第4話 重たい顔を拾って

1.

翌朝、村は深い朝霧に包まれていた。

役場の前で、総務課長と数人の村人が、我々を見送るために待っていた。もちろん、全員が狐面をつけている。

昨日の今日だ。追い出されるか、あるいは引き止められるかと身構えていた蓮見だったが、彼らの態度は拍子抜けするほど穏やかだった。


「お帰りになるんですね」


総務課長が、丁寧にお辞儀をした。


「残念です。もう少しゆっくりしていけば、もっと楽になれたでしょうに」


その言葉には、皮肉も嫌味もなかった。

親戚の子供が、居心地の良い実家から都会へ帰るのを惜しむような、純粋な寂寥せきりょう感。


「ええ、仕事がありますから」


相馬が淡々と答えた。

彼はトランクに荷物を積み込みながら、課長に「来客用」の狐面が入った箱を返却した。


「そうですか。...あ、そうだ」


課長は思い出したように、懐から何かを取り出した。

丁寧に包まれた、地元の銘菓だった。


「道中、召し上がってください。お疲れでしょうから」


蓮見が受け取ると、課長の面は優しく微笑んだように見えた。


「いつでも帰っていらっしゃい。外の世界が辛くなったら、ここへ逃げ込めばいい。私たちは、いつでもあなた方の『荷物』を持ってあげられますから」


蓮見は胸が詰まった。

彼らは、最後まで善人だった。

こちらの価値観を否定せず、攻撃もせず、ただ「ここに救いがあるよ」と扉を開け続けている。


車に乗り込み、ふと手元の菓子を見る。

包み紙の裏に、小さな文字で一文が添えられていた。


『お辛い時は、これを召し上がって深呼吸を。いつでも“繋がり”は回復できます』


それは、ただの気遣いだった。

だが蓮見には、それが「いつでも狐に戻れる非常口の鍵」を渡されたように思えて、背筋が薄ら寒くなった。

その善意は、どこまでも粘り着いて、決して見捨ててくれないのだ。


2.

車は峠道を登っていく。

バックミラーの中で、手を振る白い狐たちの姿が、霧の向こうに小さくなっていった。


村の境界線を示す古いトンネルを抜けた瞬間、相馬が息を吐いた。


「...今回の報告書だが」


彼はハンドルを握りながら、事務的な口調で切り出した。


「判定は『監視付き存続』とする。危険指定区域にはしない」


蓮見は驚いて相馬の横顔を見た。


「いいんですか?あそこは、人間の尊厳を捨てています。法的にはグレーゾーンどころか...」

「法は『個人の権利』を守るものだ。だが、彼らは自発的にその権利を放棄している。被害届を出す主体がいない以上、介入は難しい」


相馬は冷ややかに続けた。


「それに、あのシステムは極めて安定している。外部への攻撃性もなく、むしろ社会に適応できない者たちの受け皿として機能している側面もある。...一種の『民間シェルター』みたいなもんだ」


「シェルター...」


避難所。嵐が過ぎるのを待つ場所。あるいは、嵐から目を背けるための場所。


「俺たちは正しさを決める裁判官じゃない。境界を決めるだけの測量士だ」


相馬は淡々と言った。


「中身が幸福ならそれでいい。ただし、そのルールが外に漏れ出さないように線を引く。それが仕事だ」

「ですから、『一般観光客の立ち入り制限』と『長期滞在のリスク勧告』を徹底させる。あそこは、重いまま生きる側が、長居する場所じゃない」


それは、禁止でも肯定でもない、冷徹な線引きだった。

あの村を「悪」とは呼ばない。けれど、「人間社会」の枠組みからは静かに切り離す。

相馬のその判断は、残酷なようでいて、どこか彼らへの敬意――あるいは諦め――を含んでいるようにも聞こえた。


3.

峠のパーキングエリアで休憩をとった。

蓮見はトイレの鏡の前に立ち、久しぶりに自分の「顔」と向き合った。


ひどい顔だった。


目の下にはクマがあり、肌は乾燥し、眉間には不安そうな皺が刻まれている。

昨日の、面をつけていた時の万能感とは程遠い。

弱くて、脆くて、メンテナンスの必要な、生身の顔。


「...重いなあ」


蓮見は思わず呟いた。

表情を作ることが、こんなにエネルギーを使うことだなんて。

あの村にいれば、この重さから永遠に解放されたのに。


洗面台の水で顔を洗う。冷たい水が肌を打つ。

その冷たさは、あの面の裏側の「ぬるりとした快感」とは違う、覚醒を促す鋭い刺激だった。


車に戻ると、相馬がコーヒーを買って待っていた。


「どうだ、現実は」

「...最悪です」


蓮見は苦笑いをした。


「顔は重いし、将来は不安だし、先輩は厳しいし。...あっちの方が、ずっと幸せだったかもしれません」

「そうだな」


相馬は否定しなかった。


「あそこには『軽くなる方法』がある。こっちには『重いままやる方法』しかない」


相馬はエンジンをかけた。

車の振動が、シートを通して体に伝わる。その不快な揺れさえも、今は「生きている」証のように感じられた。


「蓮見。その重たい顔、大事にしろよ」


相馬が前を向いたまま言った。


「それが、お前がお前であるための代償だ」


「...はい」


蓮見はシートベルトを締めた。

窓の外、空はどんよりと曇っている。

決して晴れやかではない、悩み多き日常へ向かって、車は走り出した。


(狐の村編 了)

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境界係の線引き @kyoukaikiroku

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