第3話 迷いながらの前進
1人になった店で、俺は、動けなかった。
彼女の言葉が、頭の中で繰り返されている。
―「あなた、私のこと、何も聞いてないですよね」—
聞いてなかった。
俺は、彼女が「救われたい」のか「依存しそう」なのか「縛られる」のか——勝手に決めていた。
彼女が何を感じているのか。彼女が何を望んでいるのか。彼女が、どうしたいのか。
1度も、聞かなかった。
―「私を『被害者』にしたのも、あなたですよ」—
そうだ。
俺が「暴力だ」と言ったから、彼女は「暴力を受けた人」になった。俺が「依存させたくない」と言ったから、彼女は「依存しそうな人」になった。
俺は、彼女を守ろうとしたんじゃない。
俺は、自分を守ろうとしていた。
「加害者になりたくない」「誰かを縛りたくない」「誰かの人生を狂わせたくない」
全部、俺の話だ。彼女の話じゃない。
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俺は、カウンターに手をついた。
この手で、3日前、味噌汁を作った。この手で、彼女の——
いや、違う。
俺はまた、「俺」の話をしてる。
彼女は——サナエさんは、どう感じたんだ?
あの味噌汁を飲んで、泣いた時。3年分の言葉が、溢れた時。俺に「美味しかった」と言った時。
彼女は、何を感じていた?
俺は——聞かなかった。
聞く代わりに、「すみません」と言った。聞く代わりに、「暴力だった」と言った。聞く代わりに、「もう作れない」と言った。
俺は、彼女を「救われる側」に押し込めた。
そして、俺は「苦悩する側」に逃げた。
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換気扇を止める。電気を消す。店を出る。
帰り道、俺は考えていた。
サナエさんは、もう来ない。
それは——正しいことなのか?
俺が「傷つけたくない」と言って、彼女を遠ざけた。彼女は「人間として見てない」と言って、去っていった。
どっちが正しい?
……分からない。
分からないけど、1つだけ——
俺は、逃げた。
「加害者になりたくない」という理由で、彼女と向き合うことから、逃げた。
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午前5時47分。
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
眠れたのか、眠れなかったのか、分からない。意識が途切れた時間はあったと思う。でも、休めた感覚はない。
体が重い。頭も重い。
でも——時間は、進んでいる。
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午前6時。顔を洗う。
午前6時半。着替える。
午前7時。家を出る。
足が重い。でも、動いている。
なぜだ? 俺は今日、店を開けるのか? 料理を作るのか?
分からない。
分からないけど——足は、店に向かっている。
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食堂「ゆうなぎ」。午前8時。
鍵を開ける。
店内は暗い。昨日の匂いが、かすかに残っている。
電気をつける。換気扇を回す。厨房に入る。
まな板を出す。包丁を取る。
——手が、止まる。
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この包丁で、昨日、鯖を捌いた。3日前は、豆腐を切った。サナエさんに出した、あの味噌汁の——
―「私を『被害者』にしたのも、あなたですよ」―
包丁を、置いた。
俺は——何をしてるんだ?
昨日、あれだけのことがあって。サナエさんに、あれだけのことを言われて。俺は、自分が「弱い」と分かって、「逃げてた」と分かって——
なのに、なんで——なんで俺は、ここに立ってるんだ?
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分からない。
分からないけど——俺は、ここ以外に行く場所がない。料理を作ること以外に、できることがない。
それが「逃げ」なのか「向き合うこと」なのか、分からない。
俺は、答えを持っていない。
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午前9時。
仕込みを始める。
今日の日替わりは、豚の生姜焼き。キャベツを千切りにする。豚肉に下味をつける。
手が動く。考えるより先に、手が動く。
20年、この仕事をしてきた。体が覚えている。
頭が迷っていても、手は——動く。
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午前11時。
暖簾を出す。
「ゆうなぎ」の文字。藍色の布。もう15年、同じものを使っている。
ガラス戸を開ける。秋の空気が入ってくる。
俺は——店を開けた。
答えが出ないまま。
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午前11時15分。
最初の客が来た。
近所の工務店で働いている、50代の男性。田中さん。週に3回は来てくれる常連だ。
「よう、マスター。今日は生姜焼きか」
「はい」
「じゃあ、それで」
「かしこまりました」
普通の会話。普通の注文。
俺は厨房に戻った。
豚肉を焼く。生姜の香りが立つ。キャベツを盛る。味噌汁をよそう。ご飯を盛る。
普通の定食を、普通に作る。
「あの力」は——動かない。俺が意識的に抑えているから? それとも、田中さんには——「必要なもの」がないから?
分からない。分からないまま、定食を出す。
「お待たせしました」
「おう、いただきます」
田中さんは、普通に食べて、普通に帰っていった。
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午後1時半。
昼のピークが終わった。店内には誰もいない。
俺は、カウンターの椅子に座った。
——今日、俺は何をした?
普通に店を開けた。普通に料理を作った。普通に客に出した。
何も、変わっていない。
でも——でも、俺は今、ここにいる。
答えが出ないまま。サナエさんに何を言えばいいか、分からないまま。自分が何をすべきか、分からないまま。
それでも——店を開けた。
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それは「覚悟」なのか? 違う。
覚悟なんて、立派なものじゃない。
俺は——ただ、他にやり方を知らないだけだ。
料理を作ること以外、俺にはできない。店を開けること以外、俺には——
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ガラス戸が開く音がした。
俺は顔を上げた。
午後の陽光を背に、1人の女性が立っていた。
サナエさん——じゃない。
もっと若い。20代前半。黒いパーカーにジーンズ。髪はボサボサで、3日くらい洗ってなさそうだ。目の下に濃い隈。
でも、それより——
目が、死んでいた。
「——いらっしゃいませ」
俺は立ち上がった。
彼女は、ゆっくりとカウンターに近づいてきた。そして——俺を見た。
「——ここ、ご飯食べられますか」
声は、かすれていた。
「はい」
「——じゃあ」
彼女は、メニューも見ずに言った。
「——なんでもいいです」
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その瞬間——俺の胸の奥で、何かが動いた。
3日前と、同じ感覚。
彼女の中にある、何かが——見えそうになる。
俺は——俺は、どうする?
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