第5話*at a cafe

 水曜日。つい先ほど三人の学生が出ていって、店内にはちょうど客がいなくなっていた。テーブルを拭き上げ、カウンター内に戻ってグラスを磨いていたサキが、ベルの音に顔を上げる。書店のロゴが印刷された包みを胸に抱えた小柄な少女がドアを押し開け、サキの姿に気づいて小さく手を振った。

「いらっしゃい」

「空いてるねー、今日」

カウンター席に腰かけた少女が、辺りをぐるりと見回して言う。午後の明るい光が差し込む店内には、聞こえるか聞こえないかの微かな音量でクラシカルな音楽が流れている。厨房からもう一人が顔を覗かせた。

「マリエル! 久しぶりねえ」

「あ、店長さん。こんにちは」

「今日はダークチェリーのタルトがお勧めなんだけど、どうする?」

「じゃあ、お願いします。紅茶もー」

マリエルが包みを置いて、緩くウェーブのかかった長い髪を軽く結わえる。この華奢で美しい少女が、闘技場では体に似合わない大きな武具を振るって対戦相手を制圧するのだ。ハンドラーのエイミーとは、最初の時点で適合率が八〇%近かったのだという。初対面での適合率でこれ以上に高い数値を、サキは知らない。

「今日はエイミーと一緒じゃないんだ」

「うん。エイミーはねぇ、歯医者さんに行ってるの」

「虫歯?」

「違うよー、クリーニングだって。サキちゃんのとこは? 今日はカラフくんいないの?」

「あいつは学校。帰りに、キーツと一緒にここに寄るって言ってる」

サキのハンドラーであるカラフは、市内の大学に通う学生だ。サキとペアを組んで数年、高い勝率を維持している。昨夜はサキとゲームについて長々と話し込んでいたから、今頃は講義中に睡魔と戦っているのかもしれない。学部違いだがキーツも同じ大学に通っていて、今日は学校帰りにここで合流し、サキも一緒にキーツのアパートメントに寄ることになっていた。キーツの次の対戦のための作戦会議を開くのだ。何でも、大物から対戦指名があったのだという。指名を受けるのは初めてだということで、相談したいことがあるらしい。

「マリエルは買い物?」

サキが、カウンターに置かれた紙袋に目をやった。袋には、この町で唯一生き残っている書店のロゴが印刷されている。紙媒体の本は随分と需要を減らしたが、消滅はせずにしぶとく生き残っていた。一方、それを販売する店のほうは淘汰され、全盛期には八店あったこの町の書店も、今ではたった一店を残すのみとなっている。とはいえ、一店でも残っただけましなほうで、隣町の書店は数年前に全滅したらしい。マリエルは、はにかんだ表情で笑って、その貴重な本屋の紙袋から大判の本を取り出した。

「えへへ、買っちゃったー」

「何? 見てもいい?」

一面の黒に近い濃い灰色に、メタリックな青で箔押しされた書名が光を反射している。タイトルだけが印刷されたそのシンプルな表紙の書籍は、どうやら写真集のようだ。ページを繰ると、羽根や宝石をちりばめたベッドのような場所で、濡れた瞳をカメラに向けている青年の姿があった。黒髪の一部に青いメッシュが入っている。

「これ、エクランのサフィール?」

「そう! サキちゃんも知ってるの?」

「そりゃあ、有名人だし」

犬舎の中でも、セレステ・ケンネルと並ぶ有名犬舎であるエクラン・ケンネル。所属ハウンドは皆それぞれ宝石の名前を名乗っている。戦績最上位の四人はディアマン、エムロード、リュビ、サフィールの四大宝石名を名乗り、まとめて「ピエル・プレシューズ」と呼ばれていた。現在、ディアマンを名乗っている女性ハウンドが、勝率八割八分という驚異的戦績を上げていることでも有名だ。

「何何? 私にも見せて」

店長の声とふわりと漂ってきたタルトの甘い香りに、マリエルが顔を上げる。左側から差し出されたトレイには、艶やかなダークチェリーをふんだんに使ったタルトと、淹れたての香りのよいダージリンティーが載っていた。

「うわぁ、美味しそう!」

キルシュに漬け込まれてほんのりと香る、黒みがかった深い紅色のチェリー。零れんばかりに盛られたその紅色とほろほろのクランブルの隙間から、柔らかい卵色のカスタードが覗いている。その下には絶品のアーモンドクリームが隠れていることを、マリエルは知っていた。彼女は小さな手を胸の前で合わせ、店長がトレイから皿を下ろしてくれるのを待った。

「どうぞ召し上がれ。それは、エクランのサフィールね?」

カウンターに広げられた写真集を避けて、店長がティーカップとタルトの皿を並べる。

「店長さんも知ってるの?」

「ふふ。実は結構好き」

意外なところで意気投合している二人を横目に、サキはさらに数ページを捲った。写真集は、やや妖しげな、独特の世界観に統一された画像にあふれていて、お世辞にも健全な趣であるとは言えない。「サフィール」に因んでか全体的に深い青が基調色になっているようで、それもこの写真集の仄暗い雰囲気を醸し出すのに一役買っているようだ。血液を、赤ではなく青で表現した写真もある。そもそも、フレームの外から差し伸べられた誰かの(恐らくはサフィールのハンドラーの)片手に頬を寄せている構図や、ハウンドのカラーではなく本物の犬用の首輪を着けて床に座り込み、上目遣いにカメラを見上げている写真などは、どう見ても特定の層を狙っているとしか思えない。

「マリエルは、こういうのがイイんだ? ていうか、サフィールのファンだったなんて知らなかったな」

店長と盛り上がっていたマリエルが、小動物のような動きでサキのほうを向く。

「ファンっていうか、ラーシュとはちょっとだけ知り合いなの」

聞けば、初等科三年生のときに同じクラスだったのだという。家も近くて、同じスクールバスで登下校していたらしい。今はエクランでサフィールを名乗っているが、本名はラーシュというそうだ。思いのほか、世間は狭い。

「この前、アンリーシュで負けたでしょ? 配信であれを見てて、何だかいろいろ思い出して懐かしくなっちゃった」

「ああ、あれ――」

アンリーシュ自体が滅多にあることではないので、確かにあの対戦はその後いろいろと取り沙汰されていた。もっとも、あの対戦をサキが印象深く記憶しているのには、また別の理由もあるのだが。

「それにしてもすごい色気ねぇ。ちょっと病んだ感じなのがまたイイのよね、この子は」

サキの横から写真集を覗き込んで、店長が感心したような声色で呟く。闘技場ではどちらかといえば活発な印象のハウンドだが、被写体としての彼はこの写真集のコンセプトをよく理解しているらしい。

「マリエルも店長も、こういうのが好きなんですか?」

「サフィールには似合ってるじゃない」

確かにわからないでもないが、特定の層を狙いすぎだとサキは思う。ただ、その特定層の購買力が非常に高いのは事実だし、やり手のエクラン・ケンネルのことだ、その他の層に向けてはまた別のハウンドを使って違うコンセプトの写真集を――写真集以外の何かも――出しているのだろう。

「サキちゃんも写真集出せば売れるよ、絶対」

タルトを頬張りながら、マリエルが勢い込んで主張する。

「カラフくんと一緒に、ね」

「えぇ?」

「私もそう思うわ。あんたたち、すごく目立ってるもの。自覚ないみたいだけど」

「二人ともすごく綺麗だしー。私、最初サキちゃんのこと、犬舎の人だと思ってたもん」

誰が見ても綺麗だと評価するだろうマリエルにそうまで言われると、却って戸惑ってしまう。どう反応すればよいのかわからず、サキは曖昧な笑みを返した。マリエルとサキが知り合ったのは、一年と少し前のことだ。サキが店員として勤めているこのカフェに、対戦後のマリエルと、彼女のハンドラーのエイミーが客として訪れたのだった。女性同士のペアで連勝しているとあって、当時マリエルたちは関係者の間で随分と話題になっていた。サキも彼女らの噂は耳にしていて、一目見てすぐに気づいた。もちろん、店員としていきなり客に馴れ馴れしく話しかけるようなことはしなかったが、エイミーのほうから声を掛けてきたのだ。その頃サキとカラフも順調に勝利を重ねていて、マリエルたちほどではないが、最初の適合率が七〇%を超えていたことでもそれなりに話題になっていた。ハンドラーのエイミーとしては気になるペアだったのだろう。

「でも、カラフくんは顔のこと話すと怒るよねー」

「だな。褒めても半殺しにされる」

「何でなの? サキちゃんは知ってる?」

二人の会話を聞き流しているように見えて、実は店長も興味津々なのが伝わってくる。サキは軽く首を振って、彼女たちの問いをやんわりと押しとどめた。

「知ってる。でも、本人のいないところで勝手に話すことじゃないと思ってるから、言わない」

「そっかー」

サキがマリエルを好ましく思う点の一つが、この引き際の良さだ。他人の繊細な領域に土足で踏み込み、しつこく食い下がって暴き立てようとする者も多い中、マリエルは、僅かでも相手が嫌がっている気配を察すれば決してそれ以上は踏み込んでこない。それはサキの雇い主である店長も同じで、おかげでいろいろと詮索されがちな事情を抱えた身でありながら、サキはここではストレスなく過ごせている。――もっともサキの場合、詮索されようが好奇の目にさらされようが、それを苦にする質ではないのだが。

「サキちゃん、しばらくアリーナで見てないけど、予定ないの?」

「今週末に出るよ。土曜の夕方六時」

店長が、カウンター内のシフト表に目をやった。結局はこれが一番見やすいからと、プリントアウトされた紙のシフト表が壁に貼り付けてある。週末はサキがシフトから外れているのを確認し、土曜日の日付の上にマーカーで丸を描く。

「対戦相手は、まだわからないんだっけ?」

「はい。通常エントリーなんで、六時間前だから……当日の昼にならないと」

「じゃあ、サキちゃんたち以外に複数のエントリーがあったんだね」

「犬舎のハウンドもいたよ。エクランじゃなかったと思うけど」

「いつかサキちゃんとラーシュの対戦も見てみたいなぁ」

まだカウンターの上に広げたままになっている写真集を眺めながら、マリエルが言う。嬉しそうに、わくわくした様子で。

「きっと見ごたえあるよー。二人とも綺麗だもん」

マリエルの嗜好の一端が垣間見えたような気がして、サキが苦笑した。

「マリエル姫は、美しい犬同士の決闘がお好みなんだ?」

「やだ、もう! そういう意地悪な言い方良くないよ、サキちゃん!」

「いやいや、冗談冗談。それに、注目されてるのは嬉しいし。ね」

少し赤らんだ頬を膨らませ、年齢よりやや幼く見える仕草で抗議するマリエルに、サキが笑いながら応じる。マリエルはひとしきり抗議した後、もう一度写真集に目を落とした。

「サキちゃんとラーシュって、ちょっとだけ似てるよね」

「え? どこが?」

「うーん、ちゃんと説明するのは難しいけど……」

何とか言葉を探そうとしているらしく、マリエルはもどかし気な表情だ。胸の前で手をひらひら動かしながら、「ほら」とか「あの」とか呟いている。

「どうです? 店長」

サキは、隣にいるもう一人に訊いてみた。

「二人とも髪が黒い」

「そういうのじゃないよー」

店長の即答に、またもやマリエルが抗議の声を上げる。直後、誰からともなく笑いが漏れ、しばし三人は声を立てて笑いあった。

「土曜の六時ね。リアルタイムでは見られないけど、後で見るわ。私も賭けようかな」

「是非。きっと勝ちますんで」

「ホントにぃ?」

店長、がおどけた口調で聞き返す。その店長を見返して、サキは胸を張って頷いて見せた。勝てる気がしている。

「私はリアルタイムで見るよー。会場には行けないけど、配信で見るね」

「応援よろしく」

 ドアベルが鳴って、押し開けられたドアから二人連れの女性が入ってきた。店長がいらっしゃいませと声を掛け、一度厨房に下がる。立て続けに、次は中年男性が一人、学生ふうの男女四人が入店して、店内が一挙に賑やかになった。

「お客さんだ。急に増えたねー。じゃあ、私そろそろ帰る」

サキがカードを読み込んでいる間にサフィールの写真集を丁寧に紙袋に戻し、マリエルはカウンターの椅子からぴょんと跳び下りた。学生ふうの四人客の一人がマリエルに気づいたようで、残りの三人と一緒にこちらを見ている。彼らが無断で撮影を始めるのではないかとサキは危ぶんだが、そんなサキの心配をよそに、マリエルは彼らに笑顔で手を振っていた。「可愛い」という声がここまで聞こえてくる。

「じゃあ、またね」

もう一度サキにも手を振ってから、マリエルは店を出て行った。


 サフィールとの対戦。熱湯に通したネルフィルターを絞り、ハンドルにセットしながら、サキは闘技場であのハウンドと相対する自分をぼんやりと想像する。実力的に、そこまで引き離されているとは思わない。とはいえ、エクラン・ケンネルでサフィールを名乗れるほどの実力者だ。やはり難しい相手か。マリエルが持ってきた写真集に収まっている彼は別人のようだったが、闘技場では強気なハウンドとして知られている。あのアンリーシュは、そしてその後の崩れぶりは意外だったが、対戦数が多ければ必然的に負け試合も増えるだろう。勝率は依然八割を超えているのだ。頭ではゲームのことを考えながらも、サキの手はいつもの手順で作業を進めていた。中挽きに挽いたコーヒー豆に熱い湯を含ませて蒸らし、数回に分けて湯を注ぐ。今日はアルバイトの学生がいつもより一時間遅れるらしい。普段は厨房にこもっている店長が、自ら店内をせわしなく動き回っている。もとは一人で切り盛りしていただけあって、人手はなくとも店長の動きは要領よく、客を待たせることはない。マリエルにも好評だったダークチェリーのタルトに立て続けに注文が入り、サキはオーダーに応じて人数分のコーヒーと紅茶を用意した。

 機械的に手を動かしながら、サキの思考はやはりサフィールのほうへ流れていく。アンリーシュ騒動以降、個人的に注目していたこともあって、ほかのハウンドより気になっているのは確かだ。加えて、しばらく注視していたからこそ気づいたほんの少しの違和感。ハンドラーとの間に何らかの問題を抱えているのでは、という疑念。もしサキの思うとおりにサフィールたちがどこかに確執を抱えているのだとすれば、それでいてなおあれほど強いことには驚かざるを得ない。ハンドラーとの仲が改善されれば、こちらには勝ち目がないかもしれない。それでも気になる。

 少しずつ暗くなり始めた日暮れの街を、サキは窓越しに眺めた。焼けた空の裾も次第に赤みを失ってゆく。今日はよく晴れて湿度も低かったので、日没後しばらくすれば美しいブルーモーメントを迎えるだろう。一面の深い青。あの写真集の青。サファイアの――サフィールの青。もうすぐカラフたちが店にやってくる時間だ。サフィールのことを話して、無理を承知で対戦申請をしてもらおうか。サキは、ティーカップの用意をしながら、ハンドラーの到着を待った。


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