第2話 狐の結婚式

1.

翌朝、蓮見は酷い気怠さの中で目を覚ました。


頭が重い。手足が鉛のように動かない。昨夜、あの面をつけていた時の「万能感」が嘘のように、自分の肉体が不格好で重力に縛られたものに感じられた。


布団から出るだけで、ため息が出る。


「...おはようございます」


食堂に行くと、相馬はすでに朝食を終え、白湯を飲んでいた。彼は蓮見の顔を見るなり、小さく鼻を鳴らした。


「顔色が悪いな。離脱症状か」

「...かもしれません。体が重くて」


蓮見は席に着き、出された味噌汁を啜った。味はする。だが、どこか薄膜越しに味わっているような、隔靴掻痒かっかそうようのもどかしさがある。昨夜の、五感が研ぎ澄まされた感覚が恋しいと、脳の奥が訴えている。


「今日は『ハレの日』だそうだ」


相馬が窓の外を顎で示した。


「朝から村が騒がしい。結婚式があるらしいぞ」


窓の外、通りには紅白の幕が張られ、いつも以上に陽気な――人間離れしたバネのある動きの――狐面の人々が行き交っていた。


2.


式は、村の高台にある稲荷神社で行われた。

参道には松明が焚かれ、雅楽の音色が風に乗って流れてくる。

村人のほぼ全員が集まっているのではないかという賑わいだった。もちろん、全員が狐面をつけている。


「ここでの結婚式は、少し特殊だ」


群衆の端で、相馬が声を潜めて言った。


「ここでは『家』と『家』の結びつき以上に、『器』の用意という意味合いが強い」

「器、ですか?」

「見てみろ」


拝殿から、新郎新婦が現れた。

白無垢を着た花嫁と、紋付袴の花婿。二人とも、立派な狐面をつけている。

その所作は、あまりにも美しかった。


指先の動きひとつ、足の運びひとつに一切のブレがない。人間というよりは、精巧な自動人形か、あるいは熟練の人形遣いに操られているかのような完璧な舞い。


「綺麗...」


蓮見は素直に呟いた。


だが、同時に違和感を覚えた。


昨日の午後、役場で書類の手続きをしてくれた若い女性職員が、「明日は私の式なんです」と嬉しそうに話していたのを思い出した。彼女の声は少し高く、早口だった。


だが、目の前の花嫁の佇まいは、昨日の彼女とは別人のように静謐せいひつで、古風な重みがある。


「...あれ、昨日の彼女でしょうか」


蓮見が小声で尋ねる。


「雰囲気が、全然違います。緊張しているから、というレベルじゃなく」

「中身が違うからな」


相馬は平然と言った。


「主導権だ。今日はハレの日だ。人間が表に出る幕じゃない」


3.

式が終わり、公民館での披露宴――というよりは、村全体での宴会が始まった。


そこかしこに酒樽が置かれ、大皿料理が振る舞われる。

村人たちは面を少しずらし、口元だけを露出させて酒を煽り、肉を食らっている。


その食いっぷりが、尋常ではなかった。

貪るように、しかし汚くはなく、一心不乱に「味」を摂取している。


「うまい、うまい!」

「ああ、染みるねえ!この脂、この塩気!」

肉体からだがあるってのは最高だ!」


そんな声が聞こえてくる。


蓮見は、隣で酒を飲んでいた老人に声をかけられた。


「あんたも飲みなされ!今日は人間が奢ってくれる日だ」

「...人間が、奢る?」


蓮見が聞き返すと、面の下の口元がニタリと笑った。


「普段は俺たちが、こいつらの心の重荷を持ってやってるだろ?不安だの、老いの恐怖だのを食ってやってる。その駄賃さ」


老人は自分の胸板を叩いた。


「祝いの日は、人間が俺たちに体を貸すんだ。俺たちは久しぶりに、酒の味や、踊る楽しさを『物理的に』味わえる。持ちつ持たれつよ」


蓮見は背筋が寒くなった。

彼らは酔っ払っているのではない。

「酔う」という感覚を、人間の脳と肝臓を使って楽しんでいるのだ。


宿主である人間は今、どこにいるのか。意識の奥底で眠らされているのか、それとも、自分の体が勝手に飲み食いする様を、客席から眺めているのか。


4.

宴の輪の中心に、新郎新婦がいた。

彼らは多くの村人に囲まれ、祝杯を受けている。

蓮見は、意を決して花嫁に近づいた。昨日の役場の彼女なら、一言祝いを言いたかった。


「あの、おめでとうございます」


蓮見が声をかけると、花嫁がゆっくりと振り返った。

その動きは流体的で、人間特有の関節の硬さがない。


「あら、昨日の『お客様』」


花嫁が言った。声質は昨日の彼女と同じだ。だが、抑揚が全く違う。老婆のように落ち着き払っていて、そして艶めかしい。


「旦那様と、お幸せに」


蓮見は探りを入れるように尋ねた。


「...貴女自身は、どう思っているんですか?」


花嫁の動きが一瞬、止まった。

流れるようだった所作が、カクン、と不自然に強張る。

面の下から、小さな、震える声が漏れた。


「私...うまく、やれるかな。あの人の家とうまく...」


それは昨日の、あの自信なさげで早口な彼女の声だった。

不安と緊張で押しつぶされそうな、等身大の人間の声。

だが、その声は一瞬で途切れた。


スゥ、と花嫁の背筋が伸びる。


再び、あの艶めかしい「狐」の声が戻ってきた。


「――見ての通りよ。この子は不安で壊れそうなの」


花嫁は、まるで愛しいペットを撫でるように、自分の胸元をさすった。


「人間はすぐに心変わりをする。飽きる。不安になる。でもね、私たちが間に入れば、関係は永遠に安定するの」


新郎が近づいてきて、花嫁の肩を抱いた。二つの狐面が寄り添う。

花嫁の面の奥で、先ほどの「彼女」の不安は、甘い麻酔のような安心感に塗りつぶされているのだろう。

自分で悩み、苦しむ権利を放棄して。


5.


「行くぞ、蓮見」


いつの間にか背後にいた相馬が、蓮見の肩を掴んだ。


「これ以上は野暮だ。彼らの『愛の交歓』を邪魔するな」


宿への帰り道、祭囃子が遠ざかっていく。

蓮見は吐き気をこらえていた。


「...見ていられませんでした」

「そうか?」


相馬は懐中電灯で足元を照らしながら、淡々と言った。


「需要と供給は、成立している。人間は孤独と責任から解放され、安定した家庭を手に入れる。狐は肉体という娯楽を手に入れる。利害は一致してる」

「でも、あれじゃ人間はただの...家畜じゃないですか」

「管理された生き方の方が、楽な者もいる」


相馬の声は静かだった。


「自由というのは、蓮見が思うよりずっと重い荷物だ。自分で選び、自分で傷つき、自分で責任を取らなきゃならない。それは全員に向いた制度じゃないんだ」


相馬は夜空を見上げた。満月が、狐の目のように細く輝いている。


「彼らは、その『重荷』を誰かに預けて生きることを選んだ。俺たちが口を出す領分じゃない」


蓮見は振り返った。


神社の境内からは、まだ楽しげな笑い声と、祝歌が聞こえてくる。

あの中で、新郎新婦の「本心」は今、何を感じているのだろう。

自分の体が他者に愛撫され、祝福されるのを、麻酔のかかったような意識で「これでいいんだ」と思い込まされているのだろうか。


(...あんなふうに生きられたら、どれだけ楽だろう)


一瞬でも彼らを羨んでしまった自分が、ひどく醜いものに思えた。


ふと、自分の顔を触る。


素顔の皮膚が、ひどく頼りなく、薄っぺらいものに感じられた。


もし自分もあの面をつけていれば、この胸のムカムカする自己嫌悪さえも、狐が食べてくれたのだろうか。


「...早く、宿に戻りましょう」


蓮見は逃げるように歩き出した。

吐き気をこらえていたが、舌の奥が、昨夜の“澄んだ味覚”をもう一度だけ欲しがっているのを、彼女は感じてしまっていた。

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