第7話*Karel
中等科に進んでしばらくした頃、いくつかの犬舎のスカウトが立て続けに僕に会いに来た。正直、当時の僕は「ゲーム」にはほとんど興味がなかったし、あんな不安定なことを職業にして食べていくなんて無理だと思っていた。でも、子どもの自尊心をくすぐってその気にさせることに、大人たちはとても長けていた。促されるままに犬舎の見学に行き、スターと称されるハウンドたちと交流を持ち、気づけば僕はすっかりハウンドに魅せられていた。アリーナで対戦相手を制圧して喝采を浴びてみたい。そのときどんな気持ちになるのか、自分もそれを味わってみたい。
僕の親は、母さんがC因子持ちだ。でも、ハウンドにはならなかった。人前で見世物として戦って観客の賭けの対象になるなんて、そんな下品なことはまっぴら御免だと言っていた。だから僕が犬舎と契約することには大反対するのだろうと思っていた。ところが、犬舎からスカウトされた、ハウンドを目指してみたいと話すと、母さんはあっさりと承諾してくれたのだ。父さんも乗り気だったし、反対されることを覚悟して打ち明けた身としては何だか拍子抜けしてしまった。そしてそのまま、あまりにも何事もなく中等科二年のときに正式にセレステ・ケンネルと契約し、現在に至っている。
僕のハンドラーは、エリカさんという女の人だ。僕より七歳も年上だからなのか、とにかく僕を子ども扱いする。僕だって十六歳になって、もうハウンドとして何度もアリーナにも立っているのに。別にエリカさんが大人ぶっているというわけではない。どちらかというとエリカさんは子どもっぽい。というか、ちょっとヘンだ。この前も、可愛いくせにやたらと強いハウンドのマリエルが、エクランのサフィールとたまたま隣同士に座っているのを見て、「二次元が立体化している!」とか「二・五次元というより、もはや二・八次元!」とか、わけのわからない叫び声を上げていた。何だよ、二・八次元って。もはや、って意味もわからないし。
でも、エリカさんがマリエルやサフィールに興奮(?)するのもわかる。エリカさんは、人でも物でも食べ物でも風景でも、綺麗なものが好きなのだと公言しているから。確かに、エリカさんのモバイルのカメラロールはそんな写真でいっぱいだ。朝焼けなのか夕焼けなのか、薄い水色の空を背景にしたピンク色とオレンジ色の間みたいな色の雲。グラスの中で氷にまとわりつきながら立ち上っている炭酸水の泡。極彩色の羽の鳥。凝ったデザインのケーキ。満開のイペ。キラキラの鉱石。親しい人を振り向いた瞬間みたいな、誰かの素敵な笑顔。そんな、綺麗なものが大好きなエリカさんだから、本当は僕なんかじゃなく、マリエルやサフィールみたいなハウンドのハンドラーになりたかったんじゃないだろうか。それを考えると、いつも心の隅っこがちょっと痛くなる。
今日の対戦は、そのサフィールが在籍しているエクラン・ケンネルのハウンドが相手だった。エクラン・ケンネルは、僕が所属するセレステ・ケンネルと一二を争う規模の犬舎だ。所属ハウンドの数、設備、収益、そして人気、どれをとってもいつも競いあっているライバル同士だ。だから、セレステとエクランのハウンドの対戦となると、他より注目度が上がる。今日も、対戦直前の掛け金総額を見てちょっと緊張してしまった。これだけの人が、僕の勝利に期待してくれているのだ。幸いにもというべきか、相手はエクランとはいえ雑魚レベルの(エクランの中では、だ)ハウンドだったので、何とか勝つことができた。エクランのハウンドには、宝石の名前がついている。今日の相手は「モリオン」と名乗っていた。黒水晶だ。黒水晶という名のくせに、赤茶けた髪のハウンドだった。彼らの宝石名は、何を基準につけられているのかよくわからない。サフィールが黒髪の一部をわざわざ青く染めているみたいに、モリオンも何か黒水晶を連想させるような出で立ちにすればいいのに。
「今日も頑張ったね!」
ハンドラーのブースに向かっていた僕は、ブースからこちらに向かってきていたエリカさんと通路の途中で出くわした。彼女が僕の両手を握ってぶんぶん振る。
「頑張ったのは僕じゃなくてエリカさんでしょ」
「もー! またそういう言い方する。可愛くないぞ」
可愛いかどうかは知らないけど、間違ったことは言ってない。僕は闘技場で、刺されようが斬られようが痛くも痒くもない武器を振り回しているだけだ。本来なら武器を振るう人間が受けるはずの痛みは、全部エリカさんが肩代わりしてくれている。僕がどれほど頑張ろうが、手を抜こうが、エリカさんが強いから勝てるのだ。
「ごめんなさい。何回も斬られて」
「そんなことで謝らないの。これは役割分担なんだから」
「でも、ハンドラーのほうが損してると思う」
「ハウンドはみんなそう言うけど、優秀なハンドラーはちゃんと対処できるから大丈夫よ。そして、私は優秀なのです」
エリカさんはふんぞり返るみたいにして胸を張り――何でか、この人は変なポーズをとりたがる――ニコニコ顔でそう言ってくれる。でも、あれがどんなに凶悪な武器なのか、僕だって知ってる。犬舎での訓練で初めてあれを体験したときは、痛すぎて泣いた。嘔吐する奴もいた。どうやって耐えるのかいろいろ教えられたけど、そんなの毎回上手くできるわけない。
実際にはハウンドがあの武器での痛みを感じることはほとんどなくて、ハンドラーが代わりに引き受けてくれるわけだけど、あんな酷い痛みに耐えさせているのだと思うと、辛い。だから、一瞬でも気を抜かないようにして、できるだけ短時間で相手を制圧しようと手を尽くす。もちろん、相手も全く同じことを考えているわけだから、なかなか思いどおりにはいかない。相手を制圧する――相手に降伏宣言を出させるということは、相手のハンドラーにもうこれ以上は無理と思わせるということだ。つまり、エリカさんには極力痛い思いをさせたくない一方で、相手のハンドラーには耐えられないほどのダメージを与えるということなのだ。ときどき、何でこんなことしてるんだろうと思ってしまう。母さんが「下品な見世物」といった理由がよくわかる。ハウンドになるという選択をしなかったことも。
「まーた何か余計なこと考えてるでしょう」
「いや別に……」
「んもー、可愛いんだから! 可愛い子!!」
こっちは深刻に悩んでいるというのに、エリカさんはまた妙なポーズで大袈裟な声を上げると、僕を思いっきり抱きしめてきた。
「ちょ、ちょっと! エリカさん!」
僕のほうが、エリカさんより頭二つほど背が低い。そのせいで、強くハグされるとどうしてもエリカさんの胸に顔が埋もれてしまう。何とかして離れようとしているのに、エリカさんはそんなことお構いなしで、胸にぎゅうぎゅうに抱きしめた僕の頭にぐりぐりと頬を押しつけてくる。
「もうっエリカさんっ、セクハラだよ!」
「え、ごめん……」
一瞬でしゅんと項垂れてしまったエリカさんを見て、悪いことを言ってしまったと後悔した。
「あ、いや……その、僕がエリカさんにセクハラしてるみたいになっちゃうから……」
「なんだ、それなら平気平気。セクハラは、されたほうがセクハラだと思ったらセクハラなんだから。私はセクハラだなんて全然思ってないよ!」
短い言葉の間で何回も「セクハラ」を繰り返して、エリカさんが笑顔で僕の頭を撫でる。さっきまでの対戦で乱れはしたけど一応はちゃんとセットしていた髪が、エリカさんに撫でまわされてぐしゃぐしゃになる。これこそ、なんとかハラスメントと名付けてやりたい。もう小さな子どもじゃないんだから、こんな触り方しなくていいのに。
今日の対戦でも僕は何度も斬られてしまったし、数回は深く刺されもした。そのたびに振り向いてブースを確認したくなる気持ちをぐっと抑えて、何とか手数を多くしてモリオンを斬りまくった。早く降参しろ、これ以上お互いのハンドラーを苦しめないために、早く負けたと宣言してくれ――そう祈りながら滅茶苦茶に武器を振り回した。全然優雅じゃなかった。こればかりは経験の差でどうしようもないと思うのだけど、ハウンドによってはものすごく美しく立ち回る人がいる。相手に猛攻を仕掛けているときも、舞でも舞っているかのような流麗な動きを見せるのだ。何も無駄にひらひらと手足を動かしているという意味じゃない。攻撃としては効率よく、的確に相手の身体に武器をヒットさせている。なのに、その一連の動きがなめらかで、とても綺麗なのだ。僕もあんなふうに動けるようになりたい。今はまだ、癇癪をおこした子どもが暴れまくるみたいな雑な動き方しかできないけど。
とにかく、暴れまわって何とかモリオンのハンドラーから降伏宣言を引き出し、僕は闘技場で型どおりの勝利宣言と対戦終了の挨拶を済ませると、すぐにエリカさんのいるブースに走った。きっと今日は大変だったはずだ。僕がもう少し強ければ、エリカさんをあんな目に遭わせないで済むのに。ところが、エリカさんはブースから出て闘技場への廊下をこちらに向かっていたのだった。
「エリカさん! 大丈夫なの!?」
「平気だよー。お疲れ様、カレル」
そうして、「今日も頑張ったね!」と、僕の両手を握ってくれたのだ。
エリカさんは、少しだけ吸入器で鎮静剤を吸い込んでいたけど、すぐにそれを放り出してブースから出てきたらしい。もっと落ち着いて、体が平常通りになるまでじっとしていてほしいのに。
「大丈夫よ。ほら、どこもどうもないでしょ? カレルにセクハラの心配されるぐらい元気だから」
「このままメンテナンスに行く?」
「そうね、早く済ませちゃおう。今日この後取材が入ってるから」
そうだった。今日は、対戦後にウェブメディアの取材と、それとは別の写真撮影があるのだった。エリカさんにぐしゃぐしゃにされた髪を何とかしようとしていると、
「大丈夫よぅ、撮影前にはプロの人がちゃんと整えてくれるから」
そう言って、エリカさんがまた僕の頭を撫でまわした。
「やめてよ、もう」
「だって可愛いんだもん」
もう半ば諦めの境地に達していた僕は、それでもとりあえず拒絶の言葉を口にしておく。案の定、エリカさんは僕の文句など全く気にせず、さらに頭を撫でてくる。こんなガサツなところがある人なのに、僕が本当に嫌だと思って言ったことには不思議と真面目に対応してくれる。大人の人だからわかるのか、エリカさんの勘が人より鋭いのか、それとも――エリカさんにとって、僕が特別だから、なのか。もちろん、僕がエリカさんのハウンドだからという意味だけど。
普通だ。いつものエリカさんだ。今日の僕はあれだけ押され気味だったのに、じゃあやっぱり本人の言うとおりエリカさん自身は大したことなかったのだろうか。ハンドラーは、世界一性格が捻じ曲がった人が考案したみたいなあの武器で受傷した痛みを、「騙されている自分の脳を騙し返す」ことでやり過ごすのだという。でも、それって簡単に聞こえるけど実際はなかなか難しい。訓練のときに僕らは、怪我をしたと思いこんでいる体の部位を、まずは自分の目でしっかり見ろと言われた。見て、傷などないことを自覚する。触ってみて、どこも何ともないと頭に叩き込む。怪我していないのだから血も出ていない、痛いはずもない、と自分の意識を誘導するのだと教わった。頭ではわかる。でも現実として死にそうなほど痛いのに、ものすごく出血していて拍動のたびにどんどん失血していく実感があるのに、「ほら大丈夫」と言われて「ああ、そうですね」とはならない。ハンドラーは役割上この訓練を徹底して受けていて、「自分の脳を騙す」テクニックもよく身につけている。ハウンド以上に、この武器でのバーチャルな怪我に対して耐性が高い。もちろん、同じハンドラーでも人それぞれで、上手な人と下手クソな人がいるみたいだし、そもそもの本人の資質――我慢強さが関わってくる部分も大きい。でも、いずれにせよ僕らよりはずっと上手にこの武器からのダメージを受け流せる。
「エリカさん」
「うん?」
「ほんとに大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。えー、何何、心配してくれてるの?」
「当たり前でしょ」
「もー! 可愛い! 可愛い!!」
まただ。僕の髪がどんどん乱れていく。
そんなわけで、トリートメントをほとんどすっ飛ばしたエリカさんは、メンテナンスルームに消えていった。僕も、ハウンド用のメンテナンスルームに向かう。上体が少し起きるように傾斜のついた専用の寝台に仰向けに横たわると、腕と胴体が固定され、白いアームが伸びてきて採血が始まる。同時に、心電図測定のときみたいなパッドが体の数か所と額に貼り付けられ、何かの作動音や低周波っぽい響きが微かに聞こえてきた。かつては職員が行っていたというこれらの作業は、今では全自動化されて機械がこなしている。検査される側である僕は初めちょっと不安だったけど、そのうち慣れた。採血が済むと顔の前にマスクが下りてきて、いつもの、少し頭がふわっとする感じのガスを吸わされる。うつらうつらしている間に何かいろいろ検査や測定をされているのがうっすらと認識できるけど、何を調べているのかはわからない。あんまり興味もないから、いつものように目を閉じて何も考えずにぼんやりしているうちに、少し眠ってしまったらしい。「コンプリート」という機械音声で目が覚めた。寝台に横たわったまま待っていると、また白いアームが伸びてきて、僕の体に貼り付けられていたパッドを取り外してくれる。腕や体の固定具も外れ、
「お疲れさまでした。メンテナンスを終了します。退室してください」
と、先ほどの機械音声よりはずっと自然な、人間っぽい合成音声が流れた。若いけど落ち着いた感じの女性の声。
メンテナンスルームを出ると、先に検査が終わっていたらしいエリカさんが、ドア前のベンチに座って待ってくれていた。膝の上に、アリーナの備品であるタブレットが載っている。
「あ、カレル。終わった?」
「うん」
「待ってる間に書類の入力済んだから、後は取材と撮影ね。疲れてない? 大丈夫?」
「僕は大丈夫。疲れてなんかないし」
ニコニコ顔で僕を見ているエリカさんの顔を、何故か直視できない。あからさまに目をそらすのはさすがに失礼なので、僕はエリカさんの耳あたりに視線を遣ることで、なんとかエリカさんを見ているふうを装った。
「これ、返してくるからちょっと待ってて」
タブレットを右手で掲げて、エリカさんがくるりとターンする。何でこの人は動作の間にいちいち変なポーズを挟むんだ。今も、僕に背を向けるはずが、回転の勢い余ってまた僕の方を向いてるじゃないか。
「じゃ、すぐ戻ってくるからね」
照れくさそうに笑った後、今度はすんなり進行方向を向いて、エリカさんが小走りに去っていく。
背中を向けているエリカさんなら顔が見えないから、じっと見ていられる。今までこんなことはなかった。いつからだろう、エリカさんの顔を見ると、目が合ってしまうと、ドキドキしてそれ以上見ていられない。エリカさんのほうは、明るいし、優しいし、ちょっとヘンだし、要するにいつもと全く変わらない態度なのに。前までは単純に嬉しかったエリカさんの過剰なスキンシップも、最近ではちょっと困惑してしまう。迷惑だとか嫌だとかいうわけではないけど、居たたまれなくなる。七つも年上の女の人だ、初めて会った頃は、家族じゃないけど家族に近い、年の離れた親戚のお姉さんのような感じだった。思えば初顔合わせのときからエリカさんはまるで古くからの知り合いみたいに親しく接してくれて、僕らはすぐに仲良くなった。一緒に遊びに行ったり、食事したり、エリカさんの買い物に付き合ったり。隠し事をしない主義だというエリカさんは、頼んでもいないのにモバイルの中身さえ見せてくれる。あの頃と、エリカさんは全然変わっていない。なのに、僕だけがどうしてかもやもやしてしまう。
「お待たせ。行こうか。もう取材の人来てるみたいよ」
戻ってきたエリカさんが、僕の腕を引いて歩き出す。さすがに振りほどきはしないけど、エリカさんにつかまれているところを妙に意識してしまって、自分でも動きがぎくしゃくしてしまうのがわかる。
「ん? どしたの? カレル」
「何でもないよ、早く行こう」
取材はともかく、写真撮影は最悪だった。
「もう少し密着してみて。……そうそう、それでこっち見て」
カメラマンは簡単に言うけど、僕としては気が気じゃない。密着しろだの腕を回せだの頬に顔を寄せろだの、ハウンドとハンドラーとしての普通の生活の中ではありえないポーズを要求されて、平常心を保つのが大変だった。エリカさんにバックハグされたときは、その柔らかい体が密着しているのを必要以上に意識してしまって、今すぐここから逃げ出したくなった。一方のエリカさんはこの状況を楽しんでいるようで、僕に対しても
「もっとこっちにいらっしゃいよ、カレル。遠慮しなくていいから、ドーンと。ね?」
なんて平気で言ってくる。無理だよ、遠慮するに決まってるじゃないか。
「じゃあ次、エリカさんはそこに横たわってください。そうそう。仰向けで」
エリカさんが言われたとおりに横たわる。カメラを構えていないほうの人が僕に小道具の剣を渡して、僕が取るべきポーズの指示を出してくる。エリカさんに覆いかぶさるように向き合い、エリカさんの顔の横あたりの床(地面に見立ててある)に突き立てた剣に縋るように、って。何だそれ。
「あ……あの、それって僕がエリカさんを斃したみたいに見えませんか? そんなの変じゃないですか? 僕、エリカさんのハウンドなのに」
それまでは黙って言われるままにしていたけど、思わず質してしまった。本当はプロデューサー(かな?)が描こうとしている内容に反論があるわけじゃない。単にその体勢自体が恥ずかしすぎて無理だと思ったから、何とかならないかと思ったのだ。
「ハウンドは実質的にハンドラーを傷つけているようなものだよね? でもそこにはハンドラーの赦しとお互いへの深い信頼がある。そんな矛盾と絆を絵にしたいんだよね」
突然、エリカさんがむくりと起き上がったので、僕もプロデューサーもびっくりしてそちらを見た。エリカさんが芝居がかった大仰な動作で、プロデューサーの鼻先にビシッと指を突き付ける。
「ちょっと。今のは撤回してください」
いつもの明るい声ではなく、年相応の、厳しい大人の声色だった。
「は?」
「ハウンドがハンドラーを傷つけている、というくだりです」
「でも実際そうでしょう」
「違います」
プロデューサーの言葉が終わらないうちに、エリカさんが食い気味に断言する。
「そんな認識なのだとしたら、今回のお仕事はお断りします。違約金でもなんでも請求してください」
「いや、何もそこまでは……」
「じゃあ、前言撤回してください。それから、カレルに謝って」
「待ってよ、エリカさん。謝ってもらうようなことは何もないじゃないか」
さすがに僕も口を挟んだ。エリカさんが真剣に腹を立てているのがわかったが、何をそこまで怒っているのかがわからない。だって、プロデューサーの言ったことは全然おかしなことじゃないのだから。
「私は、芸術家の人が表現しようとしている世界観に文句をいうつもりはありません。どなたのお仕事にも敬意を抱いています。だから、納得して写真のお仕事をお受けした以上、社会通念上異常なものではない限り、そちらの仰るとおりのポーズをとります。今だって、そちらがどのように考えていらっしゃったとしても、心のうちに踏み込んでまで否定するつもりは全くありません。でも」
エリカさんは、今まで僕が見たことのないような怖い顔をしていた。
「『ハウンドは実質的にハンドラーを傷つけている』なんて言葉に出された以上、そこには反論させてもらいます。それは違う。絶対に違います。少なくとも、カレルと私に関しては」
「はあ、そうですか……」
プロデューサーのほうをちらっと見てみると、あからさまに「面倒くさい奴に当たった」みたいな顔をしている。まずい、犬舎のハウンドやハンドラーは、イメージ商売の担い手でもあるのだ。こういうトラブルは良くない。広報課からも絶対にお小言を食らう。
「エ、エリカさん、とりあえず撮ってもらおうよ。ね」
「カレルはいいの?」
「いいよ。これも仕事でしょ」
「……」
「犬舎の広報活動の一環なんだよ、そんなにムキにならなくても……」
もはや、ポーズが気恥ずかしいだの何だの言っている場合ではなかった。とにかくさっさとこの場をやり過ごさなければ。僕はともかく、エリカさんが悪く思われるのは嫌だ。今だって、僕が余計なことを言わなければこんなことにはならなかったのだ。
「……わかった。カレルが納得してるなら、私はそれでいい」
エリカさんが纏っていた張り詰めた空気が緩み、とげとげしい視線が和らいで、ようやく場の緊張がほぐれた。
「まあ、……まあこっちもちょっとデリカシーなかったですかね」
「何か、ごめんなさい。僕が余計な口出ししたから……」
「いやいや、ハウンドが自分のハンドラーを斃したみたいに見える、というのはこっちも気づかなかった視点で興味深かったよ。ありがとう」
その後、撮影は粛々と進行した。エリカさんはあまり口を利かなかったが、さすがに子どもじゃないだけあって、場の雰囲気を壊すような不機嫌な態度はとらなかった。僕も気持ちを切り替え、「仕事」なのだと割り切って、例の写真もオーダーどおりの体勢でちゃんと撮影してもらった。
そんなトラブルのせいもあって、今日の僕らの対戦は午後三時からだったというのに、すっかり時間が経ってしまった。もうそろそろ五時半になろうとしている。
「エリカさん、さっきはごめんなさい」
「どうしてカレルが謝るの?」
「僕が要らないことを言ったから、あんな、」
「待って。カレルのせいじゃないよ、あれは私が悪かったの。熱くなっちゃって、大人げなかった。ごめんね」
お互い、相手に責任をなすりつけようとするのではなく、自分のせいにしようとしているところがおかしくて、ちょっと笑ってしまう。
「でもね、どうしてもあれだけは許せなかった。ハウンドの人たちが一番気にしてる繊細なところを、あんなふうに断言するなんて」
「エリカさんはハンドラーなのに、ハウンドの気持ちがわかるの?」
「あっ……、ごめんなさい。私も人のこと言えないね。当事者でもないのにわかったつもりで偉そうなことを……」
「え、そんなつもりで言ったんじゃないよ、何か僕もごめん」
うつむいていたエリカさんが、ふふふ、と笑い出した。
「私たち、さっきから謝りあってばっかり」
「そうだね」
「もう、この話はやめましょう」
エリカさんが顔を上げて僕を見る。それから僕をぎゅっと抱きしめて、またその胸に僕の顔を埋もれさせた。
「カレルは本当にいい子。ずっとハンドラーでいさせてね」
ハンドラーで。うん。僕もエリカさん以外のハンドラーなんて想像できないから。それに、ハンドラーじゃなくても……。
通路の向こうから人の話し声が聞こえてきた。多分、六時からの対戦に臨むペアがこちらに向かっているのだろう。エリカさんも声に気づいたようで、僕から離れて通路の奥を見た。通路の角を曲がってこちらに歩いてきたのは、ハンドラーとハウンドらしき男二人だ。顔に見覚えがある。ハンドラーは、どこかの犬舎のスターハウンドかと見まがうほどの美しい青年。カラーを着けた黒髪のハウンドも、負けず劣らずの美貌だ。二人とも余裕の雰囲気で、話しながら時折笑顔を見せ、肩を叩きあったりしている。ふと隣のエリカさんを見上げると、目をキラキラさせて、胸の前で指を組み合わせていた。
「ああ……、眼ッ福! 至高! 神に感謝!!」
またおかしなことを言いだす。
「エリカさんの知ってる人?」
「超知ってる! 一方的に!」
ああ、そうだった。エリカさんは綺麗なものが好きなんだ。あの人たちも綺麗だもんね。僕なんか、到底及ばないほどに――。
すれ違いざまに、エリカさんの熱すぎる眼差しに気づいたらしい黒髪のハウンドが、「お疲れ」と声を掛けてきた。隣の、白に近い淡い金髪のハンドラーもこちらに軽く頭を下げる。
「は、はいっ、ありがとうございます! あのっ、頑張ってください! 応援してます! では!!」
彼らが通り過ぎるほんの一瞬の間に、エリカさんは恐ろしく早口でまくしたてて勢いよく頭を下げた。一応、僕も頭を下げておく。彼らの顔をしっかり目に焼き付けようと、その顔を凝視したまま。
「ああああ、いいもの見たわ。さっきのイライラも吹っ飛んだ!」
「そう……」
「え、何? 何か機嫌悪い?」
「別に!」
そっぽを向いた僕の背中側から、エリカさんがまた抱きしめてくる。
「あのね。サキさんたちも、マリエルも、サフィールも、みんな素敵だけど――」
続く言葉を、エリカさんは僕の耳元で小さな声でささやいた。顔が火照る。耳まで赤くなっているのがわかる。息が苦しい。心房細動でも起こしたのかと思うほど鼓動が早くなる。
エリカさんの腕を振りほどくこともできず、僕は長い間固まったまま動けずにいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます