第3話「四十五分」
三十分後。
私は駅近くのカフェで、その人と向かい合っていた。
店内は、思ったより静かだった。
……ただし、心地いい静けさじゃない。
スプーンがカップの縁に触れる音が、やけにクリアに響く。
理由もないのに、落ち着けない。肩の力が抜けない。
向かいに座るニアは、相変わらずきっちりした佇まいだった。
視線が私の上をさらりとなぞる。少し乱れた髪、うっすら浮いたクマ。そこまで見て、止まる。
「今日で、あっちの契約終わりよね」
確認するみたいな、軽い口調。
まるで些細な事務連絡みたいに。
私は一拍、言葉に詰まる。
「……なんで知ってるの」
「うん」
ニアはコーヒーを一口飲む。
「そういうの、知るの難しくないの」
私は返さなかった。
というより、どう返せばいいか分からなかった。
「三ヶ月の現場、終了。……感想は?」
「……別に。普通」
「普通じゃない」
ニアの口元が、ほんの少しだけ吊り上がる。
「エリ、あなた“普通”で済ませるタイプじゃないでしょ」
テーブルの下で、私は両手をぎゅっと握った。
余裕があった頃の私なら、たぶん言い返してた。
でも今は、余裕なんて残ってない。
あるのは、ただの疲労だけ。
「……呼び出したの、それを聞くためじゃないでしょ」
私は声を出す。寝不足で喉が少し掠れていた。
「で。用件は?」
ニアはしばらく私を見た。
鋭い目じゃない。圧もない。
なのに、私は今、秤に載せられて計られている気分になる。
「仕事があるの」
やっと彼女が言った。
「ちょっと面倒なやつ」
「面倒?」
「うん。面倒っていうか……」
ニアは小さく頷いて、言葉を選ぶ。
「関わりたくない人は、絶対に関わりたくないタイプ」
私は息を吐く。
「……それ、誘い文句じゃないね」
「誘いじゃないもの」
ニアは笑う。
「少なくとも、あなたが喜ぶ種類じゃない」
彼女はスマホを取り出し、指で画面を滑らせて――私の方へそっと押した。
表示されたのは、一人の女の子の写真と、名前。
私はそれを見て、固まった。
「……シンフィエロ?」
「その名前だけ覚えればいい」
ニアは即答する。質問の余地を潰すみたいに。
「他は、今は知らなくていい」
私は顔を上げた。
「……なんで、私なの」
ニアは数秒沈黙した。
そして、あまりにも素っ気なく言う。
「今、暇でしょ」
さらに一拍置いて。
「それに、あなたはお金が必要」
反論の隙がない。
綺麗なくらい、現実だけでできた言葉だった。
「……いつもそんな言い方?」
「必要なことしか言わないだけ」
ニアは首を傾ける。
「あなた、そういう“わかりやすさ”嫌いじゃないでしょ」
私は小さく笑ってしまった。
自嘲なのか同意なのか、自分でも分からない。
「で。何をすればいいの」
「三ヶ月」
ニアはゆっくり言う。
「シンフィエロさんに、付き添ってほしい」
「……付き添い?」
「うん。彼女が“帰国してる間”」
私は眉を寄せる。
「名目は?」
「アシスタント」
ニアはスマホをテーブルに戻す。
「予定管理。雑用。必要な時に隣に立つ。それだけ」
彼女は一拍、止めた。
「……現実は?」
私は言葉を継がなかった。
でも、わかる。
“それだけ”で終わる仕事じゃない。
「三ヶ月」
私は確認するように繰り返した。
「それ以上は?」
「三ヶ月。きっちり」
ニアは頷く。
「それ以上は、ない」
「……じゃあ、私の得は?」
ニアは私を見て、くすっと笑った。
「相変わらず、鋭い」
彼女は少し身を乗り出した。
「こうしましょ。もしあなたがこの仕事を受けるなら――」
わざとらしいくらい、間を作る。
「……あなたが望んでるものに、もう一歩近づける」
心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。
言葉にしなくても分かる。
ニアが指しているのは、私がずっと追いかけてきた“たった一つ”のこと。
これを条件に出してくる時点で、簡単な仕事じゃない。
本当は断るつもりだったのに――
頭のどこかで、揺れる自分がいる。
私は窓の外を見る。
人の流れは途切れず、世界はいつも通りに回っている。
……ズレてるのは、私だけだ。
「時間、あんまりない」
ニアは腕時計を見た。
「四十五分あげる」
「……何のために」
「行くため」
ニアは立ち上がり、コートを羽織る。
「十一時。Korin国際空港」
「行かなかったら?」
「今日のことは、なかったことにする」
「十一時って……」
私は眉をひそめた。
「冗談でしょ」
ニアは振り返って、いつもの笑みを浮かべる。
「ちゃんと考えて」
「あなたが、この仕事を好きにならないのは知ってる」
「でも、チャンスって――いつも来るものじゃない」
「……」
意味が飲み込めず、私は固まった。
ニアはテーブルに一冊のファイルを置き、それを私に押しやる。
「持っていって」
「少なくとも、自分が何にぶつかるかくらいは知るべき」
そう言って、彼女は背を向けた。
「……待って」
思わず声が出た。
「厄介事だけ置いて、帰るの?」
ドアのところで足が止まる。
ニアが振り返り、私を見る。
「いつか」
低い声で言った。
「あなた、これに感謝する日が来る」
それだけ残して、ニアは店を出ていった。
私は一人。
冷めたコーヒーと、置き去りにされたファイルだけが目の前にある。
「……ほんと、何も変わってない」
私はファイルの中から、写真を引っ張り出した。
そこに覗く、女の子の名前。
――シンフィエロ。
三ヶ月、か。
割に合うのか。
どうなるのか。
何が待ってるのか。
分からない。
でも、不思議と――
このチャンスを逃したら、私はきっと後悔する。そんな予感だけは、はっきりあった。
胸の奥がざわつく。
落ち着かない。
何かをしろ、と急かされているみたいに。
「……よし」
失うものなんて、今の私にはほとんどない。
今ここで踏み出して、後悔する方がいい。
何もしないまま、あとからじわじわ痛む後悔を抱えるより――ずっとマシだ。
私は立ち上がった。
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