第2話*Keats

 第六感というものが現実にあるのか、俺にはわからない。それが医学的、生理学的、科学的に実証されているのかどうかも知らない。ただ、「何となく」という理由のない予感や根拠のない確信を抱いた経験なら、俺にもある。先生と出会ったときが、まさにそんな感じだった。

 あの日、数日前から咳が止まらなかったので、大学の帰りに病院に寄った。しばらく風邪っぽい体調不良が続いていて、熱は下がったものの、とにかく咳が止まらない。何とかいう肺炎なのかもと少し不安だったが、検査結果によれば、いわゆる「風邪をこじらせた」状態だったようだ。処方薬をきちんと服用することと異状があれば受診することを言い渡され、診察室を出た。そして、会計を済ませるために総合受付前のベンチに座っていたときに、それは突然訪れた。訪れた、というのが適切な言葉かどうかわからないが、とにかくまるで啓示のごとく、その感覚が降りてきたのだ。

「あの!」

目の前の人物の背中に、俺は咄嗟に声をかけた。服装から察するに、この病院のスタッフだろうか。

「あの、すみません。ちょっと」

自分が呼ばれたことに気づいていないのか通り過ぎてしまいそうになるその人物の肩を、俺は軽く叩いてもう一度呼びかけた。

「はい?」

眼鏡を掛けた、医者とおぼしき人物が振り向く。

「えっと、あの、ちょっといいですか?」

――今から思えば、不審者丸出しだ。よく話を聞いてもらえたものだと思う。場所が病院の受付前だからまだ何とかなったのだろう。街中でこれでは、このご時世、通報されていたかもしれない。

 その人物はこの病院の勤務医で、外科のカーライル先生だった。もしもあの日に戻れるなら、俺は俺に言ってやりたい。「その人だけはやめておけ」と。しかし神ならぬ身、未来のことなどわかろうはずもない。俺の、精神がゴリゴリ削られるような日々は、あのときから始まっていたのだ。俺自身の手によって。


 挙動不審な俺だったが、病院という場ではそれが体調不良によるものなのだと上手く誤解されてしまったようで、その人物は俺に向き直って「どうしました?」と訊いてきた。口調が、具合の悪いところを訊ねる医者のそれだ。

「いえあの、大丈夫です」

何が大丈夫だというのか。自分でも情けなくなるかみ合わない応答。でも、啓示のような感覚をうまく言語化できない。

「何か私に話したいことが? 落ち着いて。ゆっくりで構いませんよ」

病人だと思われているのかもしれない。俺は自分の頭を整理するために、一度深呼吸した。

「突然すみません。変なことをお聞きしてもいいですか?」

言われたとおり落ち着いて、順を追って話そうとしたのに、言葉だけ聞くとまだ不審者のままだ。それでもその医者らしき人物は頷いて、俺の言葉の先を促してくれた。

「もしかして、なんですが、あなたはハウンドじゃありませんか?」

「――え?」

「あ、違う? 違いました? すみません!」

天啓。第六感。理由はわからない。何の根拠もない。なのにこの人が俺の目の前を通りがかったとき、この人は俺のハウンドなのだと直感したのだ。誰にも取られてはいけない、声を掛けなければならないと思ったのだ。

「ちょっと、あちらで話しましょうか」

その人は、総合受付の一角にある小部屋に俺を招き入れた。入院予定の患者やその家族に、簡単な説明をするときなどに使う部屋なのだという。診察室とは違って医療機器などはなく、テーブルと椅子とホワイトボードだけのシンプルな部屋だ。とりあえず、テーブルをはさんで向かい合わせに腰を下ろし、俺たちはまず、お互いに名乗りあった。

「それで――ブラウンくん」

「キーツでいいです」

「じゃあ、キーツ。どうして私のことをハウンドだと思ったんだい?」

「いや、何となくそんな気がして」

「君は、ハンドラー?」

「そうです」

「ハンドラーって、ハウンドの見分けがつくものなの?」

そんなことはない。そんな特殊能力みたいなものは備わっていない。それができればハウンドを見つけるのにとても便利だと思うが、実際には地道に犬舎を当たったり、ハウンド本人のアピールで偶然知ったり、SNSでの発信から察したりと、ハウンドを探し当てるのは結構大変なのだ。そもそもC因子を持つ人すべてがハウンドになるわけではない。実際には、因子持ちでも特に他と変わりなく生活している人がほとんどで、現役ハウンド、またはハウンド志望者はそれほど多いわけではないのだ。しかも、その数少ない中からようやくお目当てのハウンドを見つけても、ほかのハンドラーと「入札」になることもあるし、照合してみたら適合率が低すぎて話にならないこともある。

「いえ、そんな特別な能力はないです」

「じゃあ、何となくそう思ったというだけ?」

「はい」

考えてみれば、ものすごく失礼なことを言っているんじゃないだろうか、俺は。もしこの人がハウンドじゃなければ失礼だし、ハウンドだったとしてもこんな聞き方はどうかと思うし、もしC因子持ちで、でもハウンドにはならない選択をした人だったとしたらやはり不愉快だろう。対面する先生の胸に、赤いストラップで吊り下げられたネームホルダーが見える。心臓血管外科、医師カーライル。何となくその顔を見るのが気まずくなって、俺はその短い表記に目を留めたまま視線を上げられずにいた。

「ふぅん。当たってるよ、私はハウンドだから」

「本当ですか!?」

再び先生の顔を見る。やはりそうなのだ。この人が俺のハウンドなのだ。

「あの、俺があなたのハンドラーになったりは……駄目ですか?」

「は?」

先生は――カーライル医師は、困惑した表情で俺を見た。

「一つ確認したいんだけど、君の目に、私は何歳ぐらいに見えているんだろう?」

「三〇代後半か……四〇過ぎぐらい……」

答えてからハッとした。そうだ、この人がハウンドだとして、年齢的にとっくにゲームからは引退しているはずじゃないか。

「そうだよ。こんな中年に声をかけても無意味だろう。体力的に、ゲームに参加するのもちょっとねぇ」

それでも、何故か諦めきれない。あるのかないのかわからない第六感が、強く訴えてくる。

「でも、五〇代六〇代の現役ハウンドも居ますよね?」

「そんなのは、例外だろう? ごく少数派だよね。君は私に無理をさせたいわけ?」

「あ、いや、そういうわけでは」

「それに、君がどういうハンドラーなのか知らないけど、私はいわゆる『野良犬』だよ。そんなハウンドを連れていると、君の評価に関わるかもしれない」

「どうしても駄目ですか?」

自分でもしつこいとは思ったが、何とか食い下がる。野良犬だろうが犬舎のスターだろうが、そんなことは関係ない。先生は面倒そうな顔で軽くため息をついた。

「急に言われても、私も困る。君も今日は一旦帰って、もう一度よく考えてごらん」


 帰れと言われてまでそれ以上絡むのも、印象が悪くなるだけだろう。あの日の俺は、その後先生に言われたとおりまっすぐ帰宅した。データベースを開いて、カーライルという名前と外見の特徴を手掛かりに検索してみる。あった。C因子持ちとして登録されている。髪の色や瞳の色は簡単に変えられるから当てにはならないと思っていたが、今日見たままの情報がそこにある。金髪と、明るい琥珀色の瞳。以前は検査時の――一二歳の時点での顔写真も公表されていたが(「公表」といっても閲覧可能者は限定されているが)、近年は人権上の理由から写真は削除されている。データによれば先生は今年四二歳、確かに普通なら疾うにハウンドを引退している年齢だ。本人も年を理由に俺の要求を断ろうとしているのだから、もしカラーを着けさせてくれたとしても、ゲームに出るのは難しいかもしれない。でも――。試しに、俺との適合率を調べてみた。こんなに気になるのだから、もしかしてありえないぐらい高い数値が出るのではないか。八五%とか、九〇%とか。

 ところが、適合率は五二%だった。半分は超えているので高いといえないこともないが、正直いうとありふれた数値だ。親友のカラフは、ハウンドとの適合率が初めの段階で七〇%を超えていたらしい。それすら滅多に見ない高い数値だと言われたものだ。やはり八〇、九〇は無理だったか。それにしても普通すぎる。そもそも、適合率の高低は、本当に「運」による。偶然見つけたハウンドがものすごく高い適合率であることもあれば、探しに探してこの人こそと決めた相手との適合率が一桁だったりもする。低い適合率ながらペアになってゲームに参加し、経験を積むごとに適合率が上昇することもあるし、たまたま対戦相手のハウンドと自分の適合率を調べてみたら、自分のハウンドとの倍以上の数値だったというハンドラーもいる。

 適合率検索みたいなシステムがあれば、自分と最も良い相性のハウンドがすぐ見つかるのに――ハンドラーなら誰しも一度は思うものだが、そういう検索はできない。いや、実はシステム的には可能なのだが、機構がそれをさせない。禁じている。数字で判断せずに人を見よ、ということだと聞いている。……それを聞かされたとき、何となくわかると思った。たとえば災害の死者を数だけで把握するとき、俺たちはそこにある個々の人生を察することを蔑ろにしがちだ。偏差値で人をふるい分けるとき、人間性は無視されがちだ。ハンドラーはハウンドを戦わせるが、ハウンドは武器やコマではなく「人」であり、最初から効率よく数値だけで相棒を選ぼうとすることを禁じるのは、ある種の戒めなのだと思っている。

 それにしても、五二%だとは。こんなありきたりな「相性」なのに、何が俺をあの人に執着させるのか。今日の今日まで全く知らない人だった、年齢的にもゲームへの参加が期待できそうにない、本人も乗り気ではない、そんな相手だというのに。こんなのまるで一目惚れみたいじゃないか。


 それからの日々は、頭を冷やす期間のつもりだった。第六感などという得体のしれない直感ではなく、ちゃんと冷静に、理性的に、論理的にいろいろ検討したはずだった。それなのに俺は、翌週また病院に向かっていた。――患者としてではなく。

「カーライル先生はいらっしゃいますか」

「ご予約の方ですか?」

「いえ。診察希望ではなくて、少しお話ししたいことがあるのですが」

「当院では、スタッフの個人的呼び出しは承っておりません」

受付担当者が警戒の表情で応じる。それはそうだろう。しまった、こんなに当たり前のことを失念していた。現時点では、赤の他人である医者なのだ。どうやって接触すればよいのだろう。家族や身内ではない、友人や知人でもない、患者ですらない自分が、どうすれば先生と連絡を取ることができるのか。

「では、キーツ・ブラウンが面会を希望しているとお伝え願えませんか? カーライル先生に」

「申し訳ないのですが、お取り次ぎいたしかねます」

これも駄目か。担当者がますます警戒の色を濃くする。ここで押し問答にでもなれば、警備員を呼ばれてしまうかもしれない。先生と話したいだけなのだが――。

 後から思えば、受診予約をすればよいだけだったのだ。どうしてそこに思い至らなかったのだろう。初診の患者側からは紹介状もなく担当医を指名することはできないが、そもそも先週の俺はこの病院の一患者だったわけだし、とにかく患者として受け入れてもらえれば後はどうにかできたはずだった。それなのに、焦っていた俺は、あろうことか先生の「出待ち」をするというストーカーまがいの暴挙に出てしまったのだ。冷静でも、理性的でも、論理的でもない。それどころか、常識すらない。

 本当に、あのときの俺を殴り飛ばしてやりたい。そこまでして、自分から、あの人に近づいてしまった。あの時点で諦めておけば良かったのに。そうすれば今でも、平凡だが平和な日々を送れていたはずなのに。


 それから半月かけて先生を口説き落とし、あの日俺は遂に先生にカラーを着けさせてもらうことになった。約束どおりの時間に先生が訪ねてくる。昨日までに三日を費やして隅々まで掃除を済ませた俺の部屋は、多分、入居したてのときと同じくらい綺麗になっていたと思う。そんなところに先生が踏み込むはずないのに、寝具のカバー類も全部洗濯し、バスタブやシャワーヘッドまで磨き上げた。やりすぎだとは思ったが、何かしていないと落ち着かなくて、おかしくなりそうだったのだ。おかげで、

「学生の一人暮らしとは思えないぐらい綺麗だねえ」

と、先生のお褒めの言葉(?)を頂戴することができた。

 先生が持ってきてくれた焼き菓子を皿に乗せ、この日のために用意したちょっと高額な茶葉をポットに投入する。緊張していた。口の中が妙に乾く。ティーカップを並べる手が微かに震える。

「何だか危なっかしいな。私がするよ」

俺の動きのぎこちなさを見かねたのだろう、お客さんであるはずの先生が手際よくお茶の用意をしてくれる。申し訳ないような気恥ずかしいような何とも据わりの悪い気分で、俺は先生の手慣れた様子を見るとはなしに見ていた。

「何をそんなに緊張してるのかな」

「いえ、その……。何か口が乾くんですよね」

「それが緊張してる証拠だよ。手に汗もかいてるんじゃないかな?」

そのとおり。口は乾く、手に汗はかく、鼓動は速い、震える。あまりにも教科書どおりの交感神経優位状態で、ちょっと感心してしまうくらいだ。自分から無理をおし通して先生に頼み込んでおきながら、これはないだろう。

「とりあえず、お茶でも飲んで落ち着こう。ね?」

「そ、そうですね! 紅茶に含まれるテアニンには、緊張緩和の効果もありますもんね!」

何を言っているのだ、俺は。

「よく知ってるね」

「ああ、ハンドラーの養成校で教えてもらいました。医学とまではいかないけど、人体について基礎的なことは学ぶので」

「なるほどね。私は『学校』には行かなかったから、あそこで何を教わるのか知らないんだよ」

「じゃあ、『ゲーム』のこととか、その――」

今更ながらに不安になった。あの、バーチャルとはいえリアルに死にそうになるほどの苦痛を、先生はもしかして知らないのだろうか。いや、そもそも先生とゲームに出られるかどうかはわからないけど。

「それは大丈夫。ちゃんとわかってる」

余裕の笑顔とでもいうのか、先生は何もかも承知しているかのような表情で俺を見た。「野良犬」だとは聞いているが、もしかしてどこかで私的な訓練を受けてきたのかもしれない。


 椅子に浅く腰かけた先生の正面に立つ。内側に番号が刻印された銀色のカラーを開いて先生の首に掛け、両端がちょうど喉の前になるようにして閉じた。単なる登録作業にすぎないのに、何だか厳かで神聖な儀式みたいだ。心拍数が跳ね上がっているのを自覚する。将来、誰かに結婚指輪を差し出すときだって、きっとこれほどドキドキすることはないだろう。柔らかい起動音とともに先生の頸椎あたりに接しているカラーの一部分が淡いオレンジ色に発光し、二秒ほどして「認証完了」の文字が浮かび上がった。さらに三秒ほど待つと「登録されました」と機械音声が流れ、オレンジ色の光が緑色に変わる。

「これで私は君の犬というわけだね」

「その言い方はちょっと……」

「嫌味に聞こえたならごめん。そんなつもりじゃないんだけど」

正直、嫌味かと思っていたので、ちょっとほっとした。

「外しますね」

無事に登録が済んだので、先生からカラーを外す。この先、先生がカラーを装着するのは原則としてゲームに参加するとき、それから今回のペアリングを解消するときだけだ。ハウンドによっては(特に犬舎のハウンド)、日常でもこの首輪を着けたままの人がいる。ファッションとして上手く見せてはいるが、俺は少し苦手だ。つい今しがた先生が言ったように、自分が「誰かの犬」であることを敢えて強調するなんて悪趣味だと思う。まあ、自分のハンドラーが有名人だから見せびらかしたいとか、ハウンドとハンドラーが夫婦や恋人同士で絆の深さを見せつけたいとか、いろんな事情はあるのだろうけど。

「何度も言ったけど、私にも仕事があるから、ゲーム三昧というわけにはいかないよ」

「わかってます。それで食べていくつもりはないし」

「小遣い稼ぎみたいなつもり?」

「いや、それも間に合ってるというか――」

ゲームの賞金などどうでもいい。何なら、ずっとゲームに参加しなくてもいい。ただ先生を手に入れたかった。このハウンドを、他のハンドラーに取られたくなかった。あまりにも気持ち悪い動機なので先生には話していないが、何度考えてみても結局ここにたどり着く。ひょっとすると俺は先生のことが好きなのではないかと思ったりもしたが、自分の心の内をよくよく検めても、そういうことではないらしい。恋だ愛だ、そんな感情とは全く異質な執着心。この気持ちが何なのか、自分でもよくわからない。

「とにかく、しばらくはエントリーする予定ないんで」

「わかった。じゃあ、今日はこれで帰るよ」


 最寄りのバス停まで先生を送った後、近くの食料品店で総菜を買うことにした。自炊は苦にならないのだが、今日はせっかく磨き上げたキッチンをあまり汚したくない。野菜、魚介、乳製品……いつものルートで店内をぶらついていると、柔和な大型犬みたいな店員がタイムセールの案内をしているのが見えた。彼は、この店の常連なら誰もが知っている人気者だ。今も、母親らしき女性に手を引かれた小さな子どもが「またね」と彼に手を振っている。ほほえましい日常の光景を横目にデリのコーナーを物色していると、

「あと五分したら、そこのお惣菜二割引きになりますよ」

と声を掛けられた。背が高い。そして手足が長い。彼もハウンドなのだそうだ。確かハンドラーは女の子だったと思う。

「おススメはある?」

「ビーフシチュー。昨日も総菜では一番の売り上げでしたから」

何でも、顧客に実施したアンケート結果をもとに従来品を改良し、今週から新たに販売しているらしい。

「じゃあ五分経ったらここに戻ってくる」

「よろしくー。ついでにサラダと、あそこの棚のライ麦パンもお勧め」

「ありがとう」

今買わせた方がほんのわずかでも店の売り上げになるだろうに、わざわざ値引きのことを教えてくれる。お礼の意味も込めて、コーヒー豆、ミネラルウォーター、パスタ、レバーペーストの缶詰、そのほかにも思いつくものを何点かカートに放り込んだ。

 帰宅して、買ってきた食料品を片づける。いつもと同じ何でもない行動なのに、昨日までとは何かが違うような気がする。ダイニングテーブルの上には、置いたままになっている銀色の首輪。昨日までは無地だったその外側の一部分に、記号交じりの一二桁の数字が浮かび上がっていた。先生と俺がペアとして登録された証しだ。あの店員のハンドラーも、彼にカラーを着けた後にはこんな神妙な気持ちになったのだろうか。決して不快ではないのだが、日常が少し変質したような小さな違和感。思っていたより具沢山の美味しそうなビーフシチューを温め、その間にサラダを皿に盛る。ライ麦パン、コーヒー、カットフルーツとヨーグルト。いつものことなのに、どこか上の空になっていた。


 あの頃のことを、今でも隅々まで思い出すことができる。あの日念願叶って先生とペアリングを済ませ、妙に浮足立ったまま、綺麗に片付いた部屋で早めの夕食を摂った。窓から見える暮れ始めの空が、やけに美しく感じられたことも覚えている。寝るまでずっとフワフワした現実味のない気分で、もしかすると明日目覚めたときには何もかも無かったことになっているのではないか、などぼんやり考えたりした。そして目覚めた翌朝、数字の表示されたカラーを再び目にしたときの高揚感。充足感。確かに俺は満足していたのだ。先生と契約できた。ゲームなどどうでもいい、とにかく、他のハンドラーの手に渡る前にあのハウンドを手に入れられた。良かった。――そう思っていた。

 本当に、本当に言ってやりたい。あの日の俺に。思いとどまれ、早まるな、その人にカラーを着ける前に、もう一度よく考えろ。年齢だって、ハウンドとしてのピークを遙かに越えていたはずだ。職にも就いていて、ゲームの賞金などあてにしなくても生活できている。何より、ハウンドとしての契約に本人が消極的だった。普通に考えて、そんな人がハウンドに向いているはずがない。カラフみたいに、同年代のハウンドを見つけた方が絶対に良いに決まっている。ハウンド云々を措いても、同年代ならいろいろ話も合うだろう。遊びに行くのも楽しいはずだ。なのに俺は何故後先考えずにあの人と契約したのだろう。とにかく捕まえなければならないと焦ったのだろう。急いては事を仕損じる、焦った状態ではまともな判断などできないことはわかっていただろうのに、どうして。そうだ、ごくまれに見かける怪物みたいな人は除いて、そもそも三〇半ば以上の現役ハウンドなんてほとんどいない。先生だって、初対面のとき、最初に言ったのが年齢のことだったはずだ。もしかして俺は、怪物を引き当ててしまったのだろうか――。

 午前一〇時。八時間後にエントリーしたゲームの刻限が来ることを知らせるアラームが鳴った。そろそろ先生に連絡しなければならない。俺たちは専業ではないので、本業の都合上やむを得ない場合は、六時間前までならゲームへのエントリーを取り消せる。いくつかの職業――ライフセーバーなどを本業としている場合一時間前までなら取り消し可能で、それには医療従事者も含まれている。さらに、消防士や、医療従事者のうち医師や看護師などは、ゲーム開始直前でも開始後でも場合によってはペナルティなしで離脱できる。ああ、緊急の手術があるとか、とんでもない急患が担ぎ込まれてくるとかで、先生に急用が発生してくれないだろうか。実際にそんなことがあればそこには急病人や怪我人がいるということで、こんなことを望むのは不謹慎にもほどがある。それはわかっているのだが。

「八時間を切ったみたいだね」

ぐずぐずしているうちに、先生の方から連絡があった。音声のみの通話なので表情はわからない。でもきっと、あの余裕綽々の鷹揚な笑顔なんだろう。

「先生、急な仕事とかは? 病院の方、大変なんじゃないですか?」

「大丈夫だよ、今のところは。夕方までには終わる」

駄目か。そう上手くはいかないか。

「何組ぐらいエントリーするでしょうね」

「そうだねえ、月初めは多い傾向だからね」

「ゲーム」にエントリーしても、そのまま実際の対戦に至るとは限らない。同日同時刻に対戦希望が複数組ある場合は、最初に申請したペアと、二番目以降に申請したペアの中から抽選で選ばれたペアの対戦になる。ここでも失敗した。既に何組かのエントリーがあるものと見込んでいたのに、今日の対戦については俺たちが最初の申請者だったのだ。

「で、今日はどんなふうにしようか。後で何か予定でもあるなら、早く終わらせる方がいいかな?」

「えーっと……」

「それとも、お客さんのことを考えれば、多少粘ったほうがいいのかなあ。見る側からすれば、あんまり早く終わるのも面白くないかもね」

「そ……そうですかね、どうでしょうね」

「興行的には、じわじわ追い詰めていくのが良いんだろうか。すぐには潰れないように急所を外しながら……とりあえず身体の末端から少しずつとか」

「いや、別にそんな……」

「ハンドラーに回復の時間を与えないように、連続して、すばやくあちこちに、ね」

「あー、あのですね」

「まず指? もしアンリーシュなら、アキレス腱とか膝裏の――」

「だから、そういうのは要りませんから!!」

やはり怪物を引き当てたのだ。異常だ。四二歳だぞ? 普通ならこんなに強いはずがない。そもそもゲームにエントリーしたいなど思わないに違いない。それでももしゲームに参加するなら、一方的に負かされるはずだった。俺がかなりの苦痛に耐え続けなければならないと、覚悟していた。でも、それは乗り気ではなかった先生を無理やり引き込んだ以上、当然のことだと思っていた。訓練の成果を試すときが来たとも思っていた。

 それがどうだ、エントリーしたのはまだ三回だが、現時点ではあっさりと全勝。しかも俺は、一度も痛い目に遭っていない。勝ち方が鮮やか――といえば聞こえがいいが、俺の方が対戦相手に同情してしまいそうになるほどなのだ。完膚なきまで。叩きのめす。再起不能。不穏な言葉がいくつも連想される。多分、医者だということが少なからず関係しているのだろう。先生は人体の構造や、どこが急所でどこならダメージが少ないかなどを知悉している。それに、「野良犬」とは思えない美しい挙措。きっとどこかで誰かに、私的に「飼われて」いたに違いない。ゲームに関して、かなりの経験を積んでいると見える。

「キーツ? 聞こえてるかい?」

「あ、はい。じゃあ、一六時半に会場前で」

「わかった」

実在を確信できない、それでも何かと現実味のある俺の第六感が告げている。多分、今日のゲームにも勝てる。鮮やかに、圧倒的に。俺が苦痛を感じる間もないままに。通話が切れた後、俺はお守り代わりの胃痛薬を取り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る