第2話 「人生はだいたい、しんどい」
人生には、二つの“しんどい”がある。
一つは失業。
もう一つは――働くこと。
それが、私が資本主義に身を売って三ヶ月で辿り着いた結論だ。
朝の五時半。
世の大半がまだ夢の中にいる時間に、私は――モリカ・エリ――ひたすら全力疾走していた。
あり得ないくらい傾斜のきつい坂を、あり得ないくらいの勢いで。
腕の中には、視界の半分をふさぐほど高く積まれた服の山。
乱れた髪がほどけて、背中に、顔に、容赦なく叩きつけられる。
頭の中に残っているのは、ひとつだけ。
やばい……やばい、ほんとにやばい。
心臓が暴れて、耳がキーンとする。
脚はもう自分のものじゃないみたいで、ただ前へ前へと突っ込んでいく。
「このままだと、地面にキスする……!」
歯を食いしばってバランスを取る。
目だけを忙しく動かして、避けられるルートを探した。
路地の先に、急カーブ。
私は足を踏ん張り、身体を傾けて――
「ぁ――!」
曲がった瞬間、目の前を塞ぐように二人のスタッフが大きな背景パネルを運んでいた。
反射で身を低くする。
私はほぼ地面スレスレまでしゃがみ込み、パネルの下の隙間を滑り込むように抜けた。
二人の間をすり抜ける。
抱えた服の山が大きく傾く。
私は慌てて持ち直し、喉まで跳ね上がった心臓を押し込んだ。
「今、何か走っていかなかったか?」
「おい! あの子! 危ねぇだろ!」
走りながら振り返って叫ぶ。
「すみませーん! 急いでるんです!」
それだけ言い捨てて、また前だけを見る。
背後の怒鳴り声は遠ざかっていく。
「……まだ、間に合う。たぶん」
顔に張りつく髪を乱暴に払って、私は路地の突き当たりに見える撮影現場へ突っ込んだ。
入った瞬間、いつもの混沌に飲み込まれる。
人が走る。
叫ぶ。
機材がカチャカチャ鳴る。
床にはケーブルと三脚とスタンドが蜘蛛の巣みたいに絡み合ってる。
誰も、息を切らした衣装係の小娘なんて見ていない。
……最高。存在感ゼロ、助かる。
私は機材箱の間を縫い、通路にせり出したカメラをギリギリでかわし、補給スペースの前で急ブレーキ。
「どさっ!」
服の山を木のテーブルに叩きつける。
腕がちぎれそう。汗が手首を伝って落ちた。
「モリカ先輩! どうでした!? 揃いました!?」
飛び込んできたのはメイ。
同じ衣装チームの子で――そして今日の“犯人”でもある。
「……はい、全部。揃えた」
私はゼェゼェしながら顎で服の山を示す。
「朝から市場と店、片っ端から漁ったんだけど。これで足りなかったら泣く」
メイの目が丸くなる。
緊張がほどけた顔で、彼女は勢いよく私に抱きついた。
「先輩、神です! 班長と監督にめちゃくちゃ怒られて……!」
「ちょ、ちょっと! 降りて! 首折れる!」
私は必死で引き剥がしながら、角に置かれた焦げた衣装箱をちらりと見た。
……一回の朝でシャツを四枚“燃やす”って、才能の方向が間違ってる。
「次は気をつけな。半日で四枚は、さすがに私でも無理」
「うぅ……はい……!」
メイは頭をペコペコ下げたあと、なぜか嬉しそうに何かを差し出してくる。
「先輩、朝ごはん食べてないですよね? これ、買ってきました!」
ずしっとした、具がはみ出しそうなパン。
肉がぎゅうぎゅうに詰まっている。
――その瞬間。
私の腹が、待ってましたと言わんばかりに鳴いた。
……くっ。
私、そんなに分かりやすい?
徹夜で働いて、睡眠どころか食べる時間もない。
熱いパンの匂いが、脳に直接刺さる。
でも。
私はパンをよく見て、ピタッと止まった。
「……新しい店?」
「はい! 並ぶのめっちゃ大変でした!」
目が、ピクッとする。
いや、そこ頑張るとこじゃない。
目の前の地獄を片付ける方が先だろ。
感動すべきか、殴るべきか、一瞬迷って――結局ため息。
「……ありがと。で、着替えの補助行って」
「はいっ!」
メイは服を抱えて飛び出していく。
私は椅子を引いて座り、背中をテーブルにもたれた。
「ふぅ……」
全身が鉛みたいに重い。
私は包み紙を破り――
「モリカ! いた!」
背後から、甲高い女声。
私は飛び上がりそうになって、危うくパンを落としかけた。
振り返ると、副監督がロケットみたいな速度で突っ込んできていた。
腕には分厚い台本の束。
「ラストのシーン変更! 四十部、至急印刷して配って!」
「え、ちょ……」
返事をする暇もなく、ずしりと重い台本が私の腕に押し付けられる。
副監督は、そのまま風のように去った。
私はパンを脇に挟み、台本を抱え、コピー室へダッシュ。
古いプリンターが、唸るような音を立てて震える。
一枚目の紙が、じわじわと出て――熱で端がくるん、と丸まった。
「お願い……もうちょい早く……」
――ビリッ。
紙詰まり。
私はしゃがみ込み、紙を引っ張り出し、癖で機械の側面を軽く叩く。
動く。
一枚だけ。
――また詰まる。
「……私に喧嘩売ってんの?」
結局、赤くヒリヒリする指先で、まだ熱い紙の束を抱え、私は現場を走り回る羽目になった。
ケーブルを跨ぎ。
三脚の隙間をすり抜け。
役者の動線を邪魔しないように身体を折りたたむ。
最後の一枚を渡し終えた瞬間、壁にもたれて息を吐いた。
脇に挟んでいたパンが、今にも落ちそうだ。
「……よし。今度こそ食べ――」
「モリカ! ヒロインのドレスの飾り、壊れた! すぐ直して!」
衣装班長の声が遠くから飛ぶ。
反射で声が出た。
「はい! すぐ行きます!」
私はパンをジャケットのポケットに突っ込み、針と糸の箱を掴んで走った。
分厚いドレスにしがみつくようにして縫い直す。
息を整える間もなく、無線がザザッと鳴る。
『モリカ! B3のカメラ、バッテリー切れそう!』
「了解です!」
私は方向転換して補給車へ。新しいバッテリー箱を取り、脚立を担いでB3へ突撃。
登って交換して、降りた瞬間――
「モリカ! Cチームに水運んで!」
「今行きます!」
汗を拭いながら水の箱を集め、外の廊下を走って届ける。
置いた瞬間、また声が響いた。
「モリカ・エリィィィ!!」
今度は誰の声かも分からない。
ただ、自分の名前が四方八方から同時に飛んでくる。
私は中庭で立ち止まってしまった。
ふと、思う。
――いつか私の名前が、授賞式でこれくらい呼ばれたら。
その時は、泣くほど嬉しいんだろうな。
でも今は。
呼ばれれば呼ばれるほど、倒れたくなるだけだ。
午前から昼前まで、私は糸巻きみたいに回り続けた。
止まれば死ぬ、の勢いで。
そして、監督の大きな声。
「はい! カット! ……オールアップ!」
現場が一斉に歓声で沸く。
機材の片付けが始まり、みんな笑っている。
……私は、笑えない。
私は重い小道具箱を抱え、ふらふらと衣装部屋へ戻った。
部屋に入った瞬間、壁際の古いソファに、身体を落とす。
「……やっと……」
頭を背もたれに預け、目を閉じる。
足が痺れて、自分の足じゃないみたいだ。
背中も痛い。でも今はどうでもいい。
私はポケットを探り、“救世主”を取り出そうとして――手が止まった。
さっきのパンが。
……ぺちゃんこだった。
形が、もう“パン”じゃない。
惨状すぎて笑えてくる。
「お前……私みたいだな、パン」
どっちも一日でボロボロだ。
腹は限界で鳴っている。
私は目を閉じ、意を決して一口かじった。
「……っ!」
酸っぱい。苦い。
私は顔をしかめ、慌てて吐き出して咳き込んだ。
「うそでしょ……見た目どおり、味も地獄!?」
鳥肌が立つ。
視覚から味覚までホラーって、才能がありすぎる。
私はパンを包み直し、横へ放り、口元を拭いた。
水を掴んで、一気に飲み下す。
やっと頭が少しだけ冷えた。
三ヶ月。
私は“衣装係”として入ったはずなのに、気づけば何でも屋になっていた。
足りないところを埋め、呼ばれた場所へ走り、穴があれば私が詰める。
五人分みたいに働いても、給料は生き延びるだけ。
私は乾いた笑いを漏らす。
現代の奴隷。
……言い過ぎでもない。
天井を見上げ、深く息を吐いた。
契約は、今日で終わり。
明日、私はKorin(コリン)を出る。
Time City(タイムシティ)へ帰って――私の住む、あの騒がしい街へ戻る。
正直、働くならどこでも同じだ。
場所が変わるだけで、心も身体も消耗するのは変わらない。
……でも。
私はTime Cityのあの賑わいに慣れてしまっている。
戻れると思うと、胸の奥が少しだけ浮き立った。
熱い湯。
まともな食事。
長い睡眠。
ホテルで私を待っている“人間らしい生活”を想像しただけで、心が軽くなる。
「……明日は帰る前に、Korinもちゃんと見て回らないと」
Korinは、綺麗な街だ。
せっかく来たのに、仕事しかしていないのは癪だし。
私は目を閉じ、全身の力を抜く。
嵐のあとみたいな静けさが、やっと訪れた気がした。
外の騒がしさも、だんだん薄れていく。
みんな片付けを終えて、休みに行くんだろう。
私も、もう少しだけ休んで――帰ろう。
「……あら。エリ? あなた……なの?」
低くて、温かい。
驚きの混じった女の声が、目の前で響いた。
私ははっと目を開け、勢いよく起き上がる。
「え……?」
休憩室の入り口に立っていたのは――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます