第8話*Olivia

 ブルーム・ケンネルという犬舎が廃業になった。所属ハウンドのうち、成績優秀な五人を選び、一番優秀な者を「牡丹」、以下の四人を「四君子」と称し、四人にそれぞれ「蘭」「竹」「菊」「梅」を名乗らせていた。パクリだ。もうそれは完全なるパクリだ。そういうところがそもそも駄目だったのだろう、ろくにハウンドを集めることもできず、「ゲーム」の賞金も管理するといいつつ流用していたようで、給与未払いで現在訴訟を起こされている。ほかにも、ブッディズムに基づいているらしい「四天王」や、ギリシアやローマの神話から拝借した神々の名をハウンドに名乗らせていた犬舎があったけれど、軒並み潰れた。やはり、紛い物は本物に勝てないのだろう。

 私が所属している犬舎は、エクラン・ケンネルという。セレステ・ケンネルと一二を争うトップクラス、かつ古株の犬舎で、在籍しているハウンドには宝石の名前が付けられている。それぞれの名前は固定されているけれど、戦績が最も良い四人は四大宝石の名前を名乗っていて、これは場合によっては入れ替わりがある。十五歳でこの犬舎と契約したとき、私に与えられた名前は「コライユ」、珊瑚だった。

 十六歳のとき、犬舎がハンドラーを連れてきた。正しくは、ハンドラー候補、だ。中等科四年生、同い年の少年で、名前はジェイムス・ライト。最初の適合率は六一%。まだ彼のことを何も知らないのに、半ば強制的にペアリング前提での交流が始まった。嫌な奴だったらどうしよう、性格が合わなかったら? でも、ジェイムスは気さくで礼儀正しく、私たちが友人同士になるのに時間はかからなかった。

 中等科を卒業し、私もジェイムスも、養成校に入所した。ハンドラー候補は、修了を待たずに退学する人が多い。あの武器を用いた実習を受けて、ハンドラーになるのを断念する人が続出するのだ。ハウンド候補もあれで退学者が出るけれど、デビュー後はほぼハンドラーがあの苦痛を引き受けてくれるということで、何とか持ちこたえる人が多い。一方、ハンドラーのほうは、毎年それはもう大量の退学者が出る。だから、ハウンドの数に比べてハンドラーは常に人手不足の状態が続いている。別の見方をすれば、養成校を修了したハンドラーというのは、それだけでエリートだともいえる。ジェイムスがハンドラーになるのを諦めてしまったらどうしよう。その頃の私は、もう自分のハンドラーはジェイムスしかいないと思っていたから、それが気がかりで仕方なかった。

 そんな私の心配をよそに、ジェイムスは実習にもよく耐えて、晴れてハンドラーになった。彼は養成校の修了式当日に、支給された銀色のカラーを持ってまっすぐ犬舎にやってきた。そして入館のための二箇所の生体認証を通過し、ロビーにいた私に近づくと、急に跪いた。

「リヴィ! いや、オリヴィア・メイヤーズさん……コライユ」

「……ジェイミー、恥ずかしいからやめて」

「え? そう?」

「騎士の位を授かろうとする人じゃないんだから」

「そういえばそんな感じだ。大袈裟だったか」

ジェイムスは笑って、立ち上がった。いつの間にか、彼のほうが背が高くなっている。

「では改めて、リヴィ。俺のハウンドになってくれる?」

さっきはさっきで大仰だったけど、こんな立ち話みたいなのもちょっと違う気がする。でも、

「うん。よろしく」

私は彼の目を見てしっかりと頷いた。

 その頃には適合率も上昇していたし、私たちは、自分たちが思っていた以上に「強い」のだということがわかり始めていた。ハンドラーのほうが年上のペアの場合、ハウンドは規定上最年少の一六歳から「ゲーム」に参加できる場合がある。ハウンドが一六のとき、既に養成校を修了した正式なハンドラーとペアになっていればいい。私たちの場合、「ゲーム」デビューは一九歳半ばだった。ジェイムスと私は同い年で、中等科卒業後に一年半養成校で学んだから、必然的にそうなった。そして、自分で言うと偉そうに聞こえるかもしれないが、私たちは強かった。アリーナで対戦するたびに敗北よりも勝利の数が増え続け、一六歳で既にアリーナに立ち始めたハウンドが六割程度の勝率に甘んじているなか、私たちの勝率は、デビュー後一年と少しを過ぎたころには八割を超えてしまった。


 ブノワ社長に呼び出されたのは、そんなときだった。エクラン・ケンネルの「ピエル・プレシューズ」に認定する、と言われたのだ。エクランで最も戦績の良い四人が名乗ることのできる、四大宝石の名前。ディアマン、エムロード、リュビ、サフィール。私には、赤い宝石、「リュビ」の名前が与えられるという。それはつまり、現在の「リュビ」であるマティアス・ヴァルトが「降格」することを意味していた。

 確かに最近、マティアスは敗戦続きだ。でもそれはマティアスのハンドラーの体調不良によるところが大きく、マティアス本人の責任だとは言い難い。犬舎は営利企業なのでシビアなところがあって、適合率が低いままのペアや負けが続くペアは、犬舎の意向でハンドラーが差し替えられることがある。現「ディアマン」も、一度ハンドラーが変わっている。「リュビ」も、ハンドラーに問題ありということで、当初は差し替えが検討されていたらしい。ところが、ハウンドであるマティアスがそれをかたくなに拒み、ハンドラーを変えるくらいなら、ピエル・プレシューズのリュビを辞めてもいいと言ったのだという。私には、マティアスの気持ちがよくわかる。人によるとは思うけれど、ハンドラーは運命の人みたいなもので、長く一緒に過ごしたハンドラーとの絆はそう簡単に断ち切ることなどできない。私だって、今更ジェイムス以外のハンドラーとペアになるなんて考えられない。

 マティアスは既に「リュビ」を返上すると決心しているらしく、元の「イオリット」の名前に戻るつもりでいるらしい。そのような事情もあって、空席になった「リュビ」が私に回ってきたということだ。

「どうだい? 引き受けてくれるかな?」

エクラン・ケンネル所属のハウンドとはいえ、社長と直接話す機会など滅多にない。私は、緊張のあまり固まってしまった喉の筋肉を何とか動かして、小声で「はい」と答えた。ピエル・プレシューズの一員になればメディアなどへの露出の機会が増え、犬舎が設定している対戦による収入も一気に増大する。ハウンドを目ざした以上、そしてエクラン・ケンネルに籍を置く以上は、誰もがこの機会を逃したくないはずだ。

「良かった。君はここのところ、抜群の好成績だからね。ディアマンも――マリアも、君には一目置いてるみたいだよ」

「え、マリアさんが……」

エクランのハウンドなら、いや、ハウンドなら誰もが憧れているといっても過言ではないあのマリア・ロペス・ガルシアが、私に注目してくれている――。社長の一言は、私の浅ましい虚栄心をも満たした。

「それから、今はまだここだけの話にしてほしいんだが」

「はい」

「近々、『サフィール』も入れ替える」

「そうなんですか」

現サフィールは、オーリガ・ペトロヴァ。舞うような優雅な動きで対戦相手を追い詰める姿に定評がある。彼女がどうして。

「オーリガも悪くない。が、ここにきて急成長している子がいてね」

オーリガの直近十対戦の成績は七勝三敗。決して悪くはない。ただ、社長が言うには、直近で九勝一敗、通算勝率が八割二分に達するハウンドがいるのだという。そんなにすごい子がいただろうか。皆の顔を思い浮かべていて、はっとした。

「ラーシュ、ですか?」

「おや。君も気づいたか。そう。ラーシュ・カールソン。ラピスだ。彼が最近強いんだ。勝率が一気に跳ね上がった」

整った環境でよく訓練された犬舎のハウンドであっても、勝率八割超えというのはなかなかいない。ハウンド本人が優秀でもハンドラーが弱ければ勝てないし、ハンドラーがいかにタフでも、ハウンドのメンタルが弱いと負ける。優しい気性のハウンドは、ときにハンドラーに負担を強いることに耐えられなくなるから。

「ハンドラーとの付き合い方のコツがつかめたのかな、急に勝てるようになったんだよ。ラピスは」

確かにそうだった。最近、彼が負けたという話を聞いたことがない。ラーシュなら戦績も抜群だし、見た目も華やかで、ピエル・プレシューズの一員になればファンも一挙に増えるだろう。ファン、つまりエクラン・ケンネルの売り上げに貢献してくれる人たちが。

「でも、オーリガは納得しますか?」

「数字を見せれば納得せざるを得ないだろう。ディアマン、エムロードと比べると劣っているし、直近ではラピスに抜かれている。ここエクランでは、四大宝石にはいつも輝いていてもらわなければならないからね」

社長は、暗に私にも警告している。勝率が下がれば、お前もいつでも差替えるぞ、と。ディアマンは八割六分、エムロードのイグナス・ノヴァクも強くて八割四分から五分の勝率を維持している。新たなサフィール候補であるラーシュも八割二分。私も最低限八割二、三分ほどは保てなければ危ういということなのだろう。

「『リュビ』と『サフィール』の入れ替えで、君をどちらにしようかと思っていたんだけどね」

今しがたの、私の心の内を見透かそうとするかのような表情を崩し、社長が軽い口調で続ける。

「ちょうど君が『コライユ』、ラーシュが『ラピス』だろう? 赤と青の色のイメージをそのまま活かせるから、君を『リュビ』に指名しようと思うんだ」

確かに私は、「コライユ」の名前にちなんで赤やピンクの珊瑚のアクセサリーを身につけたり、対戦のときも意識的に赤系統の色をどこかに用いるようにしたりしていた。ラーシュも、黒髪の一部に青いメッシュを入れている。あれは多分ラピスの、瑠璃の色を意識しているのだと思う。

「どうかな? サフィールのほうがいい?」

「いえ、リュビがいいです。ピエル・プレシューズの名を汚さないように頑張ります」

「ははは、名を汚さないようにとは、また大層な覚悟だね。よろしい」

 辞令は改めてと告げられ、短い面談は終了した。まだどこか現実味のない気持ちを抱えたまま、私はすぐにジェイムスに連絡した。

「ええ!? 『リュビ』に!? エクランの最強軍団入りじゃないか!」

モバイル越しにもジェイムスの興奮が伝わってくる。四大宝石に列することは、私たちエクランのハウンドにとって特別で名誉あることなのと同時に、ハンドラーにとっても特別なことらしい。

「すごい! すごいよ! 俺、『リュビ』のハンドラーになるのか……」

「すごいすごいって、ジェイミーがいつも頑張ってくれるからだよ」

「違うよ、二人で頑張った結果だ。確かに、俺たち強いもんな」

話しているうちに、徐々に実感がわいてくる。私が。この私が、エクランのピエル・プレシューズに。マリアさんやイグナスさんと同等の立場に。確かに私は、私たちは強い。自惚れではなく、それはわかっていた。それが、いつの間にか「リュビ」を名乗れるほど強くなっていたとは。

「リヴィ? オリヴィア? 聞こえてるか?」

「あ、うん」

「これからもガンガン行こうぜ。勝ちまくってやろう」

「でも、無理はやめてよ?」

「わかってるって」

ジェイムスの高揚した声を聞いていると、私もますます嬉しくなった。


 髪を赤く染めることにした。とはいえ、いきなり全部真っ赤にするのは自信がなくて、ひとまずインナーカラーで試すことにする。

「赤、ね。ピンクじゃないのね?」

「はい。宝石のルビーみたいな感じで」

「ルビーみたいな?」

常連客から「マダム」と呼ばれているベテラン美容師は、私がエクラン・ケンネルのコライユだということを知っている。正式な辞令も出たことだし、別に隠すことでもないので、私はこのたび「リュビ」に決まったのだということを説明した。

「あらまあ! それはおめでとう! そういえばあなたたち、強いものねえ」

「ありがとうございます、マダム」

「エマにも話していいかしら。あの子、今日は夕方に顔を見せると思うんだけど」

「ええ、もちろん」

マダムの姪で、この美容室でアルバイトしているエマという女の子は、現在養成校に通っている。ハンドラーを目指しているらしい。美容師を本業として、ハンドラーを兼任するつもりなのだそうだ。養成校修了後は、技能校で美容師の勉強をするのだという。もしあの子がエクランのハウンドを選ぶなら、この先、顔を会わせる機会も増えるのかな。

「そういうことなら、うんと綺麗に仕上げましょう。ルビーみたいな美しい赤に、ね」

 マダムはその言葉どおり、完璧に仕上げてくれた。襟足から覗く赤。髪を払うとブラウンの中からルビーの色が一気に広がる。私は、せっかく綺麗にセットしてもらった髪を、鏡の前で何度もかき上げたり、払ったり、頭を大きく振って乱してみたりした。マダムが苦笑しているのが鏡越しに見える。

「ごめんなさい、せっかく――」

「わかってるわよ、アリーナで動くときにどんなふうに見えるのか、確認したいのよね」

「はい……」

「あとでもう一度ちゃんとセットしてあげるから、思う存分バサバサしなさいな」

この店の常連には、ハウンドも何人かいる。マダムは事情をよく知ってくれているのでありがたい。

「勝ったとき、右手を上げるじゃない? あのときに、こう、髪を払って、ぱっと赤く見えるときっと素敵よ」

私もそう思う。闘技場では、降伏宣言した側のハウンドは武具を置いて片膝をつく。勝者側のハウンドは立って、相手のカラーを取り上げた右手を上げて観客席を見渡す。そのときにこの綺麗な赤い髪はきっと映えるはずだ。多分、エクラン以外の犬舎もそうだと思うのだけれど、犬舎では「ゲーム」において「自分を、観客にどのように見せるか」なども教わる。腕の払い方、踏み込み方、目線やお辞儀の角度まで。犬舎に戻ったら、この綺麗に染めてもらった赤い髪を見てもらおう。そして、どんなふうにすれば、見てくれている人たちに一番魅力的に映るのか、いろいろ聞いてみよう。


 「リュビ」としての初対戦は、意外と早くやってきた。相手はポラリス・ケンネルのハウンド。はじめて対戦する相手だ。

「大丈夫そう?」

控室で武具を点検している私に、ジェイムスが言う。

「私はね。ジェイミーは?」

「向こうのハンドラー、知ってる奴なんだよ。経験積んでどうなってるかはわからないけど、昔のままだったとしたら勝てる」

「養成校の同期とか?」

「一学年違い。あっちが下」

「どんなタイプなの?」

「結構耐えるけど、溜め込みすぎて弾ける感じ」

「――なるほど。全然わからないわ」

「わかんないかなぁ」

殊勝にも「昔のままなら」なんて言うものの、ジェイムスの顔を見ればわかる。勝てる自信があるのだ。私は、サーベル状の武具の、そこだけが物理的実体を持っているヒルトを握り、二度ほど振ってみて感触を確認する。

「向こうのハウンドは、何て名前?」

「えっと、コミヤ……だっけ? これってファミリーネームかな?」

「武具が日本刀っぽいね。刀身が長いな……」

「悪い。ハウンドのほう、あんまり見てなかった」

まあ、そうなるよね。ハンドラーが知り合いだったなら、ついそっちに注目してしまうのはわかる。それに、相手がどんなハウンドであろうと、今日も負ける気がしない。

「攻撃、今回は背面からが効果的かもな」

「どうして?」

「背中側の傷って、目視できないだろ? 鏡を使ったりしないと」

「ああ、まずは目で見て傷がないことを自覚しろ、っていう、あの認知修正の第一歩がやりづらいってこと?」

「そうそう」

でも、ハウンドならともかく、ハンドラーはそんな初歩的なことは織り込み済みで、彼らの「技術」は傷の有無を視認するとかどうとかいう段階など超えているはずなんだけれど。

「今日の相手は、ってこと」

私が不思議そうな顔をしているのを見て、ジェイムスが補足してくれた。

「向こうのハンドラーを知ってるって言ったろ? あいつは視覚に頼りすぎなところがあってさ。まあ、養成校出てから何度も対戦こなしてるだろうから、もう克服してるかもだけど」

そういうことなら、頭に入れておこう。背後を取れるような立ち回りができるかどうか、わからないけど。

 カラーを着け、二人でログインして、東エントランスから闘技場のゲートへ向かう。ついている。東側だったときには、一度も負けていない。そのまま進んで、西のゲートから入場してきたコミヤと、闘技場の中央で対峙した。男性? 女性? 見た目からは判別しづらい。年は十代後半かな。お互いに、武具を脇に控えて一礼し、観客席の方に向かってもう一度頭を下げる。再び相手と向き合い、息を整えて待つ。対戦開始の電子音。

 相手はすぐには動かなかった。私もまだ動かず、間合いをはかる。右か、左か、上か、下か、それとも突きで来るか。お互いに、武具の刀身は長い。離れているより踏み込んで短刀を使ったほうがいいのか。あ、左から来る。高めだ――。

「下に避けろ!」

私がコミヤの動きを予測した瞬間、ジェイムスも同じ判断を下したらしい。指示を聞いて動いたのではなく、指示と体の動きがたまたま一致したみたいな感じだった。ひりついた緊張感に満たされ張りつめていた空気が一挙に弾け、そこからは斬りあいになった。ただし、斬りつければ受け止められ、刺し通そうとすれば躱され、お互いに相手の身体へはなかなか刀身を当てることができない。サーベル状の私の武具と、日本刀状のコミヤの武具が何度も噛みあう。立体映像の技術を応用したなんていうけど、この刀身が実体のないものだなんて未だに信じられない。重さも感じるし、相手の武具と接触したときの反動もちゃんと感じる。ご丁寧に音まで鳴るようになっている。まるで本物の剣で切り結んでいるかのようだ。

 斬りあいながら、コミヤの体勢の不自然さに気付いた。どうも足を傷めているように見える。左足を踏み込むときに、毎回右足のほうへ体重を逃すような姿勢になったり、前傾する胴体を膝ではなく腰で支えようとしたりしている。接地している足の動きからすると、足首ではなく膝か。怪我でもしているのだろうか。それならゲームをキャンセルするという選択もあったのに、無理して対戦に臨まなければならない理由でもあるのだろうか。それとも――。一瞬、とても嫌な想像がよぎってしまった。エクランとしては、「リュビ」のデビュー戦をまさか敗北で終えるわけにはいかない。とはいえ、一〇〇%勝てると断言できるものでもない。まさか、まさか私が今日の対戦で必ず勝つように、万全ではない相手を用意したってことじゃないだろうか。もしくは、万全だったコミヤを、対戦直前に何らかの方法で傷つけたのでは。あの人の指示で、誰かが、

「リヴィ! どうした、がら空きになっ……」

え――。左足に酷い衝撃を感じて、私は視線を下げた。大腿部に、コミヤの刀が深々と刺さっている。体表側から刺さった刀身は、腿を突き抜けて背面側に切っ先を覗かせていた。コミヤは、私の大腿部に刺した刀身を抜くのではなく、そのまま肉を裂くように動かそうとする。まるで仕留めた獣を解体するみたいに。ジェイムスの喘鳴が聞える。しまった――!

 動揺。一瞬の混乱。しかし、見た目は大惨事なのに痛みを感じないハウンドだからこそ、すぐに次の手を考えるだけの冷静さを取り戻せた。私に刀を突き立ててしまった以上、その刀で私をどうにかしようとしている以上、今コミヤは私から遠くに離れられない。心の中でジェイムスに謝って、敢えて刺された左足を軸足に、私は右足で目の前の相手の左膝を蹴りつけた。この程度の蹴りならルール違反ではない。カラーをとおしてジェイムスの悲鳴が聞こえたのと同時に、コミヤが呻いてたたらを踏む。やはり膝を傷めているのだ。思わず両手で膝を覆って支える体勢をとったコミヤから二歩ほど下がった。自分の腿に刺さったままの刀を抜くために、その柄を握る。対戦中に相手の武具のヒルトをつかむなんて初めてだった。自分のものと同じように、重量や、肉に刺さった感覚がある。視覚が伝えるこの状況で何も痛みを感じていないことが、むしろ大きな違和感となって私の脳を困惑させる。落ち着け。痛覚は、ハンドラーというもう一つの脳が処理している――。大腿部を貫いた刀を何とかそのまま抜こうとしたけれど、刀身の長さもあって、抜くだけでさらに腿の筋肉を傷つけてしまった。バーチャルに。

「ジェイミー、ごめんね」

「……いいから相手を見るんだ。短刀も持ってる」

「大丈夫」

日本刀状の武具を落とし、思いっきり遠くへ蹴り飛ばす。これでコミヤの武具はあの短刀だけ。私の武具の刀身の長さを考えれば、そしてコミヤの膝の状態を思えば、こちらが有利だ。あの短刀を投げてくる可能性もあるが、飛んでくるものへの対処については自信がある。得意だと言ってもいい。頭上に、あまりにも大きく振りかぶるのは避ける。懐に飛び込ませない。接近されそうになったら薙ぎ払う。それでも近づかせてしまったら、容赦なく足を狙う。ハンドラーへのダメージにはならないが、ハウンド自身の体勢を崩すことができる。そうすればあとは背面を中心に滅多刺しだ。

 自分の動き方の基本を一とおり思い描き、私は攻めの一歩を踏み出した。


 やはり膝を傷めていたのだ。敗北宣言のあと、コミヤは闘技場に片膝をつくことがかなり難しい様子だった。私は、そんな彼――か、彼女か、結局分からないままなのだけれど――のカラーを外して立ち上がり、次いで顔を上げて髪を払い、コミヤのカラーをつかんだ右手を高く上げた。対戦中にもちらちら見えていたとは思うけれど、今、綺麗に染めてもらった赤い髪が改めて露わになって、観客席から一層大きな声が上がる。「リュビ」と連呼する声も聞こえてきた。勝った。勝てた。

「大丈夫?」

カラーを返すとき、片膝をついた状態から今度は立ち上がることができないでいるコミヤに、私は思わず手を差しのべた。拒絶されるかも、怒らせてしまうかも、と思ったけれど、コミヤは素直に私の手に縋り、「すみません」と小声で謝って何とか立ち上がった。声を聞いても性別不明のままだった。

「膝……」

私が問いかけたのを遮るようにコミヤが軽く首を横に振り、軽く目礼して、左足を庇うようなぎこちない歩き方で西ゲートへ去っていく。今のはどう理解すればいいのだろう――。

 ブースでは、ジェイムスが専用チェアのうえで伸びていた。

「ごめんね」

「いい、いい。結果良ければすべてよし、だ。まあ、相手が目の前にいるのに考え事ってのは、大いに反省してほしいけどな」

「そのことなんだけど……」

私は、あのとき抱いた懸念をジェイムスに打ち明けた。私を勝たせるために、何らかの不正があったのではないか。

「いや、それはないだろ。いくら何でも」

ジェイムスは鎮静剤の吸引機を外して、チェアに座り直した。

「でも、実際に怪我か何かしたままでアリーナに立つと思う? 絶対的に不利だってわかってるじゃない」

「それはまあ……。でも、偶然ギリギリで怪我した可能性だってあるよな?」

「たとえば?」

「……トイレでこけたとか」

「ありえないとは言わないけど……」

ジェイムスの答えもどこかしら歯切れが悪い。やっぱり、同じ疑念を抱いたのだ。

「でも、そんなことできるかな。八百長なんて」

「社長がどのくらい影響力のある人なのかわからないけど、噂は時々聞くよね……」

清浄な水に滴り落ちた一滴の黒いインク。それは薄くなりながら拡散し、目には見えなくなるかもしれないけれど、決してなくなってしまうわけではない。その水は、もう元の水ではないのだ。黒い靄が、少しずつ胸の内を侵食していくようだった。

 髪も染めて、ピアスも珊瑚からルビーに替えて、新たな気持ちで臨んだ今日の対戦だった。せっかく勝ったというのに、この後味の悪さはどうしたことだろう。

――紛い物は本物には勝てない。

私は、本物の「リュビ」なのだろうか。紛い物の赤い石ではなく、本当に「リュビ」としてスタートを切ったのだろうか。黙り込んでしまったジェイムスの横顔を見つめたまま、私も長い間何も言えずにいた。こんなに不安だらけの門出になるなんて、対戦前にはまったく考えもしなかったのに……。

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