか。随分経った気がする。やっと玉雲軒が思案を終えた。
「奥方」
「はい」
「九郞左の跡を継いでみんかや」
「えっ?」
出し抜けに何を云われたか理解出来ず千代は間の抜けた顔で玉雲軒を見た。
「はっはっは、奥方は愛いのう。九郞左が惚れるわけや」
九郞左衛門が千代に惚れたのではなく千代が九郞左衛門に惚れたのだが、それは今は関係ない。
「感心したわ。うちの弟子原にもこんなに能う出来る奴はそう多ない。九郞左にどの程度仕込まれたかは知らんが、あやつ、弟御に良い形見を残したな」
褒められて千代はどんどん小さくなる。
「冨田殿に呼ばれて参ったが、必要なかったわ。奥方の医方は谷のどの医者と比べても見劣りせん。自信を持たれよ」
「……お褒めの御言葉、勿体のう御座います…」
「勿体なくあるか」
玉雲軒の言葉は優しさに充ちている。
「ほやから九郞左の跡を継いで、この道場で医者をやってみぃ。あやつも此処で、冨田の門弟どもを診とったやろ」
「そんな、女子がお医者など…」
「現に出来ておるやないか。なに、心配するな。暫く面倒見たるわ。儂が参るなり弟子を寄越すなりして、奥方の医方を検分したる。それで此処の御弟子を診たれ。然すれば御弟子どもも安心して稽古に励めよう」
三崎玉雲軒ともあろう人がえらい入れ込みようである。それだけ九郞左衛門を惜しんでいるのか。或いはこの寡婦を慰めているのか。
斯くして千代は否も応もなく医者の真似事をすることになった。
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