序/2


 ベアトリーチェと名乗った少女は、混乱のあまり動けない俺に微笑む。人形のように整った顔立ちがまっすぐに笑いかけてくるのは、いっそ怖い。


「驚くのも無理はない。だが今は吞み込んでほしい、主人マスターよ」

「まっ」


 変な声が出た。


「マスターって、なん、」

「主人は主人だ。血の契りも交わしたであろう」


 ――血。

 それで、思い出した。確かに俺は、昔、トラバサミベアトラップを触ったことがある。故郷の山奥で、放置されていた錆びた罠にタヌキがかかってしまっていたのだ。祖父とともに罠を開いてタヌキを逃がしてやったのだが、その時に刃先で指を怪我して……。


「…………あ、ええと、タヌキ?」

「無礼であるぞ。わらわはベアトラップだ」


 確認してみたが、やはり罠の方らしい。普通こういう時はタヌキが来るのでは、と思ってしまったが、それも普通ではない。

 ともあれ――


「マスターは、やめて、ほしい」

「なぜだ」

「逮捕されるから……」


 今のやり取りを誰かに聞かれていないか、つい玄関の外を見まわす。そこで気付いた。

 ――暗い。


「あれ……?」


 深夜だから暗いのは当然なのだが、何となく普段の夜と違う。田舎とはいえこの時間でも明かりがついている家はあるはずなのに、今日は妙に暗い。まるで人がいなくなってしまったかのような雰囲気。

 その夜闇を背景に、少女、ベアトリーチェは微笑む。


「気付いていたか。さすがは我が主人。いや、主人はダメなのだったな……では、ハル」


 ぞくりとする。この少女は一体何者なのか。黒いドレス、白い微笑みが急に禍々しく思える。ごくりと喉が鳴り、一歩後ずさった。


「危機が迫っている。わらわはそなたを守りに来たのだ。とは、わらわの主人に相応しい」



 〈改変化物かいへんかぶつ〉。

 十数年前から世界の各地に現れ始めた異変を、日本ではそう呼ぶ。

 黒い沼のような中心部からが広がり、周囲のモノを……自然も人工物も生き物もすべて……取り込んでその性質を変化させてしまう。改変化の影響は多岐にわたるが、概ねひとつの方向性が共通していた。

 人を、襲うのだ。

 国は警察や防衛隊を中心に〈改変化物〉対策を取ってはいるが、根本的に解決することはできておらず、封じ込めるのが精いっぱいだった。人類の領域は少しずつ黒に侵食されている。


 通称、〈化物ばけもの〉。


 ゲーム配信の邪魔にならないよう電源を切っていたスマホには、12時間ほど前にこのあたり一帯が〈化物〉の氾濫区域として避難勧告が出た通知が届いていた。



 アパートの玄関先に出る。二階建て、四部屋しかない小さなアパートだが、地方都市の特権で庭はやや広い。

 砂利が敷かれた駐車スペースに出た少女は、月光を浴びて踊るように歩く。


「〈化物〉か。言い得て妙だな」


 ベアトリーチェが言った危機とは、〈化物〉のことらしい。とにかく逃げないと、と言った俺に、少女は不敵に笑って見せた。そして俺の手を引いて玄関先に出たのである。実に三日ぶりの外出であった。

 色々な混乱と衝撃がいまだに俺の脳を揺らしていたが、最大の混乱はこの少女だった。罠が女の子に。そういうソシャゲは探せばありそうだが、そんなことが現実にあり得るはずがない。

 つなぐ指のしなやかさは確かに柔らかい。ちょっと冷たく感じるが、女子の手を握ったのは高校生の頃見知らぬ婆さんの手を引いた時以来なので体温の低さが異常なのかは判断がつかなかった。


「ヒトも食うって話だし……逃げ、ないと」

「何のためにわらわが来たと思っている」


 少女は笑って道路を指さす。細い指先が示す場所には……黒い、影が。


「ひっ」


 夜にあってなお黒い……イノシシのシルエットに見えた。丸みを帯びた身体で、牙がある。だが赤い目を輝かせ、軽自動車ほどの大きさのイノシシなどいるはずがない。黒い影の下にボディの白色と、ナンバープレートらしき黄色がちらりと覗く。

 四つ足ならぬ四輪を唸らせて、道路に停められた他の車を牙でばきばきと割り砕いていた。


 あれが、〈化物〉。

 動画やニュースで見たことはあったが、直接見るのは初めてで……そのに目の前がぐらつく。


『GRRRRR……』


 イノシシがこちらに気付いたか、唸りを上げながらぶるりと体を揺すって向き直った。赤い目……に見えなくもない、揺らめく赤がこちらを捉える。

 ベアトリーチェは俺の手を一度強く握ってから放し、砂利を踏んでイノシシと対峙する。その横顔に笑みが見えた。


「猪か。優美さには欠けるが、最初の獲物としては上等だ」

「あ、危ない、下がって」

「その発言、わらわを慮ってのことであろうから許す。許すが、ことが終わったら取り下げよ」


 猛るエンジン音。勢いよく走り出したイノシシが突っ込んでくる。

 ベアトリーチェは『よく見ろ』と言わんばかりに人差し指を伸ばす。いや、その指先はわずかに下、地面を指して――


『GRRRR――!?』


 ばぢんッ!!

 激しいバネの音とともに、突撃が止まった。出所は〈化物〉の足元。半透明の青白い光が黒い車輪に食い込んでいる。数は四つ、半円形にぎざぎざの刃が車輪を噛んで拘束している。


「ベアトラップ……?」

「奢りすぎたな。二つで十分であったか」


 イノシシは唸って身をよじり、四輪を拘束するベアトラップから逃れようと暴れている。ベアトリーチェはもはやイノシシが逃げられないと知っているかのように、ドレスを揺らして振り返った。


「さあ、主人よ――決断の時だ」

「決断……?」

「逃げると言うなら、わらわが血路を開こう。〈化物〉を倒し英雄とならんとするなら、わらわが刃となろう」


 歌うように少女が問う声は、どこか甘い。


「わらわは罠に過ぎぬ。使うのは主人であるハル、そなただ。答えよ、何を為すか!」


 俺は――彼女の紅い瞳に魅入られるまま。本当の、本音を、答えた。


「部屋から出たくない」



 ぽかん、と音が聞こえそうな、目を見開いたベアトリーチェの表情。

 一秒ほどだろうか。その表情が崩れて、くつくつと少女は笑った。楽しそうに、肩まで揺らしている。


「く、くく、そうか。いや、佳い。それでこそ罠の主人には相応しいやもしれぬ。その願い、その望み、確かにこのベアトリーチェが聞き届けた」

「望みってほどのものでは……ない、が」

「否、否、胸を張るがいい。そなたの願いはわらわの胸を確かに打ったぞ」


 ベアトリーチェは再度、イノシシに向き直る。ふわりとスカートが広がり、ドレスの飾りが金属音を立てた。少女はドレスを見せつけるかのように両腕を広げ、たおやかな手は五指を広げてから指を軽く曲げる。

 イノシシの方もただ会話を聞いていたわけではないようだった。車輪を前後に動かし、ベアトラップはびくともしないが車輪のゴムの方が引き裂かれて自由になりかけていた。


「活きのいい〈化物〉だ。ハル、わらわの活躍から目を離すな」

『GRRRRRR!!!!』

「――我が真名、ベアトラップ。強きものにこそ喰らいつき、縛り、嚙み砕くもの」


 青い光が散り、ベアトラップが消えた。解放されたイノシシが砲弾のように襲い掛かる。

 ベアトリーチェが笑う――乱杭歯を露わにした凶悪な笑みで。


「〈オオガミ〉」


 開いた腕が、勢いよく閉じられる。胸の前で少女の小さな両手が当たり、五指が

 同時に、虚空に現れた青白い光が巨大な鋼鉄の歯を形作った。先ほど車輪を噛んだベアトラップの何倍も大きい。腕の動きと連動して閉じられた巨大なベアトラップは、罠に飛び込んだイノシシの車体を――嚙み千切った。


『――』


 断末魔すら上がらない一撃。イノシシの前半分は周囲の黒が抜けてただの軽自動車の部品に戻り、青白い光のベアトラップの中で悲鳴のような金属音を上げて跳ね回り、落ちた。

 光は音もなく散っていき、ベアトリーチェが振り向く。

 ものすごいドヤ顔だった。


 ――美少女は、そういう顔でも絵になるんだな。


 その微笑みと立ち姿に見惚れることで、俺はいろいろな現実からしばらく目を逸らすことができた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る