ニムロドの裔
ぽん
第1話*Emma
ハンドラーの降伏宣言を受け、髪をミントグリーンに染めているほうのハウンドが武具を外して闘技場に片膝をついた。黒髪のハウンドが右手を上げ、観客席をぐるりと見渡す。高く掲げられた銀色のカラーが照明をうけて閃く。喝采。拍手。あるいは落胆の声。やがて綺麗に一礼して、黒髪のハウンドは闘技場から退出した。場外で、同年代らしきハンドラーと親しげに肩を叩きあっているのが見える。午後三時から始まった「ゲーム」は、わずか二分十八秒で勝敗を決した。
*
この国では、子どもが八歳になると、親権者はその子どもに教育を受けさせなければならない。義務教育の期間は、初等科五年・中等科五年の合計一〇年間。通常は卒業の翌年に、法的に成人とみなされる一八歳になる。成人だから選挙権も得るし、お酒も飲める。運転免許も取れる。就職もできる。それまでは親権者の同意が必要だったいろんな契約――たとえば住居の賃貸借契約も自由にできるし、結婚もできる。そして当然のことながら、すべての自分の行為について責任を負う。
とはいえ、義務教育を終えると「高等科(大学予備科)」に進学する人が大半なので、実際の一八歳はまだまだ子ども気分の抜けない学生が多い。高等科に進学した人たちの多くは、さらに大学への進学を目指している。義務教育が終わってもさらに二年間も勉強したいだなんて、そのうえさらに進学して勉強を続けたいなんて、私にはちょっと理解できない。でも、お店に来る学生さんは皆楽しそうだ。世の中には、好きで勉強している、学ぶことが楽しいという人もたくさんいるのだ。もちろん、本人ではなく親の希望、それから家の事情や社会的立場上、進学せざるを得ない人もいるのだろう。勉強が嫌いなのに嫌々進学したなんて人は、毎日きっと大変なんだろう。
学校は学校でも、大学進学を見越した高等科に進むのではなく、「技能習得校」へ進む人もいる。この技能習得校には多様なコースがあって、私のように美容師の技術を学ぶ人もいれば、パン職人としての基礎を学んでいる人、船舶の整備を学んでいる人、楽器の調律を学んでいる人など、それぞれが必要な技術を習得するために頑張っている。珍しいと思ったのは、古い絵画や彫像の修復を学んでいる人。私の知り合いにも一人いて、将来は博物館のスタッフとして働きたい、特に天災や戦争で被災した文化財を修復保全して、後世に伝えたいのだと話していた。立派だ。私にはそんなに崇高な目的はなくて、まあ、手に職があれば食いはぐれはしないだろうと考えて美容師を目ざしているだけだ。
この技能校へ入学する前提条件は、義務教育を終えていることだけ。義務教育を修了していて、かつ学費を納めることができるなら、誰でも好きな年に入学できる。だから(高等科は原則として全日制なので無理だけど)、大学生の場合、掛け持ちで技能校にも通っている人がいる。大学で勉強したり試験を受けたりしながら、さらに技能校で課題をこなしたりするのって、どうやって時間をやりくりしているのか謎だ。それから、社会人でも技能校に通う人がいる。転職に際して特定の技術を習得したいとか、仕事とは別に趣味を極めたいとか、目的は大学生以上にさまざまで、話すと面白い人がたくさんいる。仕事で定年を迎えてから入学する人だっている。
実は、就職するのに技能校卒である必要はない。大学を卒業した人が全員研究者になるわけではないように、技能校を出ても習得した技術とは無関係な仕事に就く人は多いし、高卒者や大卒者が技能職に就くことだって多い。ただ、技能校卒業者は既に基礎的技術が身についていて即戦力として使えるので、その分野への就職に有利だと聞いている。もっとも、国家資格が必要なものは少し事情が違う。技能校で学んで受験できるものもあるが、大学で専門教育を受けて単位を修得しておくことが資格試験の受験条件になっているものもある。私が目指している美容師も国家資格だけど、これは技能校で必要な技術と知識を習得すれば資格試験を受けることができる。私は今、技能校で勉強しながら、伯母の店でアルバイトしている。伯母は美容師歴三〇年、自分の店を持って二四年のベテランで、経験豊富な彼女から日々学ぶことは多い。
高等科・大学校、技能校、これとは別の学校もある。厳密には学校ではなく訓練所なのだけれど、俗に「養成校」と呼ばれていて、世間でも一般的には学校っぽく認識されている。ここには、希望者すべてが入れるわけではない。
初等科の最後の年、一二歳のとき、子どもは全員数日がかりの「検査」を受ける。何をどう観測してどんな判断をしているのかわからないけれど、私も検査を受けた。身長体重、視覚聴覚色覚、握力背筋力その他いろいろのよくある身体測定や運動能力測定だけではなく、モニター上を動き回る点滅する点を追わされたり、短い話を聞かされてすぐさま感想を言わされたり、フラッシュ暗算みたいなやり方でいろんな絵を見せられたりもした。それから、MRIとか、血液検査とか、眼底検査とか、病院でするみたいな検査もされた。採血以外には痛いことは何もされなかったけど、うす甘い液体や微妙な塩味の液体を口に含むように言われたときは、ちょっと気持ち悪かった。何のために何を甞めさせられているのか、大人は何も教えてくれなかったから。あと、頭と手に何か貼り付けられて、いろいろ質問されたり音を聞かされたりしたテスト(?)は、後日、友達の間で「嘘発見器みたいだった」と話題になった。
当時は何が何だかわからないままだったが、今では何となく理解している。あれは、子どもたちが「C因子」または「D因子」と呼ばれるものを持っているかどうか、それが発現する可能性があるかどうかを調べていたのだ。とは言っても、C因子D因子とやらが何なのか、私はよく知らない。私だけが特別に疎いわけではなく、研究者みたいな人以外でこのことを正確に理解している人は少ないと思う。とにかく、そのCまたはD因子を持っていると判断されると、義務教育修了後に任意で「養成校」に進むことができる。任意だから行きたい人だけ行けばよくて、因子持ちでも養成校に行かない人は多い。ただ、それ以外の人は養成校には入れない。養成校への入学資格は、義務教育を終えていることとCまたはD因子保持者の証明があること。就学(厳密には学校じゃないけど)期間は最低一年半。入学に年齢制限はないけれど、「C」の場合は初年次の半年間は寮に入る決まりだし、CもDも養成校の初年次は全日制のカリキュラムが組まれているので、他との掛け持ちは少し難しい。それでも、仕事や学業を一年間休んで養成校に来ている人はいた。
養成校に入るのは、「ハンドラー」または「ハウンド」としての技術を身につけるためだ。公営賭博のひとつでもある「ゲーム」、ここにプレイヤーとして参加するのがハウンドであり、それを制御するハンドラーだ。人間同士を戦わせて観客が熱狂するなんて古代ローマ時代みたいだが、結局人は争いが好きな生き物なのだ。サッカーを代理戦争だと言う人もいるように、スポーツはいわば平和な戦争だ。ボクシングなどの格闘技に至っては、暴力性を隠そうともしない。皆、自分は痛い目に遭わない安全なところから、他人同士が痛い目に遭ったり遭わせたりしているのを見るのが好きなのだ。スポーツだけじゃない。映画だってドラマだって小説だって、戦争や殺人がエンタメとして消費されている。他人の悲劇が楽しまれている。別にそれが悪いと言いたいわけじゃないし、異常だとも思わない。スポーツやエンターテインメントを消費することで密かな嗜虐心が満たされ、健全な社会を維持できるなら、それでいい。
「ゲーム」もある種の格闘技だ。いや、格闘技というより疑似的殺し合いと言ったほうがいいのかもしれない。「ゲーム」では、「ハウンド」――C因子を持ち、訓練された人――同士が戦い、「ハンドラー」がハウンドを操作する。養成校ではハンドラーとハウンドそれぞれが、戦闘や制御の技術だけではなく、ルール、ゲームについての法律、収益につなげる方法、契約の仕方など、様々なことを学ぶ。ハンドラーは原則として全員が養成校出身者だ。そもそも、ハウンドとのペアリングに必須のシリアルナンバー付きカラーは、養成校でしか入手できない。一方のハウンドには、養成校を出ていない人もいる。ハンドラーの技術は訓練と習熟に拠るところが大きいが、ハウンドは先天的な要素の影響を大きく受ける。養成校を出なくても、ハウンドとして活動することはできるのだ。ただし、ゲームでのルールや、特にマナーに関することは、総じて養成校出身者のほうがきちんと習得しているように思う。
この「ゲーム」には社会問題化している側面もある。いわゆる闇賭博だ。大抵は反社会的組織が絡んでいる。地下闘技場でハウンドが違法に戦い、それに群がる者たちの間で大金が動く。場をより盛り上げるため、掛け金を吊り上げるため、そこにはルールも何もあったものではない。本来の正式なゲームに用いられる特殊武具は持ち出せるものではないので、粗悪な模倣品や、場合によっては本物の武器が使われることもある。死者も出ている。捕まれば社会的に厳しい立場に陥ることはわかっているし、自分のハウンドを人殺しや死人にしたいハンドラーなんているはずがない。ないと思いたい。でも現実には、この闇賭博にはまり込む者が後を絶たない。賭けに夢中になり、闇金に借金してまで入れ込んだ挙句経済破綻する者。そこにつけこまれて新たな犯罪に手を染める者。賞金につられて無茶な要求をのみ、結果として一生残る後遺症を負ったハウンド。違法ゲームに参加していることが暴露されて社会的地位も信用も失い、その後の人生を台無しにしたハンドラー。普通に考えれば、こんな馬鹿げたことに関わるなんてありえないのに。
当局による厳しい取り締まりはなされているが、この闇賭博に群がる者は一向に減らない。それどころか、年々規模が大きくなっているようで、毎年検挙される人数が増え続けている。しかも、それは遠い世界の出来事などではなくて、意外と身近にも誘惑の手は迫っているのだ。以前私も声をかけられたことがある。アルバイトしながら技能校に通っている私を経済的に困窮している学生だと思ったのだろうか、大金をちらつかせて怪しいゲームへの参加を勧めてきた人がいるのだ。もちろん、興味がないときっぱり断ったけれど、しばらくは監視されているんじゃないか、断ったことで何か報復されるんじゃないかと怖くてたまらなかった。一応、私もハンドラーではあるし、契約済みのハウンドもいる。でもゲームで食べていくつもりはないし、ましてや闇賭博となんて絶対に関わりたくない。
食べていくといえば、ゲームで生計を立てようとする専業ハウンドは、大抵どこかの「犬舎」に所属している。犬舎というのはいわゆるマネジメント事務所で、プロダクションタイプとエージェンシータイプがある。多いのはプロダクションタイプで、専業ハウンドを雇い、ハンドラー希望者から契約金を得、ゲームの賞金を管理する。養成校を出ていなくても、犬舎所属のハウンドはそこでルールやマナーを身につけることができる(ちなみに、養成校も出ず、どの犬舎にも属していないハウンドは、「野良犬」と揶揄されることがある)。ゲームで得た賞金全額が手に入るわけではない代わりに、ハウンドとしての生活は保障され、トレーニングの環境も整った施設を自由に使える。ただし、恵まれすぎた環境に慣れ切ったハウンドは、引退後の生活で途方に暮れてしまうことがあるらしい。所属する犬舎と契約が切れた途端に路頭に迷うハウンドもいると聞く。たまに例外もいるけど、普通はハウンドの職業生命は短い。パフォーマンスのレベルに、肉体がついていかなくなるのだ。だから、犬舎に所属するハウンドはゲームに参加できる最低年齢である一六歳のときには既に入所していることが多い。そこから一般的には三〇歳前後で犬舎と契約が切れるまで「専業」ハウンドなのであり、社会経験に乏しい人がその年齢で放り出されると、確かに最初は大変だろうと思う。しかも、せっかく多額の賞金を手にしても遊興で散財する人が多いらしい。地道に貯めたり運用したりしておけば、少なくとも犬舎を出た後しばらくは生活できるはずなのに。
私の相棒は、犬舎所属ではないフリーのハウンドだ。養成校を出た後、地元の食料品店の店員として働いている。一年前、「入札」で競合した二人を押しのけて私が彼を手に入れた。最初の適合率は五八%。後の二人は四〇%前後だったので、特に問題なく決まった。ただ、私もまだ学生なので、私たちはまだあまりゲームに参加したことがない。お互いの空き時間が重なることが少ないという理由で。
久しぶりに開いたルールブックをしっかり読み直していると、向かいのソファで人の動く気配があった。大きな欠伸とともに、胎児のようなポーズで眠っていたリアムの長い手足が大きく伸びる。何かに似ている。あれだ、アジアの食材を売っている市場で見かけた蟹。何かの拍子に蟹を縛っていた紐が解けたのだ。途端に、折りたたまれていた思いのほか長い脚が両側に開き、びっくりするほどの速さで蟹は逃げていった。一瞬の出来事だったけれど、あまりにも衝撃的でずっと忘れられない。気持ち悪かったし、ちょっと怖かった。何より、食材というのは生き物であり、食べることは生命をいただくことなのだというのが否応なく実感されて、その光景はいろんな意味で記憶に焼き付いた。
「お嬢?」
寝起きの目をこすりながら、リアムがこちらを向く。
「言い方」
「あ、ごめん」
お嬢呼びはやめてほしいといつも言っているのに、まだ時々リアムは私をそう呼ぶ。最初に会ったときは、確かに私はまだ「お嬢ちゃん」だったかもしれないけど。
「ルールブック? 何、そろそろエントリーするの?」
大型犬を思わせるおっとりした笑顔。彼が子どもから年配者にまで好かれる人気店員だというのが何となくわかる。
「ううん、特に予定はないんだけど、ちょっと復習」
「ふぅん」
まだ転寝を引きずったような緩慢な動きでリアムが隣にやってきて、私の肩に頭を乗せてくる。このご機嫌なゴールデンレトリーバーみたいな彼が、闘技場では豹変するのだ。いつものほわほわしたやわらかい雰囲気は微塵もない殺伐とした気配。降伏した相手を見下ろす目つきの陰惨さ。はじめてハウンドとしての彼を見たときは、普段が普段なだけに、正直ショックだった。自分たちが勝ったのに、ルールも遵守して何らおかしなことはしていないというのに、何となく素直には喜べなかったのを思い出す。
「そういえば、犬舎のハウンドで一六歳からゲームに出てる人って、学校どうなってるの?」
ついさっきまでルールブックを熟読しながらハンドラーとハウンドの概要を思い返していたが、後でリアムに訊いてみるつもりだったのだ。養成校には義務教育を終えてからでなければ入れない。つまり、一八歳以降。それ以前の年齢で犬舎に入っているのはどういうことなんだろう。
「んー、ほら、初等科の終わりに検査を受けるじゃない。あれでC因子持ちだってわかった子たちをスカウトしに来るんだよ、いろんな犬舎の人が」
「まだ素質も何も全然わからないのに?」
「うん、そのあたりは犬舎でトレーニングするから何とかなるみたいだ。大きな犬舎は、引退した有名ハウンドを専属トレーナーとして雇ってるところもある。行き届いてるんだよ。設備も整ってて……養成校よりすごいかも」
「詳しいね」
リアムは犬舎に所属したことがないはずなのに。
「声かけられて、見学に行ったことがある」
「え、そうなの!?」
何でも、犬舎のスカウトは、C因子持ちの中等科一、二年生をいろいろ観察していて(気持ち悪い)、将来有望そうなハウンド候補を勧誘しているそうだ。そうして一三、四歳の頃から犬舎に出入りさせ、一五歳あたりで契約し――もちろん、これには親権者の同意が必要――一六歳で華々しくデビューとなるらしい。ハンドラーの人選も、ある程度までは犬舎側が進めてくれるという。スカウトはよほどの目利きなのだろう。中等科に進級したばかりの子どもに将来ハウンドになるつもりがあるのかどうか、そんなの本人にもまだわからないだろうのに。
「僕は中等科を出てから養成校に入ったけど、中等科在学中から犬舎と契約してた子も来てた。その子たちはすでにハウンドとしてある程度訓練されてるから、いろいろできてすごかったんだ。最初から圧倒されたよ」
「リアムはスカウトされたのに犬舎に入らなかったの?」
「うーん、何か犬舎のハウンドって芸能人っぽくない? ああいう派手っぽいの、苦手でさ」
言われてみれば確かに、犬舎のハウンドは妙にキラキラしていてちょっと芸能人みたいだ。犬舎の方針なのかファッションもやたらと派手だったり個性的だったり、見るからに高価そうなアクセサリーをつけていたり。しかも、男女ともに美形ぞろいで、固定ファンがついているハウンドもいる。
「でも、そのイケメン軍団に呼ばれたんだよね? リアムも」
リアムは華やかな美青年というわけではない。ジャンルとしては癒し系、ほっこり系というか、周りの人を安心させるような柔和な雰囲気の、どちらかといえば地味な顔立ちだ。
「ああ、僕の場合は、あの頃周りの子どもたちより背が高かったからみたい」
今でも背が高いリアムが言う。C因子を持っていることは確かでも、ハウンドとして有能かどうかはまだわからない。だから犬舎のスカウトは運動系の部活や大会をチェックして、運動能力や体力に秀でていそうな子どもに声をかけるらしい。それから、体格の良い子。同年代の平均に比べて高身長だったり、筋肉の付き方が良かったりする子どもも勧誘する。そしてもう一つが、顔の良い子。なるほど、犬舎のハウンドが皆キラキラしているわけだ。
「犬舎の子たちはすごかったよ。実技もそうだけど、何ていうか……その、パフォーマンス? 闘技場に出ていくときのしぐさ一つとっても、舞台に登場する役者みたいなんだ。自分が観客にどう見えているかをちゃんと意識してるみたいで、お辞儀の角度とかもやたらとカッコイイ」
リアムに言わせれば養成挍以上かも、という整った環境で早くからトレーニングに励み、自分の見せ方を学び、一八歳になれば養成挍に入って正式な訓練を受ける。うん。犬舎のハウンドはやっぱり別世界の人たちだ。
「実技もすごいの? 犬舎の子たちって」
「うん。まあ、そっちは訓練次第で僕らも追いつけるし、追い越せる場合もある。でも犬舎の子たちは『予習』を済ませてるみたいなもので、最初は敵わないと思ったよ。はじめから一通りは何でもできてたから」
「そうなんだ」
ハウンド同士の「戦闘」には特殊な武具が用いられる。そして、戦闘で実際に肉体を損傷することはないが、その痛みやダメージは負う。何を言っているのか、私もはじめは全くわからなかった。古代ローマとは違い、技術が進歩した現代ならではの疑似戦闘だ。とにかく、刃物で刺されても、現実の体は傷つかない。その「刃物」が特殊なもので、物理的なものではないからだ。ただし、刃物で刺された痛みや、それによって受けた傷のダメージは実感される。いわば、バーチャルリアルに負傷する。リアルに相手の肉体を傷つけたり、本物の武器を持ち込んだりすることは固く禁じられているし、違反すれば厳罰に処されるが、それでも、リアルと区別がつかないほどのバーチャルリアルでの受傷は、時に現実の肉体にも影響を与える。「病は気から」の怪我バージョンみたいに。
「ハンドラーがいつでもダメージを負ってくれるとは限らないから、あの武器で実際に痛めつけられる訓練があるんだよ。一応、知識としては教えられてても、初めて刺されたときは死ぬかと思った。あれで養成校を辞めて、ハウンドになるのをあきらめる人が結構いるんだ」
「わかる。リアムたちとおんなじかはわからないけど、あれ、後悔するよね。何やってんだろ、何で進んでこんなに痛い目にあってるんだろうって。ハンドラーも、あれで辞める子が多いよ。もうね、一斉に退学者が出るの。クラスの人数が半分以下になる。そこで居残ったとき、ホント、自分のこと馬鹿なんじゃないかと思ったわ」
「そうそう。わざわざお金払って痛い目みてるなんて変態かよ、って」
「リアムたちもやっぱり思ったんだ」
それは思うよ、とリアムはふにゃりと表情を崩して笑顔になった。闘技場でハウンドを戦わせるとき、ハンドラーはハウンドの受けるダメージを代理で負う。古代ローマでは絶対にできなかっただろうこんな離れ業が、ハイテク化された現代では可能になった。つまり、勝てるかどうかには、ハウンドの身体能力だけではなくハンドラーの忍耐力も大きく関係している。こんなシステムを誰が考えたのかは知らない。でも、人として当たり前の気持ちから――そして引け目や負い目から、自分の痛みを引き受けてくれるハンドラーをハウンドは大事にするし、ハンドラーはより効率よく勝てるように――あんまり痛い目をみなくて済むように戦略を練る。
「でね、僕らみたいに養成校で初めてあれを体験すると、ものすごいショックなわけ。でも、犬舎の子たちはもうそんなトレーニングも受けてて、痛みの受け流し方もある程度身についてるから、ちょっと偉そうなんだよね。こっちを小馬鹿にしてくるというか、お子様扱いしてくるというか」
「うわぁ、何か想像できるわ。イケメンに見下されるの、嫌味だねー」
「いや、顔は関係ないよ。ただ、弱い者扱いされたのはムカついたなぁ。ハウンドを目指す子たちって、何だかんだ言ってもやっぱり負けん気が強いんだよね」
リアムもハウンドだ。こんなにおっとり穏やかに見えるのに、対戦者に相対するときは容赦がない。
曇っていた空がいつの間にか晴れて、午後の日差しが部屋を明るくする。窓のほうを見たとき、リアムと目が合った。
「しばらくエントリーは無し?」
「うん、バイトと学校でちょっと時間が取れない。あ、ごめん、もしかして出たい? 次、キャンペーンで賞金が倍だもんね」
「いや、別に生活に困ったりしてないから大丈夫。おじょ――エマ」
多分今「お嬢」と言いかけたのだろう。でも今回はちゃんと名前で呼んでくれた。さっき蟹を思い出させた長い腕が伸びて、私の背中に回る。ふんわりしたハグ。
「こんなこと言うの変かもだけど、参加したくないならずーっと参加しないでもいいよ、僕は」
「え?」
「やっぱり怖いでしょ、ゲームは」
それは、怖くないと言えば噓になるけど、でもずっと避け続けたいほど怖いわけでもない。
「今は時間が取れないだけだから。それに、ずっとゲームに出ないなんて、ハウンドとハンドラーのペアとして意味ないじゃない」
「――ハウンドとハンドラーのペア、ね」
リアムがため息交じりにつぶやく。何でそんなに切ない顔でこっちを見るんだろう。
「ねえ、僕がハウンドを引退してペア解消になっても、今みたいに会える?」
「それは会うでしょ。私、ほとんど毎日リアムのお店で買い物してるんだよ」
「ああ、うん。そうだよね」
ときどき見せるもどかしげな表情と歯切れの悪い言葉。こんなときのリアムが何を考えているのか、私にはわからない。その職業生命の短さから、ハウンドとハンドラーのペアは同年代か、ハンドラーのほうが年上であることが多い、私たちは逆で、リアムは私より五歳年上だ。お店に来る人生の先輩方は五歳差なんて同い年と変わらないと言うけど、私は自分がリアムよりはるかに幼いと自覚している。今みたいにリアムの考えていることがわからなくなるのは、私がまだまだ精神的に子どもだからなのだろう。
そうだ、五歳も年上なのだった。リアムがハウンドとして充分活躍できるのって、平均を考えればあと数年しかない。はやく時間の都合をつけて、ゲームにエントリーしなければ。ふと、リアムにカラーを着けさせてもらったときの何ともいえない高揚感がよみがえってくる。せっかくハンドラーと組んだのに、数回しかゲームに参加していないなんて、もしかしてリアムはずっと不満だったんじゃないだろうか。
「リアム」
「はい?」
「ごめんね。近々絶対にエントリーするから」
「いや、それは別にいいんだけど」
大丈夫。ちゃんと実力を発揮できる場を確保してあげるから。だから日程に都合がつくまで、もう少しだけ待ってほしい。リアムの長い手足がしなやかに、凶暴に動いて、相手のハウンドを切り裂く姿を想像する。残された時間は長くはない。いろいろ未熟な私だけど、ペアを解消するときに「良いハンドラーだった」「組めて良かった」と思ってもらえるように努めよう。また何か言いたげな顔でこっちを見ているリアムに、私は心の中で約束した。
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