第4話 空っぽを満たす


彼女は、カウンターの端に座った。


1番奥の席。壁に近い方。誰かに見られたくない時に選ぶ席だ。


俺は水を持っていった。


「——どうぞ」


「……ありがとうございます」


声が小さい。聞き取れるか取れないかの、ギリギリの音量。


彼女は水を受け取って、コップを両手で包んだ。飲まない。ただ、持っている。


俺は彼女を見た。


黒いパーカー。サイズが合ってない。たぶん、誰かのお下がりか、適当に買ったものだ。ジーンズの膝に、小さな穴が開いている。でも、ファッションじゃない。擦り切れただけだ。


髪は——3日は洗ってない。脂で束になっている。でも、顔は洗っている。化粧はしてないが、汚れてはいない。


最低限の「外に出る準備」はした。でも、それ以上の気力がなかった。そういう状態だ。


彼女の手が、コップを握りしめている。爪が短い。深爪だ。噛んだんじゃない。切りすぎた。自分で、無意識に。


手首——パーカーの袖が長くて、見えない。でも、袖を引っ張る癖がある。何度も、何度も、袖口を指で摘んでいる。


隠してるのか。それとも——ただの癖か。俺には、分からない。


---


「ご注文、決まりましたら」


「あ……はい」


彼女はメニューを見ていなかった。テーブルの上に置かれたまま、開いてすらいない。


「——なんでもいいです」


また、その言葉。さっきと同じ。「なんでもいい」。


サナエさんも、そう言った。3日前に。


同じ言葉。でも——違う。


サナエさんの「何でもいい」は、疲れていた。選ぶ気力がないだけだった。


この子の「なんでもいい」は——諦めている。


何を食べても同じだと、最初から分かっている。味なんて、しないと分かっている。


それでも、何かを口に入れないと死ぬから。だから、ここにいる。


---


俺の胸の奥で、また——あの感覚が動いた。


この子には、何が必要なのか。この子の体が、何を求めているのか。見えそうになる。感じそうになる。


——サナエさんの顔が、よぎった。


―「あなた、私のこと、何も聞いてないですよね」—


―「私を『被害者』にしたのも、あなたですよ」—


俺は——また同じことをするのか? この子の心を、勝手に開けるのか? この子が何を感じているか、聞きもしないで? この子が何を望んでいるか、確かめもしないで?


俺の「力」で、勝手に——


---


「……あの」


彼女の声で、俺は我に返った。


「大丈夫ですか」


「——え?」


「ずっと、立ってるから」


俺は、自分がカウンターの前で固まっていたことに気づいた。


「あ——すみません。今、作りますね」


「……はい」


俺は厨房に戻った。


---


まな板の前に立つ。包丁を手に取る。


——何を作る?


「普通の定食」を作ればいい。今日の日替わりは生姜焼きだ。それを出せばいい。


サナエさんに出したように。「あの力」を使わずに、普通に作って、普通に出す。それが——正しいはずだ。


俺はキャベツを取り出した。千切りにする。手が動く。


——でも。


この子に、生姜焼きを出して、どうなる? 味なんてしない。分かっている。何を食べても同じだと、諦めている子だ。


普通の定食を出して、普通に食べて、普通に帰っていく。何も変わらない。何も救われない。


それでいいのか?


——それでいいんだ。


俺が「救う」必要なんてない。俺が勝手に「開く」必要なんてない。彼女は、自分で決める。俺は——


---


キャベツを切る手が、止まった。


あの感覚が——止まらない。見えてしまう。


彼女の中にある、何かが。


空っぽだ。


サナエさんには、「詰まっているもの」があった。3年分の言葉が、喉の奥で固まっていた。


この子には——何もない。空洞だ。何も詰まっていない。何も溢れるものがない。


だから——苦しい。


「何もない」のに、苦しい。理由がないのに、生きられない。それが——この子の苦しみだ。


---


俺は、包丁を置いた。


この子に必要なのは——生姜焼きじゃない。分かってしまう。止められない。


俺は——冷蔵庫を開けた。


卵を取り出す。出汁を用意する。醤油、みりん。


だし巻き卵。


なぜ、これなのか。分からない。でも、俺の手は——これを作ろうとしている。


サナエさんの時と、同じだ。勝手に、作ってしまう。


---


卵を割る。3つ。出汁を加える。混ぜる。火をつける。


フライパンに油を引く。卵液を流す。


——俺は今、また「同じこと」をしようとしている。


分かっている。サナエさんに「暴力」だと言われたことを。彼女を「被害者」にしてしまったことを。


分かっている。分かっているのに——手が、止まらない。


---


卵を巻く。もう1度、卵液を流す。また巻く。繰り返す。


黄金色の、だし巻き卵ができていく。


俺は——何をしてるんだ? さっき、「普通に作る」と決めたばかりだろ。「あの力」を使わないと決めたばかりだろ。なのに——


---


完成した。


だし巻き卵。ふっくらと、柔らかく焼けている。出汁の香りが、ふわりと立つ。


俺は、皿に盛り付けた。大根おろしを添える。醤油を小皿に。


——これを、出すのか? 出したら、また——この子の心を、勝手に——


---


俺は、皿を持ったまま、動けなかった。厨房の中で、立ち尽くしている。


サナエさんの言葉が、頭の中でループしている。


―「あなたが『暴力』だって言うなら——私は『暴力を受けた人』になる」—


俺がこれを出したら、この子は——「救われる」のか? 「傷つけられる」のか?


俺には、分からない。分からないまま——俺は、厨房を出た。


---


「——お待たせしました」


彼女の前に、だし巻き卵を置いた。


彼女は、それを見た。


「……これ」


「はい」


「……私、定食って——」


「これで、いいと思ったので」


俺は、彼女の目を見た。死んだ目。空っぽの目。


——俺は今、この子に何をしようとしてる?


「……食べて、みてください」


声が、かすれていた。俺は一体何をしてるんだ。


---


彼女は、箸を取った。だし巻き卵を、1切れ、挟んだ。口に運ぶ。


——俺は、息を止めていた。


---


彼女が、だし巻き卵を口に入れた。俺は、カウンターの向こうで見ていた。


彼女は、ゆっくりと噛んでいる。1回。2回。3回。飲み込んだ。


——何も起きない。


涙は出ない。言葉も溢れない。サナエさんの時みたいに、何かが決壊する様子はない。


俺は——安堵したのか、失望したのか、自分でも分からなかった。


---


彼女は、2口目を食べた。また、ゆっくりと噛んでいる。


俺は、彼女の顔を見ていた。


——変化がない。「死んだ目」のまま。表情も動かない。


やっぱり、「空っぽ」には——俺の力は、効かないのか。いや、それでいいんだ。効かない方がいい。俺が勝手に「何か」を入れるより——


---


3口目。彼女の箸が、止まった。


「……」


彼女は、だし巻き卵を見つめている。そして——もう1度、口に運んだ。


今度は、さっきより——少しだけ、ゆっくり噛んでいる。味を、確かめるように。


---


4口目。5口目。


彼女の食べるペースが、変わった。さっきまでは、機械的だった。「食べなきゃいけないから、食べる」という動作だった。


今は——違う。何かを、探している。何かを、確かめている。


---


6口目を食べた時——彼女の目が、動いた。


ほんの少し。ほんのわずか。でも、俺は見た。


「死んだ目」が——揺れた。


---


彼女は、箸を置いた。皿には、まだ半分残っている。


「……」


彼女は、自分の手を見ていた。箸を持っていた、右手。


「……」


その手が——震えていた。


---


「——お客さん?」


俺は、思わず声をかけた。


彼女は顔を上げた。俺を見た。


その目は——さっきと、違っていた。「死んだ目」じゃない。でも、「生きた目」とも言えない。


何か——戸惑っている目だ。自分の中で起きていることが、分からない。そういう目。


---


「……これ」


彼女が、口を開いた。声が——さっきより、少しだけ大きい。


「これ、何ですか」


「だし巻き卵、です」


「……そうじゃなくて」


彼女は、自分の胸に手を当てた。パーカーの上から、心臓のあたりを押さえている。


「ここが——」


言葉が、途切れる。


「——分かんない」


---


分かんない。彼女は、そう言った。


「分かんないです。何が起きてるのか」


俺は、何も言えなかった。


「さっきまで、何も——何も感じなかったのに」


彼女の声が、震え始めている。


「ずっと、何を食べても同じだった。味なんてしなかった。何も——」


「——」


「なのに、これ——」


彼女は、だし巻き卵を見た。


「これ食べたら——ここが——」


また、胸を押さえる。


「——温かい、です」


---


温かい。彼女は、そう言った。


俺は——何も言えなかった。サナエさんの時と、同じだ。


俺の料理が、この子に「何か」をした。彼女が望んだわけじゃない。彼女が求めたわけじゃない。俺が、勝手に——


---


「あの」


彼女が、俺を見た。


「これ、何か——入ってますか」


「え?」


「変なもの。薬とか——」


「入ってませんから」


俺は、即答した。


「卵と、出汁と、調味料だけです」


「……」


彼女は、俺を見ている。疑っている——わけじゃない。ただ、理解できないでいる。


自分の中で起きていることが、説明できない。だから、外に理由を求めている。


---


「……すみません」


俺は、頭を下げた。


「え?」


「俺の料理は——時々、こういうことがあるんです」


「……どういう、こと」


「食べた人の——心が、開くことがある」


言ってしまった。言うべきじゃなかったかもしれない。でも、言わないのは——もっと卑怯だと思った。


「俺にも、よく分からないんです。でも——」


「——」


「あなたが今、感じてることは——俺の料理のせい、かもしれない」


---


彼女は、黙っていた。俺の言葉を、理解しようとしている。でも、できていない。当然だ。俺だって、分かってない。


「……意味、分かんないです」


「すみません」


「でも——」


彼女は、残りのだし巻き卵を見た。


「——食べていいですか」


---


俺は——何も言えなかった。


彼女は、俺の返事を待たずに、箸を取った。7口目。8口目。最後の1切れを、口に入れた。


ゆっくりと、噛んでいる。飲み込んだ。


---


彼女は、空になった皿を見ていた。


「……」


しばらく、そのまま。


「……美味しかった」


小さな声だった。


「ずっと、何食べても——味、しなかったのに」


彼女は、顔を上げた。俺を見た。


「——美味しかった」


その目には——涙はなかった。でも、「死んだ目」でもなかった。


何かが——戻り始めている目だった。


---


「また」


彼女が言った。


「また、来てもいいですか」


俺は——サナエさんの顔が、浮かんだ。


―「あなたがそれを『暴力』だって言うなら——私は『暴力を受けた人』になる」—


―「——私は、サナエです。それだけ。さようなら」—


俺は、この子に何を言う?


「来ないでください」と言うべきか? 「それは依存だ」と言うべきか?


でも——この子は、まだ何も求めてない。俺が勝手に「拒絶」したら——それはまた、サナエさんの時と同じ間違いだ。


---


「……いつでも」


俺は、そう言っていた。


「いつでも、来てください」


言ってから、後悔した。これでいいのか? これは「受け入れる」ことなのか? それとも——「縛る」ことの始まりなのか?


分からない。分からないまま——俺は、彼女に「来ていい」と言ってしまった。


---


彼女は、伝票を持って立ち上がった。


「いくらですか」


「……300円で」


「安いですね」


「だし巻き卵だけなので」


彼女は、財布から小銭を出した。100円玉3枚。カウンターに置く。


「……ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


彼女は、店を出て行った。


---


ガラス戸が閉まる。彼女の後ろ姿が、通りを歩いていく。


さっきより——少しだけ、背筋が伸びている。気のせいかもしれない。でも——


---


俺は、空になった皿を見た。だし巻き卵の跡。大根おろしの水分。


俺は——また、やってしまった。彼女が求めていないものを、勝手に渡した。彼女の「空っぽ」に、何かを——入れた。


それは「救済」なのか? それとも——


「——分かんねえなぁ……。」


声に出していた。


サナエさんの時は、「暴力だった」と思った。今回は——分からない。


彼女は「美味しかった」と言った。「温かい」と言った。「また来ていい」と聞いた。


それは——良いことなのか? 俺には、分からない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る