第3話 主導権争い
1.
滞在三日目の朝。
蓮見は鏡の前で、自分の顔を睨みつけていた。
肌がくすんで見える。目の下に薄いクマがある。何より、表情筋を動かすだけで、錆びついた機械のようにギシギシと精神が軋むのを感じる。
素顔でいることが、まるで重たい鉄の鎧を着て歩いているかのように苦痛だった。
(...静かにしたい)
ふと、鞄の中に視線を送る。「来客用」の狐面があそこに入っている。
あれをつけた時の感覚が、身体の奥底からフラッシュバックする。
頭蓋骨の中を冷たい水が流れ、ノイズが一瞬で消え去り、呼吸が楽になったあのクリアな感覚。
昨夜の宴会で見た光景には、あんなに嫌悪感を覚えたはずなのに。脳の奥底が、理屈を飛び越えて訴えてくる。
――もう一度だけ。一瞬だけでいいから、この重力を消してくれ。
指先が震える。典型的な、依存症の渇望だった。それは「またつけたい」という意思ではなく、「つけなければ正常に戻れない」という脳の誤作動だった。
「蓮見」
背後から名を呼ばれ、蓮見はビクリと肩を跳ねさせた。
相馬が部屋の入り口に立っていた。彼は蓮見の様子を見ても眉一つ動かさず、ただ淡々と告げた。
「出かけるぞ。村で『祝い事』があるそうだ」
「...また結婚式ですか?」
「いや。もっと大きな祝いだ。『
2.
村の集会所に、多くの村人が集まっていた。
静かだが、厳かな熱気に包まれている。全員が狐面をつけ、畳敷きの大広間の上座に座る「ある人物」に対して、恭しく頭を垂れていた。
上座に座っていたのは、小柄な老人だった。
彼もまた狐面をつけている。だが、その様子は周囲の村人とは決定的に異なっていた。
微動だにしないのだ。
呼吸のリズムさえ感じさせないほどの静止。それでいて、全身から発光するような神々しい気配を放っている。
「...あれは?」
蓮見が小声で尋ねる。
「村の長老、でしょうか」
「よく見ろ」
相馬が言った。
「面と肌の境界を」
蓮見は目を凝らした。
老人の顔につけられた狐面。その縁が、皮膚にめり込んでいるように見えた。いや、違う。
和紙の繊維が皮膚と癒着し、一体化している。
紐で結ばれているのではない。顔そのものが、狐面へと変質してしまったかのように。
老人の隣に座っていた総務課長が、よく通る声で宣言した。
「本日未明、我らが同胞、嘉兵衛翁との『融合』が完了した!翁の苦しみは消え、その魂は我らと一つになった!」
おお、とどよめきが起きる。それは悲鳴ではなく、称賛と羨望の声だった。
「よかったなあ、嘉兵衛さん」
「ついに楽になれたんだな」
「羨ましい。俺も早く『向こう』へ行きたい」
蓮見は言葉を失った。
融合。完了。
それはつまり、人間の自我が完全に消滅し、狐に体を明け渡したということではないか。
それを彼らは「
3.
上座の老人が、ゆっくりと顔を上げた。
その動作は、人間のものではなかった。あまりにも滑らかで、重さを感じさせない。
面の奥の瞳が、蓮見たちを捉えた。
『...ようこそ。外からのお客様』
響いてきた声に、蓮見は戦慄した。
それは老人の声帯を使っているはずなのに、無数の鈴を鳴らしたような、純粋な共鳴音に聞こえた。
そこには、一欠片の悪意もなかった。あるのは、圧倒的な慈愛だけだ。
『怖がらなくていいよ。この
老人の姿をした「何か」は、優しく語りかけた。
『彼はとても疲れていた。腰の痛み、妻を亡くした寂しさ、死への恐怖。...だから、私が全部もらってあげたの。もう彼は、永遠に安らかだ』
蓮見の胸がざわついた。
その言葉が、弱った心に染み込んでくる。
苦しみからの完全な解放。孤独の終わり。
『あなたも、疲れているね?』
怪異は蓮見を見据えた。
『見えているよ。その心にこびりついた泥のような自己嫌悪。将来への不安。...重いでしょう?かわいそうに』
蓮見の足が、ふらりと前に出た。
そうだ、重い。
私が私でいることが、こんなにも重い。
この面を外さなければ。ずっとつけていれば。あの「静寂」が永遠に続く。
鞄の中の面が、カタカタと震えた気がした。
つけて。つけて。スイッチを切ろう。思考を止めよう。
4.
蓮見の手が、鞄のチャックに触れた瞬間。
ガシッ、と強い力で手首を掴まれた。
「相馬、さん...」
見上げると、相馬が冷たい目で彼女を見下ろしていた。
彼は蓮見の手首を掴んだまま、上座の「老人」に向かって言い放った。
「結構な申し出だが、遠慮しておく。我々の職場じゃ、個人の識別コードが消えると給料が振り込まれないんでな」
相馬の口調は、事務的で、意図的に無粋だった。
神聖な空気に冷水を浴びせるようなその言葉に、周囲の村人たちがざわつく。
『...お金?』
老人は首を傾げた。
『そんな紙切れより、魂の平安の方が大切でしょう?どうして人間は、そんなに自分自身に執着するの?個なんて、苦しいだけなのに』
「
相馬は蓮見を引き寄せ、毅然と言い放った。
「迷っても転んでも、後始末を『自分の名義』で引き受ける。そこまで含めて、こっちの仕組みだ」
それは断罪の言葉ではなかった。
人間社会という、残酷で面倒なシステムの「番人」としての、揺るぎない線引きだった。
相馬は蓮見の耳元で低く囁いた。
「蓮見、呼吸をしろ。あいつの『愛』に同調するな。あれは救済じゃない。名義をそっちに移すだけだ」
「で、でも...」
蓮見は涙目で訴えた。彼女はもう、自分が何を言っているのかも分からなかった。ただ、本能が叫んでいた。
「...今だけでいいから、黙らせたいんです。頭の中の声を。怖いって思う自分を。...私が私でいる作業が、こんなに辛いなんて知らなかった」
それは思想への賛同ではなかった。
ただの、痛みの停止を求める悲鳴だった。
「その辛さが、お前が生きている証明だ」
相馬は老人の顔を指差した。
「よく見ろ。狐が『新しい服』を手に入れて喜んでるだけだ。嘉兵衛という人間は、もうどこにもいない」
相馬の声が、冷徹に響く。
「苦しみが消えたんじゃない。苦しむ主体そのものを消したんだ。これは治療じゃない、権利の持ち主を消去するやり方だ」
ハッとした。
痛みを消すのと、痛みを感じる「私」を消すのは、似て非なることだ。
彼らがやっているのは、壊れた部品を修理することではなく、“本人”を消して席を空けることだ。
相馬は、掴んでいた蓮見の手首を、痛いほど強く握りしめた。
その痛みが、蓮見を現実につなぎ止める楔になった。
5.
「...帰るぞ」
相馬は背を向けた。
「長居しすぎた。これ以上ここにいると、こちらの境界線まで曖昧になる」
村人たちは、去っていく二人を止めなかった。
彼らは決して怒らない。暴力を振るわない。
ただ、上座の老人――かつて嘉兵衛だったモノ――が、心底残念そうに呟く声が背中に届いた。
『もったいないなあ。せっかく、楽になれるのに』
『人間って、どうしてそんなに、不自由が好きなんだろう』
その声には、純度100%の憐れみしか含まれていなかった。
それが一番恐ろしかった。
彼らは本気で、人間を救おうとしている。自我という病から、私たちを解き放とうとしている。その善意が、人間社会とは決定的に相容れないだけなのだ。
宿への道を歩きながら、蓮見は荒い息を吐いた。
手首には、相馬に掴まれた跡が赤く残っている。
ズキズキと痛む。
だが、その痛みだけが、自分がまだ「蓮見という個」であることを証明していた。
「...相馬さん」
「なんだ」
「気持ち悪いのに...羨ましかったです」
蓮見は正直に告白した。
「あの人たち、悩む手間がない。...あの静けさに、戻りたいと思ってしまいました」
「知ってる」
相馬は歩を緩めず、前を向いたまま言った。
「ここの引力は強い。誰だって楽になりたい。...だがな、蓮見。自分で選んで、自分で間違えて、自分で痛い目を見る。それを手放したら、俺たちは『向こうの流儀』に呑まれる」
蓮見は立ち止まり、村を見下ろした。
陽光の下、穏やかで、争いのない、美しい村。
そこは地上の楽園かもしれない。
けれど、人間が住む場所ではなかった。
「...帰りましょう」
蓮見は鞄の中の面を、深く押し込んだ。
指先はまだ震えていたが、その足取りは自分のものだった。
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