第2話 拒絶と学び


3日後。午後7時。


彼女が、また来た。


同じカウンター席。同じ仕事帰りの格好。でも、目の下の隈が少しだけ薄くなっている気がした。


「——いらっしゃいませ」


俺は普通に応対した。何事もなかったかのように。


彼女も、普通にメニューを開いた。何事もなかったかのように。


「今日は、ちゃんと定食をください」


「……はい」


俺は厨房に戻った。日替わりは鯖の味噌煮。副菜は切り干し大根の煮物と、ほうれん草の胡麻和え。普通の定食だ。


普通に作ればいい。普通に出せばいい。それで終わりだ。


---


でも、手が止まった。


鯖を煮付ける時、俺の感覚が——あの時と同じように——動き始める。


彼女が今、何を必要としているか。彼女の体が、何を求めているか。彼女の心が——


「——やめろ」


俺は自分に言い聞かせた。


普通に作れ。普通の定食を。それ以上のことは、するな。


意識的に、感覚を閉じる。昆布出汁の量を計量カップで測る。味噌の分量をきっちりスプーンで。いつも感覚でやっていることを、全て数字に置き換える。


そうすれば、「あの力」は働かない。たぶん。


---


「お待たせしました」


定食を出す。普通の定食だ。普通に美味しい。普通に栄養がある。それ以上でも以下でもない。


彼女は箸を取り、鯖を1口。


「……美味しいです」


「ありがとうございます」


それだけだ。それ以上は何も起きない。彼女は普通に食べ、俺は普通にカウンターを拭いている。


これでいい。これが正しい。


---


「あの」


食べ終わった彼女が、声をかけてきた。


「はい」


「——この前の味噌汁」


俺の手が止まる。


「もう1度、作ってもらえませんか」


---


俺は答えなかった。


「私、あの後——」


彼女は少しだけ言葉を選ぶように、間を置いた。


「——泣いたんです。久しぶりに」


「……」


「3年間、泣けなかったんです。泣いたら終わりだと思って。でも、あの味噌汁を飲んだら——」


彼女の声が、少しだけ震えている。


「——楽になったんです。すごく」


俺は何も言わない。


「だから、もう1度——」


「できません」


---


彼女の表情が、固まった。


「……どうして?」


「あれは、失敗だったので」


「失敗?」


「はい。あなたの意思を無視して——勝手に——」


「勝手に?」


彼女の声に、困惑が混じる。


「私、確かに泣きました。でも、それは——」


「あなたが望んだことじゃない」


俺は彼女の目を見た。


「あなたは、誰にも話さないと決めていた。3年間、1人で抱えると決めていた。それを——俺の料理が、無理やり——」


「無理やりなんかじゃ——」


「無理やりなんです」


言い切った。


「あなたは、心を開こうと思っていなかった。なのに、開いてしまった。それは——」


「——それは」


彼女の目に、何かが浮かんだ。


---


怒りだ。


「——それは、あなたが決めることですか?」


声が低くなっている。


「私が『無理やり』だったかどうか、私が『望んでなかった』かどうかなんて——」


彼女は箸を置いた。音が、思ったより大きく響いた。


「——なんで、あなたが決めるんですか」


---


俺は黙っていた。


「3年間、誰にも言えなかった。言わないって、決めてた。それは本当です」


彼女の声は震えていない。怒りで、安定している。


「でも、それが正しかったかどうかは、別の話でしょう?」


「……」


「私は3年間、壊れかけてたんです。毎日毎日、母に『あなた誰?』って言われて、それでも笑って、『娘のサナエです』って言い続けて——」


彼女の手が、テーブルの上で握りしめられている。


「——壊れそうだった。でも、壊れちゃいけないと思ってた。壊れたら、母の面倒を見る人がいなくなるから」


「……」


「あの味噌汁を飲んで、泣いた日——」


彼女は俺を見た。


「——やっと、息ができたんです」


---


俺は何も言えなかった。


「それを——『無理やり』?」


彼女の声に、棘がある。


「『暴力』?」


「……」


「あなたに、何が分かるんですか」


---


俺は、反論できなかった。


彼女の言うことは、正しい。


彼女は救われた。それは事実だ。3年間、壊れかけていた人間が、やっと泣けた。やっと息ができた。それを「暴力」と呼ぶのは——


でも。


「——分かりません」


俺は口を開いた。


「あなたが救われたのか、傷つけられたのか、俺には分かりません」


「……」


「でも、1つだけ分かることがある」


俺は彼女の目を見た。


「あなたは今、『もう1度』を求めてる」


---


彼女の表情が、わずかに変わった。


「それが——」


「それが、怖いんです」


俺は言った。


「あなたが、俺の料理なしでは——泣けなくなることが」


「……」


「あなたが、俺の料理を求めるようになることが」


「……」


「あなたが、俺に——」


言葉が詰まった。


「——縛られることが」


---


彼女は黙っていた。


俺も黙っていた。


換気扇の音。遠くで車が通る音。


「……それは」


彼女が口を開いた。


「それは、私のためですか」


「……え?」


「『私を縛りたくない』——それは、私のため?」


彼女の目が、俺を射抜く。


「それとも——」


「——」


「あなたが、『縛ってしまう自分』が怖いんですか?」


---


俺は、何も言えなかった。


図星だった。


俺が恐れているのは、彼女が依存することじゃない。


俺が、彼女を依存させてしまうことだ。


俺の料理が、彼女を——彼女だけじゃない。これから店に来る、全ての人間を——


「……そうかもしれません」


声が、かすれていた。


「俺は——怖いんです」


「……」


「俺の料理を食べた人が、俺なしでは——」


「——」


「俺が、誰かの人生を——」


喉が詰まる。


「——狂わせてしまうことが」


---


彼女は、しばらく俺を見ていた。


怒りは、もう消えていた。代わりに——何だろう。俺には読めない表情だった。


「……ねえ」


彼女は言った。


「あなた、自分のこと——『善人』だと思ってますか?」


「……え?」


「『人を傷つけたくない』『縛りたくない』『依存させたくない』——」


彼女は小さく息を吐いた。


「——全部、あなた目線ですよね」


「……」


「私が、何を望んでるか。私が、どうしたいか。聞きました?」


俺は、何も言えなかった。


「聞いてないですよね。あなたは、自分が『加害者になること』だけを恐れてる。でも——」


彼女は立ち上がった。


「——私を『被害者』にしたのも、あなたですよ」


---


彼女は伝票を取った。


「私は、あの味噌汁で救われた。それは事実です」


「……」


「でも、あなたがそれを『暴力』だって言うなら——私は『暴力を受けた人』になる」


「……」


「あなたが『依存させたくない』って言うなら——私は『依存しそうな人』になる」


彼女の声には、怒りはなかった。ただ、静かな——何かがあった。


「——あなた、私のこと、何も聞いてないですよね」


---


俺は、黙っていた。


彼女は1000円札を置いた。


「私は、もう来ません」


「……」


「あなたが『来るな』って言うから——じゃないです」


彼女は店のドアに手をかけた。


「——あなたが、私を『人間』として見てないから」


ドアが開く。夜の空気が流れ込む。


「私はあなたに『救われた人』でも、『依存しそうな人』でも、『縛られる人』でもない」


彼女は振り返らなかった。


「——私は、サナエです。それだけ。さようなら」


ドアが閉まった。

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