【ヒューマンドラマ】ゆうなぎーー答えのない食堂
マスターボヌール
第1話 心を開かされる夜
閉店間際の店内に、彼女は1人で座っていた。
白いブラウスに黒のタイトスカート。仕事帰りだろう。30代前半に見えるが、目の下の隈がそれより老けて見せている。メニューを開いたまま、5分以上動かない。
俺は黙ってカウンターを拭いていた。こういう客は珍しくない。何を食べたいか分からないまま店に入ってくる人間。本当は腹が減っているんじゃなくて、どこかに座りたかっただけの人間。
「……何でもいいです」
ようやく彼女が口を開いた。メニューから目を上げないまま。
「おすすめで」
---
俺は厨房に戻りながら、考えていた。
「何でもいい」と言う客に何を出すか。これは料理人として最も難しい問いの1つだ。普通なら、無難に日替わり定食を出す。それが正解だ。
でも、俺の手は違うものを作り始めていた。
鍋に水を張る。昆布を入れる。鰹節を準備する。
出汁を取りながら、俺は彼女の姿を思い出していた。ブラウスの第1ボタンがわずかにずれていた。朝は完璧に留めていたはずだ。それが1日のどこかで崩れて、直す気力もなくなった。右手の人差し指の爪だけが短い。噛む癖があるんだろう。他の爪は綺麗に揃っているから、人前では我慢している。でも、1人になると噛んでしまう。
分かるんだ。なぜか。
俺が作る料理は、その人が「今、本当に必要としているもの」が見える。
それは「能力」なんて大層なものじゃない。ただ、見えてしまう。感じてしまう。そして、作ってしまう。
今、彼女に必要なのは——
味噌を溶く。白味噌と赤味噌を合わせる。火加減を調整する。豆腐は絹ごし。崩れやすいが、今日はこれでいい。ネギは最後に。
椀によそう時、俺の手は少しだけ震えていた。
---
「味噌汁、です」
「……これだけ?」
「はい」
彼女は怪訝な顔をした。当然だ。食堂で味噌汁1杯だけ出されたら、誰だって戸惑う。
「あの、私、ご飯とか——」
「まず、これを」
俺は静かに言った。押しつけがましくならないように。でも、逃げ場を作らないように。
彼女は箸を持った。椀を持ち上げた。
湯気が立つ。味噌の香りが広がる。
彼女の目が、ほんの一瞬、揺れた。
---
最初に来たのは、温度だった。
熱すぎない。ぬるくもない。今の自分に、ちょうどいい温度。
次に、味。
甘い。でも甘すぎない。少しだけ塩気が強い。それが妙に心地いい。
豆腐が舌の上で崩れる。力を入れなくても、勝手に崩れる。
——なんだこれ。
彼女は思った。ただの味噌汁だ。具は豆腐とネギだけ。どこにでもある、普通の味噌汁。
なのに。
喉を通った瞬間、何かが緩んだ。
肩の力が抜けた。握りしめていた箸が、ほんの少しだけ楽になった。
2口目を啜る。
3口目。
4口目。
気づいたら、椀の中身が半分になっていた。
——美味しい。
ただ、美味しい。
それだけのことなのに、彼女の目から涙がこぼれた。
---
「——え?」
彼女は自分の頬を触って、初めて気づいた。泣いている。自分が。この場所で。知らない人の前で。
「な、なんで——」
慌てて袖で拭う。でも、止まらない。
「ごめんなさい、私、こんな——」
声が震える。喉が詰まる。
「——ああ、もう、なんで——」
彼女は顔を覆った。肩が震えている。声を殺そうとしているのが分かる。でも、殺しきれない。
俺は何も言わずに、カウンターの向こうに立っていた。
---
「……私、」
しばらくして、彼女は顔を上げた。目が赤い。化粧が少しだけ崩れている。
「私、3年間、誰にも言えなかったんです」
俺は黙っている。
「母が、認知症で」
言葉がぽつりぽつりと落ちる。
「最初は軽いものだって言われて。でも、だんだん悪くなって。先月から、私のこと分からなくなって」
椀を見つめたまま、彼女は続ける。
「毎日、仕事終わったら施設に行って。でも、行っても、『あなた誰?』って。『娘のサナエはどこ?』って。私が娘なのに」
声が途切れる。
「——3年間、誰にも言えなかった。弱音を吐いたら終わりだと思って。私がしっかりしなきゃって。だから、誰にも——」
そこまで言って、彼女は自分の口を押さえた。
「——なんで」
震える声。
「なんで、私、こんなこと——」
---
彼女の目に、混乱が浮かんでいた。
なぜ、初対面の人間に。なぜ、味噌汁を飲んだだけで。なぜ、3年間隠してきたことが。
「あなた、何を——」
彼女の目が俺を見た。そこにあるのは、恐怖に似た何かだった。
「この味噌汁、何を——」
---
俺は口を開いた。そして、閉じた。
何を言えばいい?
「俺の料理には、人の心を開かせる力があります」?
そんなことを言って、信じるはずがない。信じさせるべきでもない。
でも、事実だ。
俺は今、この人の心を——勝手に、開けてしまった。
3年間、必死で守ってきた壁を。誰にも見せたくなかったものを。この人の意思とは無関係に。
---
「……すみません」
俺は頭を下げた。
「え?」
「すみません」
もう1度。深く。
「あなたに、話す気がなかったのに。俺の料理が、無理やり——」
「——何を言って」
「本当に、すみません」
---
彼女は黙った。
俺も黙った。
閉店時間を過ぎた店内に、換気扇の音だけが響いている。
---
「……変な人」
しばらくして、彼女が言った。
「味噌汁作って、謝る人、初めて」
俺は顔を上げられなかった。
「でも——」
彼女は残りの味噌汁を、1口で飲み干した。
「——美味しかった」
その声は、まだ震えていた。
「すごく、美味しかった」
---
彼女は伝票を持って立ち上がった。
「いくらですか」
「……いりません」
「それは困ります」
「今日のは——失敗、なので」
彼女は少しだけ笑った。
「失敗で泣かせたんですか?」
俺は何も言えなかった。
彼女は1000円札を置いて、店を出て行った。
---
カウンターに残された1000円札を見つめながら、俺は、自分の手を見た。
この手で、さっき、味噌汁を作った。この手で、あの人の心を——
「……最低だ」
声に出していた。
あの人は、助けを求めていなかった。泣きたいなんて思っていなかった。誰かに話したいなんて、望んでいなかった。
なのに俺は、勝手に——
「最低だ」
もう1度、言った。
言ったところで、何も変わらない。
---
俺の料理には、力がある。
その人が「本当に必要としているもの」を作ってしまう。そして、それを食べた人は——心が、開いてしまう。隠していたものが、溢れ出してしまう。
それは「癒し」なのか? 「救い」なのか?
違う。
これは——侵襲だ。
相手の同意なく、心に踏み込む。本人が望んでいない扉を、こじ開ける。
俺は今日、料理という形をした暴力を振るった。
---
換気扇を止める。電気を消す。店を閉める。
帰り道、俺は考えていた。
もう、料理を作らない方がいいのかもしれない。
少なくとも、客に出すのは——
でも、それなら。俺は何のために、ここにいるんだ?
---
その夜、俺は眠れなかった。
---
*(第1章 了)*
---
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます