第5話 踏み出す理由
五日目の朝は、少しだけ体が軽かった。
痛みが減ったわけではないが、胸の奥に溜まっていたものが、わずかに薄くなった感じがする。
スマートフォンを手に取り、通知を確認する。
会社からの連絡は、来ていなかった。
それだけで、十分だった。
昼を少し過ぎた頃、病室のドアがノックされる。
「こんにちは」
聞き慣れた声に、恒一は反射的に体を起こそうとした。
「――っ」
思ったよりも、鈍い痛みが走る。
「相馬さん!」
澪が、慌てて駆け寄ってきた。
反射的に、背中に手を当てられる。
「無理しないでください、起きなくていいです。横になったままで」
近い距離で、真剣な声。
「……すみません」
「謝らないでください」
きっぱりとした言い方だった。
恒一は、言われるままベッドに身を預ける。
澪は、しばらく相馬の肩に当てた手を離さなかった。
「……やっぱり痛みますよね?」
「少しだけです」
「少しでも、です」
そう言ってから、澪はようやく手を離した。
椅子に腰を下ろしたものの、落ち着かない様子で指先を絡めている。
「……やっぱり」
小さな声。
しばらく沈黙が続く。
「……私のせい、ですね」
恒一は、一瞬、言葉を失った。
「私があの時、ちゃんと周りを見ていれば」
澪は、膝の上で手を握りしめている。
「相馬さんが怪我をして、入院することなんて……なかったのに」
唇を噛みしめる。
恒一は、はっきりと分かった。
澪は、この数日間、ずっとそれを抱えていたのだ。
「朝霧さん」
少しだけ、声を強める。
澪が顔を上げた。
「前にも言いましたけど」
落ち着いた声で、続ける。
「あれは、不慮の事故です」
迷いのない口調。
「俺の体が勝手に動いただけです」
「でも……」
「それに」
澪の言葉を遮らないよう、ゆっくり言葉を重ねる。
「俺は独り身ですし、心配してくれるような友人もいません」
淡々とした事実。
「心配する人も、困る人も、正直いない。仕事だって俺がいなくても何とでもなります」
澪の目が、わずかに揺れた。
「でも、朝霧さんが怪我したら」
恒一は、静かに続ける。
「いろんな人が心配します」
断定だった。
「だから」
一拍置いて。
「今後は、自分が怪我をしないように気を付けてください。それだけで、十分です」
澪は、しばらく何も言えなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……ずるいです」
「何がですか」
「そんな言い方されたら」
困ったように、少しだけ笑う。
「私だけ、楽になるじゃないですか」
「楽になっていいと思います」
即答だった。
澪は、その言葉を噛みしめるように黙る。
「……ありがとうございます」
小さな声。
「それでも」
少しだけ顔を上げて。
「ちゃんと治るまでは、来させてください」
確認ではなく、お願いだった。
恒一は、迷わなかった。
「はい。助かります、正直暇すぎて死にそうなんで」
澪の表情が、ふっと緩む。
「じゃあ、今日も来て正解でしたね」
少しだけ、いつもの調子に戻った声。
その後は、他愛のない話をした。
病院食の味、売店の品揃え、外の天気。
特別な会話ではない。
それでも、澪が来てから、時間の流れが違って感じられる。
帰り際、澪はドアの前で振り返った。
「明日も、来ます」
「……お願いします」
ドアが閉まり、病室に静けさが戻る。
けれど、その静けさはもう、空白ではなかった。
恒一は天井を見上げる。
――誰かに怪我をしないで欲しいと願うなんて、
そんなことを願ったのはいつぶりだろうか。
それが、少しだけ誇らしかった。
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