A-02・2
「どうして読めない文字があるんでしょうか。異界の文字ってことなんですかね」
「さあ……ここはあまり変なものってなさそうですけど」
部屋の中は汚い、ということは別になかったが、全体的に古い。テーブルやカーテンも、日焼けしている。何十年も昔のものという雰囲気はないが、何年も手入れもされずに放置されていたらこうなるというような様子だった。人が住んでいない家はすぐに悪くなるというが、まさにそういう朽ち方をしているように思える。
「しかも、テーブルに一つ一つナイフ……? なにこの変な装飾」
どうしてナイフが置いてあるんだろう。しかも、折り畳み式ではなく、大ぶりな立派な造りのものだ。サバイバルナイフとも違うような気がする。
不気味なのは、ナイフの装飾だった。刃をしまうホルダーにも、柄にも、魔よけの魔法陣とも御札ともつかない模様がそれらしく刻まれている。どのナイフも同じような装飾が施されているようだった。
「気持ち悪……」
そう思いながらも、なんとなく気になって、ナイフを抜いてみる。
刃は、なんだか黒ずんでいた。かぴかぴと赤黒い、汚れがこびりついている。
錆びているのだろうか。そこまで古いナイフのようには思えないが。
「……っ」
刃先を見つめていると急に気色の悪さが強くなり、私はあわててナイフをテーブルの上に放り投げた。これ以上見詰めていると、どうにかなってしまうと直感したのだ。
「あの! こんなのも見つけました。変っていうか……不気味というか……」
部屋の中から凪咲ちゃんが呼んでいる。米津さんとともに彼女のもとへ行くと、部屋の奥にあった小さい机のようなものの上を指さしていた。
そこに載っているのは、木彫りの置物だった。大きな牡丹の花に、蝶が止まっている置物。それが、ところどころ黒ずんでいる。
「この黒ずみって、まさか、血なんでしょうか」こわごわと凪咲ちゃんが言う。「たとえばここで殺人事件が起きていて、この牡丹と蝶の置物で撲殺、なんて……」
「血……?」
木彫りの黒ずみは、ナイフの刃にこびりついていた汚れとなんとなく似ているような気がした。それなら、あの汚れも血……?
「そんな、凪咲ちゃん。大丈夫よ。人を殴り殺しでもしたならもっと血がつくものじゃないかしら。これは、なんというか、どこかで飛び散った血が少しかかってしまった……というように見えるわ」
「でもそれって、ここで血が飛び散るような事件が起きたってことじゃないですか」
「……」
怯える凪咲ちゃんを横目に、私は少し前に放り投げたナイフに目をやった。
血が飛び散るような事件。血によって錆びた、ように見えるナイフ。
――まさかね。
米津さんはスマホを持っていないので、私と凪咲ちゃんで部屋の様子や置物を写真に収めていく。ついでに近くのトイレや備品室、給湯室やキッチンも回って写真を撮っておいた。外観を見て、横幅が広めの、ずんぐりむっくりとしたビルだな、とは思っていたが、なかなかどうしてフロアは広いようだ。
「備品室、食料があったね。非常用かな? まあ、完全に賞味期限切れてたけど」
「十年前、くらいの日付でしたよね。もし、あまりにもお腹が減るまでここにいなくちゃいけないってなった時は……食べるしかないんでしょうね」
凪咲ちゃんは言いにくそうだ。正直、脱出の目途が全く立っていない今、長くここに留まらなくてはならない未来について考えてしまうのは当然だろう。今日はしのげても、明日はしのげるかわからない。
「でも……お腹が空いても、ここの食べ物を食べるのはよくないかもしれないわねえ」
「米津さん」
「ヨモツヘグイって言うでしょう。この世のものではないものを食べてしまったら、その世界の住民になってしまう。もしかしたら、お腹が空いてここのものを食べたら……」
「もう戻ってはこられない、ってことですか? じゃあ、どうすれば……」
「わからないわ。でもやっぱり、お腹がすく前になんとか元の世界に戻らなきゃだめってことよねえ」
黄泉竈食の逸話は有名だ。教養にはあまり自信がないけれども、聞いた覚えがある。黄泉の国で煮炊きしたものを食べるということは、黄泉の国の住人になるということを受け入れることだ。古事記でも、死んでしまった妻イザナミを黄泉の国まで迎えに行ったイザナギが、「黄泉の国のものを食べたから帰れない」といって妻に追い返されるという話がある。子供の頃に読んだギリシャ神話の漫画でも、同じようなエピソードがあった。春の女神ペルセポネは、死者の国の王ハデスに死者の国の食べ物を食べさせられたことで、一年のうちの一部を死者の国で暮らさなくてはならなくなってしまっていた。
異界のものを口にしてはいけない、か。
昨今のエンタメにあふれている異世界には、そこの常識で暮らす人間がいる。だが、ここには何もない。生物の気配もない。どうしてこんなところができたのかもわからない。
――周囲は変わらず、赤い西日で満たされている。
「あの羽田さん。わたし思ったんですけど、やっぱりここって、お、おかしいですよね」
「え?」
だって――、と、凪咲ちゃんは言う。
「この部屋、真っ赤じゃないですか。夕日の光で。それっておかしいですよね。日暮れなら太陽は西にあるはずで、西から日差しが差し込むじゃないですか。そ、それなのに、なんか、ここ、どの方角にある窓からも赤い光が差し込んでるんです……」
「……」
太陽すらも、私達の知るものとは違うということなのか。そんなことが――。
そこで、米津さんが、あら、と怪訝そうな声を上げた。凪咲ちゃんと一緒に青褪めていた私が顔を上げると、彼女はいつの間にか私達が入り口にした大窓から外を覗いていた。
「二人とも、見て。なんだか、霧が晴れてきていないかしら」
「……!」
確かに、建物の裏手の霧が薄くなってきている気がする。一面真っ赤な彼岸花畑にいた時には、霧のヴェールで見ることができなかった建物の向こうが、ぼんやりと見える。
それは大きな山のようだった。霧をまとっているのでよくわからないが、黒々しく、どこかまがまがしさを感じさせるたたずまいだった。
それに、その山の麓から、建物のすぐそばまで、影の群れが続いていることにも気が付いた。建物のようだ。うっすらと、古民家のようなものが霧の向こうに立ち並んでいる。
「……。あれ、何かの集落、ですかね……」
「人が住んでたりするんでしょうか。でも、そうだとしても……」
あそこにはあまり近寄りたくない。口にしなくとも、三人の意見が一致する。
するとその時、階段を下りてくる音がした。話し声とともに、足音が近くなる。やがて扉が開き、小谷くん、中野さん、御坂さんの順で部屋に入ってくる。
「みなさん、戻ってきたんですね。何かありましたか」
「まあ一応、書斎? みたいな場所に古い本みたいなものがあったから持ってきたけど。スピ系の本ばっかでなんか怪しいってことしかわかんねえ」
小谷くんがそう言い、数冊本を掲げる。一冊ちらりと見えた、『縁起のいい生き物からパワーをもらう』というタイトルで、確かにそれっぽい、と感じる。
「実は、書斎にはけっこうな数の本があって。ふつうの出版社から刷られている本もたまにあるんですけど、大半が装丁からして同人誌っぽかったんすよね。ヤンキー君が持ってるそれもそうっていうか」
「あ? ヤンキーじゃねえし。何だせえレッテル貼ってくれてんの」
「さっきから態度がモロそうだろ……。それで、その同人誌っぽいものって、だいたい出版者が同じなんですよ。『牡丹の会』っていう」
「牡丹の会……?」
中野さんが本を差し出してきたので、受け取る。確かに簡単にしか製本されていない。大学の論文集とか、統計とかを集めた本のような、簡易な装丁である。同人誌、つまり自費出版本であることは、確かにその通りのようだ。
「それがたくさんあったってことですか」
「そう。だから、こんなスピリチュアルな内容の自費出版本たくさん置いてるんだから、もしかしたらここって、『牡丹の会』とやらの施設じゃないかって……思ったんすけど」
最後は尻すぼみになりながら、違いますかね、と中野さんが俯いて言う。
牡丹の会。当然だが聞いたことがない名前だ。怪しげなスピリチュアル本を出版してるということは、そういう系のサークルか団体だったのだろうか。ネットで検索できればいいのだが、今は検索エンジンは作動しないので調べられない。
なあ、と小谷くんが自分の手元に残った本を振った。
「これ、東京で出版されてるみたいだけどさ。つまり『牡丹の会』ってやつは日本の団体ってことなんだよな? このビルがその会の持ち物だってんなら、それがなんでこんなおかしな世界に存在してんだよ」
「た、確かに出版地は東京みたいだ。出版年は二〇一〇年だし……」中野さんが裏表紙に印刷されている出版情報を確かめながら呟く。「何かしら原因があって、この建物が異界の中に入ったってことなのか……?」
「でもそれって、日本の建物がこの異界……? ってところに飛ばされてきたんなら、やっぱり戻る方法もあるってことになりませんか」
凪咲ちゃんがやや前のめりになって言う。「だって、来れるってことは帰れるってことじゃないですか。そうですよね」
「だあから、その戻る方法がわかんねえって話をしてんだろ? 俺たちだって日本から『来てる』けど、電車に誘拐されて帰ってこれなくなってるわけだし」
「……本当に嫌な言い方する人ですね。人が希望を感じてるのに水差さないで下さいよ」
変わらず凪咲ちゃんと小谷くんはウマが合わないらしく、睨み合っている。凪咲ちゃんが小谷くんを毛嫌いしているのを、小谷くんが鬱陶しく思っているという構図だろうか。
とはいえいつまでも若い子たちの小競り合いを眺めているわけにもいかない。
この建物が『牡丹の会』だというのなら、一階に意味ありげに置いてあったあの置物にも意味があるような気がしてくる。私は本を抱えたまま急いであの木彫りの牡丹を取りに行き、みんなに見せた。「ここが牡丹の会のビル……っていうのは間違いないような気がします。これが、会の象徴だったんじゃないでしょうか」
「じゃあやっぱり日本から突然この建物が異界に飛んできたってことですよね」
「あの、何か『牡丹の会』について情報を知ってる人って――」
私は六人全員を見渡すが、心当たりがあると言い出す人はいなかった。まあ、それはそうだろう。本が日本で出版されているようだからといって、こんな異常な空間にある施設の持ち主団体が、本当に存在したのかは定かではない。
「と……とりあえずみんなで二階行って、文献漁るのが早いんじゃないて、あの、僕は思うんですけど。本はいっぱいあったし、なんか、帰るためのヒントとか、ここがどういう施設だったとかもわかるかもだし」
「たしかに、そうですよね……」
中野さんの言葉には一理ある。じゃあ、二階に上がって書斎を見てみるってことでいいですか、と。
そう聞こうとした瞬間だった。
「じゃあ譌ゥ騾滉サ頑律縺ョ蜆?蠑上r蟋九a縺セ縺励g縺」
「今日は繧?縺励#縺輔∪の蠕。蜉?隴キを得られるといいですね」
無数の足音。
そして声、が――耳に届いたのだ。
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