第五章:臨界点――運命は正午に爆発する
小説:ペルシャの市場にて
第五章:臨界点――運命は正午に爆発する
1. 静寂という名の狂気
市場の時計が止まったその瞬間、世界から「音」が剥ぎ取られた。
数秒前まで、ダネシュが叫び、イナズが笑い、サイラスのラクダが嘶(いなな)いていたあの狂騒が、嘘のように真空へと消えたのだ。
だが、それは平和な静寂ではなかった。
それは、火薬庫に火が投げ込まれ、爆発する直前の、あの恐ろしいまでの「溜め」の時間。
群衆は、動くことを忘れた。
売り子のダネシュは、差し出した香油の瓶を掲げたまま、石像のように固まっている。その指先からは、一滴の雫が、重力に逆らうかのようなスローモーションで滴り落ちようとしていた。
イナズは、山積みにしたサフランの頂に手を置いたまま、呼吸を止めている。彼女の瞳には、黄金色の粉塵が空中に静止して浮遊する様が映っていた。
「……来る。……本当に、来るぞ」
長老カビールの震える心の声が、無音の空間を伝播していく。物乞いたちは、自分たちが磨き上げた石畳に額を擦りつけ、あまりの緊張に歯の根が合わずにカタカタと震えていた。その震えが、地響きとなって市場の底を揺らしている。
2. 圧縮される色彩と熱量
市場の入り口に目を向ければ、そこにはサイラスとシャヒーンがいた。
彼らの纏う砂漠の熱気と、市場の湿った熱気が、広場の入り口で激突し、目に見えるほどの陽炎となって立ち昇っている。
サイラスは、ラクダの首を強く抱きしめていた。その腕の筋肉は、予言の刻(とき)を逃すまいと、岩のように硬く強張っている。
「……シャヒーン。見えるか。あの影が」
「あぁ、カピタン。砂漠の嵐より恐ろしい、極彩色の嵐だ」
彼らの視線の先、市場の奥深くから、ゆっくりと「その時」が滲み出してくる。
それは、まさに王女ニルファルを乗せた青い輿(こし)の影だった。
だが、まだその全貌は見えない。
出し惜しみするように、ゆっくりと、じりじりと、車輪が石畳を噛む音だけが、「……ギ、ギ……」と、心臓の鼓動を刻むように等間隔で響く。
3. 闇の深呼吸:シャハブの指先
この静寂の裂け目で、蛇使いシャハブだけが、獲物を狙う獣の眼をしていた。
彼は、愛用の笛を唇からわずか数ミリの距離で止めている。
彼の指は、穴を塞ぐのではなく、音楽を解き放つための「引き金」として、極限まで引き絞られていた。
彼の足元で、キングコブラが鎌首を最大まで持ち上げ、舌をチロチロと出している。
「……待て。まだだ。まだ放つな。王女の影が、あの噴水の水面に重なる瞬間まで……」
シャハブの額からは、一筋の汗が流れ、顎に伝い、そして地面に落ちる。
その一滴が土を叩く音が、今のこの市場では落雷のように響くほど、空気は研ぎ澄まされていた。
4. 宮殿の冷気と、王女の眼差し
そして、あの絵の中の情景。
青い輿のカーテンが、砂漠の微風にわずかに揺れる。
侍女インジは、王女の手を握りしめた。その掌は、恐怖とも歓喜ともつかぬ熱を帯びている。
妃イレムは、自らのプライドのすべてを注ぎ込んだこのパレードの完遂を確信し、薄い唇を吊り上げている。
護衛官ホセインは、王女を遮るすべてを斬るために、シムシャールの柄を握りしめ、親指で鍔(つば)をわずかに押し上げた。カチリ、という小さな音が、開戦の合図のように響く。
輿の中に座る王女ニルファルは、閉じようとしていた瞼を、ゆっくりと、本当にゆっくりと持ち上げた。
その瞳が、黄金の空気越しに市場を捉える。
彼女の視界の中で、
必死に生きる物乞いたちの背中が、
命をかけて砂漠を越えてきた商人の顔が、
そして、自分を待ち構える群衆の、狂気にも似た「愛」が、
一つの大きな渦となって彼女に襲いかかる。
「……あ」
王女の唇が、わずかに開く。
その瞬間。
止まっていた時計の秒針が、爆発するように跳ねた。
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