境界係の線引き

@kyoukaikiroku

狐付の村編

第1話 憑依する福祉

1.

環境省、外局。民俗環境保全課・第四係、通称「境界係」。

霞が関の庁舎の地下二階、資料庫の隣にあるその部屋は、常に除湿機の低い唸り声が響いている。

窓のない部屋で、相馬そうまは一枚の書類に決裁印を押していた。


「相馬さん、今回の『種倉村たなくらむら』ですが」


新人調査官の蓮見はすみが、タブレットを抱えて不安そうに尋ねた。


「資料によると、かつて『狐憑きつねつき』の伝承があり、差別的な扱いを受けていた地域ですよね。私たちが介入して、大丈夫なんでしょうか」

「差別は過去の話だ」


相馬は書類を閉じ、立ち上がった。色素の薄い黒髪に、感情の読めない瞳。年齢不詳の彼は、淡々と事実だけを口にする。


「今の彼らは、憑くことを『資源』に変えた。俺たちの仕事は、その運用が現代の法秩序と人間の生理的限界と整合しているかを確認することだ」


車は峠を越え、盆地へと下っていく。

ナビの画面には、ただの空白地帯が表示されていた。


2.

村に入って最初に感じたのは、奇妙な「軽さ」だった。

廃村寸前の限界集落という事前データとは裏腹に、村は活気に満ちていた。

畑では八十は超えているであろう老婆が、土の詰まった重い袋を軽々と肩に担ぎ、鼻歌まじりに運んでいる。

役場の職員たちは、倍速再生のような手際で書類をさばき、窓口には笑顔が溢れている。


そして、その全員が、顔に「白い狐の面」をつけていた。


「...異様ですね」


蓮見が窓に張り付くようにして言った。


「お祭りの日でもないのに。それに、あの身体能力。ドーピングでもしているんでしょうか」

「ある意味ではな」


相馬はハンドルを切り、役場の駐車場に車を停めた。


「だが、薬物反応は出ない。彼らが摂取しているのは物質じゃないからだ」


役場のカウンターで、総務課長を名乗る狐面の男が、我々を出迎えた。

彼は非常に愛想よく、そして事務的に、二つの箱を差し出した。


「遠いところをご苦労様です。さあ、どうぞ。こちらが外からの『お客様用』になります」


箱の中には、真新しい狐面が入っていた。

ただの玩具ではない。裏側を見ると、額のあたる部分にびっしりと、朱色の筆で細かな文字が書き込まれている。

読もうとすると目が滑るような、不可解な記述だった。


「これを?」


蓮見が躊躇う。


「必須ですか?」

「強制ではありません」


課長は穏やかに言った。


「ただ、この村の空気は『濃い』ですから。初めての方は、少し酔いやすいかもしれません。フィルターだと思って、気軽にお使いください」


3.

相馬は無言で面を受け取り、装着した。蓮見もそれに倣う。

和紙の感触が顔を覆う。

視界が狭くなる。自分の呼吸音が反響する。


その直後だった。


――ぬるり。


面の裏側から、冷たい水のようなものが、皮膚を通して脳内に入り込んでくる感覚があった。

蓮見は小さく息を飲んだ。


不快ではない。むしろ、真夏に清流に手を入れた時のような、鮮烈な清涼感。


頭の中に溜まっていた旅の疲れ、仕事のプレッシャー、上司の顔色を伺う緊張感。それらが一瞬にして「どうでもいいこと」として処理され、意識がクリアになる。


『...代わってあげる』


耳元で、鈴の音のような声がした気がした。

それは悪魔の囁きではなく、重い荷物を持ってくれようとする親友のような、無垢な善意だった。


「あ...」


蓮見の口から、自然と吐息が漏れた。

体が軽い。思考が速い。

目の前の景色が、解像度を上げたように鮮やかに見える。

彼女は思わず笑みをこぼした。


「相馬さん、これ、すごいです。頭の中が静かです。私、今なら何でもできそうな気がします」


彼女は足踏みをした。重力から解放されたかのように、体がふわふわと浮く感覚。

もっと動きたい。もっと働きたい。この万能感を試したい。

面の奥にいる「誰か」が、彼女の運動野をくすぐり、快楽物質を注ぎ込んでくる。


これが憑依。


恐怖の対象とされてきた現象の、本当の姿。

それは乗っ取られる恐怖ではなく、委ねる快楽だったのだ。


4.

不意に、うなじに冷たい感触が走った。

蓮見はビクリと震え、我に返った。

見ると、相馬が彼女の背後に立ち、面の隙間に何かを差し込んでいた。


事務用の、味気ないステンレスの定規だった。

何の変哲もない金属の冷たさが、回路を物理的に遮断するかのように、高揚感を断ち切った。


「ふ、あ...?」


蓮見はその場にへたり込んだ。

急速に重力が戻ってくる。自分の肉体の重さ、気怠さが、津波のように押し寄せる。


「飲み込まれるな」


相馬は静かに定規を抜き、ポケットにしまった。


「そいつは親切だが、加減を知らない。気を許せば、お前の自我ごと処理されるぞ」


相馬は自分の面を少しずらし、隙間から冷ややかな視線を総務課長に向けた。


「...効力が強すぎるな」

「おや、お気に召しませんでしたか?」


課長は悪びれる様子もなく、狐面のまま首を傾げた。


「ここでは、悩みや不安は『個人の所有物』ではないのです。みんなで分け合い、処理する。それが最も効率的でしょう?」



5.

宿の部屋に戻った頃には、日はすっかり落ちていた。

蓮見は布団の上に座り込み、自分の手を見つめていた。


あの万能感はもうない。あるのは、ただの疲れ切った人間の肉体だけだ。

だが、耳の奥にはまだ、あの「チリン」という涼やかな音が残っている気がした。


「...判定は、どうしますか」


蓮見が掠れた声で尋ねた。


「あれは危険です。薬物依存と同じ構造です。禁止すべきでは?」


相馬は窓辺で手帳を開き、ペンを走らせていた。


「禁止?何の権限でだ」


彼は窓の外、暗闇の中で明かりを灯して働く村人たちを見下ろした。

彼らは疲れを知らず、笑顔で、幸せそうに夜道を行き交っている。


「労働生産性は向上。幸福度は極めて高い。暴力事件も皆無。今の法律では、これを『害悪』と定義する条文がない」


相馬は手帳に『判定:保留(要・長期観察)』と書き込んだ。


そして、独り言のように付け加えた。


「ここは人間と妖怪の共用区画だ。居心地はいいだろうさ。...人間であることを辞めたい奴にとってはな」


蓮見は枕元に置いた狐面を見た。

白塗りの面が、月明かりを浴びて、ニタリと笑っているように見えた。

怖い、と思う理性の端で、本能が訴えている。


――もう一度、つけてしまえば楽になるのに。


この村の夜は、優しすぎて、毒のように甘い。

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